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十九歳

作者: 鱒子

 二十二時二十二分と三分のあいだ。黄緑色の時計のなかの針が指している。

 私は疲れている。精神的なそれは、ひどくなると肉体的なそれまでも侵食するんだとはっきりと感じられた。幻滅なんてまだいい方で、もう顔も合わせたくないくらいだ。

 その男と会うこと自体はそれまでにも何回かあって、けれどサシでは初めてだった。

 私に彼氏がいることはもちろん言ってない。なぜなら出会いが一気になくなってしまうから(これは決していやらしい意味だけではない)。まあ訊かれれば答えるんだけど。

 でも急に態度を豹変させてまでそんなに攻めることないじゃない。焦れったい女の考えなのはわかっている。でも私のなかでは結構重要なことだ。

 ぼーっとしていたら三分が過ぎていたようで、私の待っていた電車がきた。夏の穏やかな空気が一掃された感じがした。終点がちょうど私が乗り換える駅までだったから、読み通り空席をつかまえることができた。

 異性の友達というのは、やっぱり難しいのかもしれない。そうだと正々堂々(親にでも)言い切れるのはたった一人、海野くんしかいない。

 男友達の候補――卒業しても付き合いがあって、そんな風な関係になるとぼんやり考えていた人たち――は何人かいた。当時それまでは恋愛の素振りなんか一切なくて、互いをナイ、と考えていたはずだった。その延長線上のつもりでいたから、彼氏になるなんて脳裡をよぎったことは夢ですら見なかった。

 卒業してすこし経ってからだった。人肌恋しくなって彼女が欲しくなったのか、急に下心を出し始める一人がいた。

 そういうのはびっくりしてしまうくらい分かりやすい。これはきっとその受け手だからそこまで敏感になってしまうもので――話す内容は代わり映えないのに、その端々からちゃぷんと音を立てそうなくらい滲み出ているものだ。

 私は必死にそれに気づかないフリをして、作られたムードを破壊し、決定的な言葉に先手を打ってしのいでいた。どうせ鈍感なやつ、とか思われていたんだろう。

 乗り合わせた人たちが一様にして席を立った。私も同じようにして終点に降り立った。こんなに早いうちに解散するのはいつぶりだろう。

 彼のトラップを私がずっとかわし続けたせいか、いつの間にか連絡をとらなくなった。私の思惑にはきっと一生気づかないんだろうな。ところが彼はただ時期が一番早いだけに過ぎなかった。それから他の候補のひとたちも同じようにして疎遠になっていった。

 ここの乗り換えはいつもかみ合わせが悪い。幸いなことに、駅ナカにお店が何軒かあった筈だから、暇つぶしにのぞいてみることにした。

 たくさんあるといっても既に閉まっているところも多く、ケーキ屋さん、アクセサリー屋さん、本屋さんぐらいしか回るところがなかった。

 この時間のケーキはほんとうに罪だ。見ちゃいけないと思いながらも足が伸びてしまう。ケーキ屋さんのバイトだけはしないと決めてある。きっと天国なんだろうけれど。

 物欲をかき立てないために、次のアクセサリー屋さんもほどほどにして本屋に入った。

 買っても溜まってしまうだけだから、基本雑誌は買わない。そのコーナーを一通り目に映したあと、腕時計をみてホームに向かった。

 腕時計とか指輪を自分で買ったことがない。それらはプレゼントされて手に入れるものだと信じている(これはどうしても賛否が分かれてしまう)。こだわりがないのかと訊かれると、そういうわけじゃない。それを説明しようとしてもうまくできたためしがない。

 私にとって最後の電車に乗り込んで、先々月の誕生日にもらった少し小さめのバッグからスマートフォンを取り出すと、ラインの通知があった。五分前のものだった。

 内容は言ってしまえば至ってどうでもいい――つまり事件性がない――ことだった。それでも嬉しかった。何といっても彼氏からだったから。

 彼氏のことはちゃんと好きだ。付き合うときはそうじゃなかったとしても、そのうちそうなれるのは私の長所だと思っている。履歴書に書き入れたいくらい。

 でも、その他の男との関係は断ち切れない。断ち切らない。

 彼氏とセフレと男友達の枠組みの基準みたいなのがきっとあって、それについて自覚はない。けれどその線引きは決して覆らないし、そうなってはいけないの。傲慢かもしれない。そう感じることはあっても変わることはない。

 自然ににやけてしまうのを抑えながら返信した。気づかせない。いまの状態を維持したいのなら、それは私のなすべき義務だ。

 二十三時過ぎ。家につくのはきっとそれくらい。ほんとうなら零時には眠りたいのだけれど、明日は二限からだからまあいっか、と諦めをつけた。




 八時三十分ちょうど。いつも通りの寝覚めだ。

 寝坊で遅刻したことは一度としてなかった。二度寝をしたくはなるけれど、実際にするのはそれをしてもいいときだけ。二日酔いなんかも滅多にない。

 身体を起こしてカーテンを開く。覚めきっていない眼では真っしろにしかみえない。明るさをならそうとして部屋に目を戻すと、ラインがきているのに気がついた。私が寝てすこし経ってから送られたみたいだ。

