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 のろのろと自分の寝床へ戻ろうとしていた彼は、何かの物音を聞いた気がして足を止めた。地下へおりる階段の中ほどである。


(なんだ……?)


 とはいえ、荒れ果てた古城はあちこちが(ひび)だらけだ。扉や雨戸の蝶番も外れている場所が多いし、ちょっとした隙間風でもの悲しくもおどろおどろしい、軋んだ音を立てるものだが。

 だからそれは、単なる彼の聞き間違いだったかもしれなかった。


(……いや。違う)


 彼はふいと体をめぐらせた。

 ひくひくと鼻をうごめかせる。


 違う。これは、人の匂いだ。

 緊張し、身体を強張らせた様子が手に取るようにわかる。それが空気を伝わってくる。恐怖のためにじわりと背中に伝う汗。その冷たい匂いまで、はっきりと感じられるようだった。


(人間がいるのか? ……しかし、なぜ)


 その疑問に答える前に、彼は足音をしのばせて、そっと階段をのぼり始めていた。





「どこだ……? どこだよ」


 足の震えを敢えて認識せぬようにと必死に自分の感覚を叱咤しながら、青年は一歩古城に踏み込んだ。

 話に聞いていた通りの、崩れかかった荒れ(じろ)である。もとは美しい中庭だったのであろう空間には、今や何もありはしなかった。地面はもちろん、壁にも一面に草が生え放題で、(つた)が縦横無尽に這いまくっているのがわかる。

 もとは回廊だったらしい場所の屋根は崩れ落ちて、ぽかりと空が見えるばかりだ。

 足もとからは暢気な虫の鳴く声が聞こえている。

 ときおり舞い込んできた風が、キイキイと錆びた蝶番の音を立てている。

 あとはほぼ、無音である。


──いや。


 ほら、あそこだ。

 かさこそと、その朽ちかけた扉の向こうから音がする。

 あれ、あっちの部屋からも。

 なにかがごそごそ動く気配が……。


(いや、いやいや。しっかりしろ)


 なにも考えるな。そして、目指すものを早く見つけるのだ。

 怪物の爪。それを持ってくるだけでいいのだから。

 それだけで、この苦行からは解放される。

 それで明日からは、晴れて自分はこの国の王太子として認められるのだ。


 王子はそろそろと足を進め、あちこちの部屋を見て回った。求める部屋は国王の謁見の間なのだから、そんなに小さいはずはない。扉を一瞥するだけで「ここは違うな」と思うところは素通りできた。

 ここも違う。これもはずれだ。

 王子は少しずつ城の深部へ踏み入っていく。


(ああ……。もしや)


 あれだろうか、と思える大扉の残骸らしいものが、ようやく前方に見えた時には、月はすでに真南からだいぶ西へとそれていた。

 王子は慎重に歩を進め、やっとその扉の前へ着くと、半開きになったその隙間から中を窺った。煤けたかび臭い臭いが鼻をつく。

 当然なのだけれども、誰もいない。

 もとは豪奢だったのだろう色硝子の嵌まった天窓は、無残に破れて崩れている。その間から、月明かりがふわふわと白い光を落としていた。

 王子はそれを頼りに中に入った。


 大理石を幾何学模様に敷き詰めた、もとはさぞや美麗だったのだろう床の上には、壁や天井の残骸が散らばっている。調度なども破壊されたり、崩れたり朽ちたりしたものばかりだった。

 王子はそれらを慎重に避けながら、広間の中央部を目指した。


(あれか……?)


 あった。

 小さな木製の円卓の上に、両手に乗るほどの大きさの、宝玉の嵌まった箱が置かれている。

 間違いない。

 あれの中に、爪があるのだ。 


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