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白い世界  作者: 青樹空良
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白い世界

 ミハイルの頭からは、イヴァンの絵が離れなかった。

 少女がミハイルの顔を描くことが出来ない理由はわかっているつもりだ。ミハイルに比べれば、イヴァンは数倍もいい男に違いない。いや、世界中の誰もがミハイルに勝っていた。


 イヴァンが帰っていってからもミハイルがフードを取らないのを、少女は不思議そうな目で見ていた。少女がそっとフードに手を掛けようとした時、ミハイルはその小さな手を払いのけた。

 びくりと少女が震えるのがわかった。

「すまない」

 ミハイルは自分でも、どうしてこんなに傷ついているのか理解できなかった。

 少女がミハイルではなく、イヴァンを描いた。ただ、それだけで。

「俺を描いてくれないか」

 ミハイルの言葉に少女は驚いたように目を見開いて、静かに首を横に振った。

 結果はわかっているはずだった。

「だったら、この家を描けばいい。俺たちの住んでいるこの家を。それなら出来るだろう」

 キャンバスに描かれた街並みのことを思い出したのだ。ミハイルを描けなくても、この場所なら描けると思った。

 だが、少女は再び首を横に振った。

「どうしてなんだ」

 ミハイルは静かに言った。

 少女は困ったような目でミハイルを見ている。

「どうして、イヴァンを描けて俺が描けないんだ!」

 いつの間にかミハイルは大声を出していた。

 イヴァンよりミハイルにずっとなついていると思っていた少女でさえ、本心ではやはりミハイルを嫌っていたのだ。ミハイルならともかく、この家さえ描くことが出来ないのはそのせいだと思った。

「やはり、この顔のせいなのか」

 ミハイルはフードを取った。

 怖がりはしないが、少女は言葉を発しない。

「なんとか言ってくれ」

 少女は困ったように首を振るばかりだった。

「イヴァンを描かなければよかったんだ。そうすれば俺はこんな風に悩まずに済んだ」

 ぽろぽろと少女の目から涙が零れ出した。何か言いたげにぱくぱくと口を動かす。だが、言葉は出て来ない。

「一人にしてくれ」

 このまま、少女といるのが辛かった。

「今は一人にしてくれ」

 もう一度ミハイルは言った。

 少しの間迷ったような足音が響いて、少女が出ていくのがわかった。

 ミハイルは頭を抱えた。長いこと、そうしていた。


 幼い頃に火事に遭って、他の家族はみんな死んだ。生き残ったのはミハイルだけだったが、顔には隠しきれない火傷の跡が残った。

 火事はミハイルが原因だった。幼い子どもの不注意で火事が起こってしまうのは不思議でもなんでもないだろう。問題はその子どもだけが残ってしまったことにある。

 ミハイルは周囲の人間に不気味がられるようになった。

 火傷のあと一度見たきり、ずっと鏡は見ていない。隠れて暮らすようになったミハイルを憐れんでくれたイヴァンだけが、時折ここへやってくる。


 薪が爆ぜる。

 ミハイルは顔を上げた。部屋の中が暗い。どれくらい時間が経ったろう。

 窓の外では風が吹き荒れている。ミハイルは素早く立ち上がった。いつもある気配がしないような気がしたからだ。家の中を探す。少女の姿がどこにもない。

 外に出ると、すでに辺りは暗闇だった。

 ミハイルは家の周りを見回す。ぐるりと家の外を回っても少女はどこにも見当たらなかった。

 ミハイルの頭は急速に冷え出した。上着を羽織るのも忘れてミハイルは駆け出した。耳には風の音しか聞こえて来ない。

 名前を呼ぼうにも少女の名をミハイルは知らない。少女がどこに行ったとしても、ミハイルにはもうわからない。

 家には真新しい少女の為の絵の具もスケッチブックもキャンバスも残したままだというのに。

 

 ミハイルは夜通し森の中を歩き回った。それでも少女は見つからない。自分を責めても仕方のないことだった。

 雪に埋もれてしまえば小さな少女は見つからない。最初にミハイルが少女を見つけたのは奇跡だった。

 ミハイルは少女を探し続けた。こんな夜に少女が一人で歩き回るのは命取りだ。

 イヴァンが戻ってきて、一緒に町に行ったという可能性すら考えた。考えただけで嫌だった。それでも、少女が生きているのならばそれだけでいいのではないかと思った。

 夜が明けてきた。暗い森が段々と白い姿を見せていく。


 ミハイルは闇雲に森の中を捜し回っていた。

 そして、見つけた。

 ミハイルは慌てて少女に駆け寄った。初めて会った時と同じように、眠るように少女は横たわっていた。その手は、どこかに向かって伸ばされていた。誰かに手の差し伸べるように。何かを求めるように。