「明日ヒマ?」

 セフレ②からだった。申し訳ないのだけれど名前がちゃんと覚えられていない。明日、とはつまり今日のことなんだろうな。

 別にどっちでもいいと思った。そんな気分ではないけれど、そんな気分にもなれる。気が向いたら返そうと思った。確か②くんは返信が遅くても何も言ってこなかった気がするから。

 この時間は家に誰もいない。お父さんは会社だし、お母さんはパート、妹は高校。狭く感じていたリビングも今はわたしが占有している。


 朝食もそこそこに済ませてメイクまでルーティン通り。もしかすると②くんに会うかもしれないから、ちょっとだけ濃いめにした。

 お金を出してくれるなら、その分綺麗でいよう。いつしかそんなマイルールができあがっていた。

十時五分を少し過ぎたかな。ちゃんと戸締まりを確認して自転車に跨がる。もう肌が熱を帯びてきた。いつもより速くこぐことにした。


 十時四十四分着。この電車は私にとって絶妙だ。ちょうど二限の十分前に着けるんだもの。

 体調不良になろうとひどい雨が降ろうと私は必ず講義に出る。優等生とからかわれるけれど、違う。それが私にとって当然だから。今日みたいな最悪な気分だったとしてもだ。

 昨夜のことをずっと引きずっている。

 嫌なことがあったとき、それを拭ってくれるくらい嬉しいことが起きてくれないと消化できないのはずっと小さい頃からの私の短所だった。現にここまでたどり着くまでずっとそのことばかりが頭をかけ回っていた。


 教室に入ると、いつものグループが目についた。みんな平均より可愛い。そのなかでは私は埋もれてしまうけれど、単体だとそこそこだ(言わば「お世辞なら可愛いと無理なく言ってもらえる顔」だ)。

 そこにいつも通り混ざりにいくと、その内の一人が何やら焦っているみたいだった。おはよ、と声を掛けた。みんな振り返って口々に返してくれた。

 事情をきくと、今日この時間に提出の課題をすっかり失念していたらしい。私からすると、難しくはないけれど時間が掛かってしまうタイプの課題だったから、さっき始めたのなら厳しいだろうと思った。それでもとりあえず教授が来るまではみんなで手伝うことにした。

 十一時きっかり。始業のベルと併せて教授が入ってきた。私たちは結局志半ばにして、ぞろぞろ離散して席についた。

 出席は必ずするけれど、受講態度は良いとはいえない。数少ない面白そうな講義を除いてこうだから、私は優等生ではない。とくにこれは必修の英語というのも起因している。

 さっきまでみんなで面倒をみていた子にちらちら目線を送りながら彼氏からのラインを返して過ごした。


 為になっていると思えない講義は尋常じゃなく時間が遅い。昨日の英会話の授業みたいに海野くんと席が近かったらよかったのに。

 課題もきちんと提出して(この調子でいけば「A」もカタいかもしれない)、昼休みになった。完璧とはとても言えないけれど、あの子は出すだけ出したらしい。

 昼休みもいつも通り。さっきと同じグループ――他学部の年上彼氏とランチの子を除いて――で、昼食をとりながら他愛もない話をした。今日のバイト、共通の講義、昨日あったこと。この他愛のなさは、我々女子にとって不可欠なんだと思う。

 火曜日はこの後三限を空けて四限までだ。

 昼休みが終わって解散したら課題の確認でもしようと思った。いつも一緒に過ごす子は、今日は用事があるらしいから。

 四限はこれまたつまらない。うちの学部特有の授業だけれど、これまでに受けた他のところで聞いたものをまとめたようなものでしかない。

 シフトも今日は入れていない。こんな風に、その日一日を何か一つのこと――今日で言えば講義――だけで過ごすのは嫌だ。自分がそれに侵されているような気がして。

 何かイレギュラーなことを企てようか――かといって誰かを突然誘うキャラでもないし、それほどの口実も思い浮かばなかった。このまま何もなかったら、②くんでいっか。


 三限のベルが構内を響き渡る頃には、私は学食でひとりぼっちだった。予定通りこの場で課題をいくらか片付けようと思った。そして、まっ先に思いついた一つをファイルごと机に置いた。

 私は今、大学に侵食されている。これは警告に近いものだった。危険信号、にも近い。

 ひと度そう考えてしまうと、すっかりやる気が失せてしまった。何しよう。あ、と思い出してまたバッグを探ってみる。けれど残念なことに、この間海野くんから借りた本は私の部屋の、多分ベッドあたりに置きっ放しだった。