 ミハイルは少女の手をそっと握る。

 その手は、すでに冷たくなっていた。


 遠くから犬の鳴き声が聞こえた。

 ミハイルは一睡もしていなかった。少女は家の裏に埋めた。少女がよく絵を描いていた場所だ。そうする他、何も出来ることが無かった。

 ミハイルはフードも被らず、家の中で一人座っていた。

「ミハイル!」

 大きな声を上げて、イヴァンが家の中に勢いよく入ってくる。

「大変だ! 聞いてくれ!」

 イヴァンの声は弾んでいる。ミハイルは答えなかった。

「あの少女、大変な人物だったぞ」

 ぴくりとミハイルの体が反応した。

「聞いて驚け、あの少女は行方不明だった天才画家だ。間違いない!これを見ろ!」

 イヴァンが手に持っていた本をミハイルの前に差し出す。ミハイルが抜け殻のようになっていることにすら気付かない。ミハイルの耳にはイヴァンの声は意味不明の単語としか聞こえていなかった。意識が別のところに飛んでいるようだった。

 ミハイルはほんの少しだけ視線を動かしてイヴァンの持っている本を見た。ミハイルは目を見開く。そこには見覚えのある絵があった。

 少女の家族の絵だった。

 笑っている少女がそこには、いる。

「あの少女はスケッチ旅行に行っている間に火事で家族を亡くしているらしい。遺体と対面はできたらしいが、状態はひどいものだったそうだ」

 そう言ってイヴァンはミハイルを見た。

「家族を思い出したのかもしれないな」

 小さくイヴァンが呟く。

 少女は最初、ミハイルをあの世から戻ってきた家族だとでも思ったのだろうか。

「でもまいったよ、これを見てくれ」

 イヴァンがページをめくって一つの文章を指差す。ページの真ん中にそれは大きくただ一行だけ書かれていた。もちろん、ミハイルには読めない。

『私はもう、大切なものは描かない』

 イヴァンの声に、ミハイルには聞いたことのない少女の声が重なって聞こえる気がした。

『それは、私の胸の中にしまっておく』

 ミハイルの目から何かが零れ落ちた。気付かずにイヴァンは続ける。

「どうやら、あの娘が描いた大切なものは、ことごとく無くなってしまったらしいな。気の毒に」

 残念だ、とイヴァンは首を振った。それから、肩をすくめる。

「つまり私は大切ではなかったということなのだなぁ」

 イヴァンは参ったというように冗談めかして笑った。そして、ミハイルの顔を見てぎょっとした。

「おい、どうして泣いているんだ」

 ミハイルは涙を止める術を知らなかった。

「そうだ、彼女はどこにいる?」




 ミハイルは今も白い森の中で暮らしている。

 山が切り開かれた為にあの森が無くなってしまい、ミハイルは別の場所に移り住んだ。

 それでも、ミハイルはまだ白い森の中にいた。

 少女が描いたあの森の中に。




※ ※ ※




 少女は歩いていた。あの家を飛び出してしまったことを後悔していた。こんなことをするつもりではなかった。

 ミハイルは知らなかったのだ。少女の過去を。

 説明すればきっとわかってくれた。なのに、一瞬我を忘れてしまった。

 吹雪で前が見えない。それでも少女は足を前に進めた。

 進むのだ。帰るのだ。

 ミハイルの待っている、あの家へ。

 あの家はすでに少女の家だった。昔、家族で住んでいた家と同じように暖かい。

 傷つけてしまった。大切な人を。

 帰って何か言わなければ。誤解を解かなければ。

 あの人と一緒なら、あの日失くしてしまった声もきっと戻る。

「……ミハ……イル」

 少女の口から出た言葉は吹き荒れる風で掻き消される。だから、少女自身にも本当に声が出ているのかわからなかった。

 足がもつれる。木の根に足を取られて倒れ込む。


 そして少女は、手を伸ばした。


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