 十五時五分まで、あと約六十分。

 そのまま私はとくにやることも思いつかないまま時間を持てあましてから、やっぱりイレギュラーを求めて、とりあえず大学構内から出ていた。革命を起こしてみたかった。

 他人に当たったり心配を買ったりするようなことは絶対にしないことを心がけている。ふつふつと、見かけの上では穏やかになりながら絶えず煮続けても、昨夜のことは溶けきらないままだった。これはもう意地だ。相殺してくれる何かを探す旅に私は発ったのだ。

 もう通いはじめて一年は経つけれど、大学の周りというのは開拓していなかった。サークル――二年生になってから二度しか顔を出していない――の飲み会も、友達と遊ぶのも駅の方に寄っているせいだ。

 いつもの駅での騒がしさと裏腹に、大学の周りは不吉な予兆を与えそうなくらい静かだった。すれ違うのも散歩中のおじいさんやおばあさんばかりで、穴場を見つけて嬉しいような、それでいて私はひどく場違いな気持ちになった。


 いつも使う入り口と真反対のあたりまでくると、私は小さい喫茶店を発見した。

 ドアを押して踏み込むと、席数は思っていたよりもずっと少なかった。客は女性ばかりで、ここの誰もが私より年上だということだけがはっきりと分かった。

 そんなに長くいられないから、なんとなくカウンターは避けて外の通りが見やすい席を選んだ。メニューを受け取りはしたものの、もう決まっていた。

 ブレンドアイスコーヒーを、ほぼ動物的に注文してから、正方形で青系に統一されたハンカチで汗を拭いにかかった。これは当分おさまらない気がした。

 数学の教科書に載っていそうなほど綺麗な、三角錐を逆さにした容器になみなみ注がれてそれは到着した。想定していたよりもずい分と多く、時間内に飲みきれるか怪しいくらいだった。

 勢いでこぼさないよう慎重にミルクを垂らしている頃には、汗はすっかり止んでいた。

 落ち着いて飲み始めてから、ようやく気がついた。私がよく見かけて入る喫茶店よりだいぶ静かすぎる。BGMは意識を凝らさないと耳に入り込まないし、他の客の話し声は、その内容を聞き取ることは不可能だった。

 なんとか飲みほして、カウンターの端でお会計を済ませる。何か言われるまえに、また来ます、と心から言うことができた。ここの一員になりたいと思った。


 つまらないとわかっていても、ちゃんと出席をする。ときどき囚人になった気になる。これは大げさなんだけど。

 必修でも何クラスか合同のもので、自由席だ。毎回同じグループで座るけど、毎回少し違う。今日は海野くんの前だ。多分。

 つま先を立てて座っていると、やっぱり私の靴底をとん、と蹴ってきた。もう、と振り返ると海野くんは笑っていた。

「なんだ、今日は不機嫌なのかと思った」

 そんなことないよ、と返すとふーん、で終わった。妙に鋭いくせに追求してこないのが海野くんらしい。そこが気に入っているんだけど。


 二限とほぼ同じようにしてやり過ごした。ベルが鳴り終わって各々が席を立つ。アイスコーヒーのせいかトイレに行きたくなったので、先に帰ってて、とグループと別れた。

 十六時五十分の五限のベルだ。足は正門に向かせながらさっきの子たちに追いつきにいくか迷っていると、ぐいっと右肩を後ろに引っぱられた。振り返ると、したり顔の海野くんがいた。驚かせないでよ、とすねを小突くと笑った。反省の色はみじんもない。

「ねえ、これから呑みにいこうよ」

 深く考える前に口をついて出ていた。は? と断るように見せかけて、

「いいよ」

 と海野くんは前を向いて言った。そう言ってくれると思ってた。②くんに、「今日ムリごめん」と返信しておいた。


 何軒も候補に入れながら迷った挙句、どこにでもあるチェーンの居酒屋にした。戦略的妥協だね、と海野くんは言った。

 他愛もない話をしていたつもりが、彼氏のこと、そして昨夜のことまで話していた。都合が良いと言われれば否定はできない。きっと海野くんは言いふらさないし、害もないから。でもそれだけじゃなくて、話して()()()のだった。そんな空気を持っている。

 否定も肯定もしないで、私の話を聞きながら愉快そうに四本目のタバコに火を点けている。ここのお茶漬けうまいんだよね、とか伏し目がちに言ったりして。

 海野くんは間違っても下心をちらつかせたりはしない。暗黙の了解はほんとうは好きじゃないけれど、これこそ戦略的妥協、なのだ。海野くんはこれ以上お互いを侵し合うのを好まないんだと思う。それは私をずっと安心させる。

 つい酔っ払って、

「海野くんちで明日までのもうよ」

 とこぼしてしまった。

 それでも絶対に「いいよ」とは返さない。はいはい、といって流してくれた。それはきっと海野くんの、私といるときのマイルール。

 二十三時半。久しぶりに手首に目を向けた。楽しいときは時間が早いから、まったく不釣り合いだ。しょうがない、昨夜のことは今夜でチャラにしてあげよう。私は店員さんと目を合わせてから、空中に向かってサインした。


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