4章―5 囚われの姫君、囚われの心
レオが食後のコーヒーに口をつけて顔をしかめる。なるほど、イーの言う通り、コーヒーの出来はそこまでよくないようだ。いや、もしかしたらレオはコーヒー自体が初めてなのかもしれない。あの苦みには、なれるまで時間がかかるものだ。そういう僕はコーヒーが苦手なので強制オレンジジュースだが。
イーが、飲んでいた食後のコーヒーのお代わりをもらおうと、店主に声をかける。
「マスター、ちょっといいかな」
「あたしゃね、じいさんとともに信託に選ばれてね、近々神の眼の本殿に行くことになってねぇ」
ソフィおばあちゃんは、イーの問いかけを完全に無視して、唐突に話し始めた。
「へぇ、それはよかったな。信託はなかなか受けられるものではない貴重な機会だ」
イーの呼びかけは完全にスルーされたのだが、イーは特段怒ったり戸惑ったりもせず適度に会話を続けている。
後で聞いた話だが、年のせいか、ソフィおばあちゃんが話の内容関係なく、自分勝手に話し始めるのはよくあることらしい。というより、ソフィおばあちゃんに関係なくこの街の人間全体がその傾向があるらしい。
ソフィおばあちゃんが一通り話したいことを話した後、コーヒーのお代わりを淹れ、二人の会話がひと段落したころに、僕はイーに問いかけた。
「イー、信託って何?」
そう言ったとたん、イーが一瞬すごい形相で睨んできた。
「ユー、誰が聞いているかわからない場所だ」
つり目で睨まれてしまったら、すごく怒っているように見えてしまう。ビクリとしてしまう。それを見たイーは、少し驚かせてしまったと、困った顔になっていた。
そんなイーの顔を一瞥したレオが、コーヒーカップを下ろしながら静かに僕を諭す。そんなに僕、まずいことを話したつもりはないんだけど。
視線を移動させ周囲の人が何も変わりがないことを確認してから、ふぅ、と小さくため息をつき非常に聞きにくい小さな声でイーは話す。もう、目はつりあがってはいない。
「信託を知らないということは、国教を知らないも同義。気を付けろ、非国民には生きにくいぞ、この国は」
「よくわからないけど、けっこう危ないことを僕は言っていたわけ?」
「……そうだ、この国は『神の眼』という宗教が基礎にできている。いや、信者が集まってつくった国といってもいい」
僕も同じくヒソヒソ声で話す。レオもちゃっかり混ざっている。はたから見たら喫茶店で男三人が顔を近づけて内緒話している非常にシュールな図になっていると思う。レオは周囲を気にしながら、イーに聞いた。
「国教って……アイのいた建物……『神の眼』のことか?」
「そういえば、最初にそんなことを言っていたような」
世界移動からのドタバタ寸劇の合間に、イーがそう言っていた。「お前らは神聖なる『神の眼』に侵入した」と。
あのときは状況がそれどころじゃなかったから気にもしていなかったけど、僕たちがいた建物は、この店に入るまでに見た建物とは規模からして違うものだった。あのアイさんのいる建物……『神の眼』が一本、雲にも届くような高さでそびえたっていて、その塔のような建物を見上げるかのように徐々に建物が低くなっていた。街に出て少し歩いただけでも、街全体が『神の眼』を中心として同心円状に作られているというのがよくわかる。それだけ、僕たちのいた建物は特異なものだった。
「あそこは、国教『神の眼』の総本山にあたる建物だ。神の眼となり声となる、この国のトップである巫女があらせられる場所だ」
「トップがいるところ……日本でいうと……皇居とか首相官邸かな。すごいところに住居侵入していたのか……」
「普通ならその場で殺される」
事もなげに言い切るイー。刹那、息が詰まるけれども、すぐに考えを改める。そりゃそうだ、僕たちはそんな街、というか国の中心にいきなり不可抗力だったとはいえ不法侵入しているわけだ。それくらいの処罰があるほうが普通なのかもしれない。
「首繋がっていてよかった……」
「さすがに全く知らない世界で死ぬのは悲しいな」
僕とレオはため息交じりに、生存を感謝した。どうにも、僕は世界を移動する旅が始まってからというものの、ライオンみたいな化け物に食べられそうになったり、脅しとはいえ世界最強に殺されそうになったり、演技とはいえマスクをつけた男に殺されそうになったり、死亡フラグの建築だけはうまいのかもしれない。できれば恋―関係のフラグを建てたいところだが生まれてから死ぬまでそれ関係の縁は何故か僕にはなかった。
と、そこで不思議なことに気づく。
「どうして、僕たちをかくまってくれたの?」
「それは、アイの命令があったからだ」
イーは、今はここにいない彼女を思い出したのか少し頬を赤らめ、緩めた。ん?と、レオが少し怪訝な顔をする。きっと僕も同じ顔をしている。
今のどこに、頬を赤らめる要素があっただろうか。
「アイさんが?」
「そう、アイが、俺にお前らを保護するように頼んできた。一週間くらい前だろうか」
「一週間も前から?」
「そういえば、あんたたちは、俺たちが何者なのかわかっているようだった。どうしてだ?」
アイさんは、僕たちのことを「異世界から来た」と明言した。普通は、しかも会った瞬間にそんなことを考えることはできないはずだ。そう、僕たちが質問すると、イーは口をつぐんでしまった。
その表情は、何か、感情を表にださないよう、必死にこらえているようだった。
「……アイは、『神の眼』の巫女だ。この国の宗教の最高権力者だ。あんな、少女が、だ。それには理由がある。アイにしか務まらない理由が」
気づけば、店のなかには誰もいなくなっていた。先ほどまでチラホラ入っていた客も、店のオーナーであるソフィおばあちゃんですらも。店の中に僕たち客を残して出て行ったのだ。
イーさんは、声と感情を押し殺している。
「アイは、未来が視える。文字通りの『神の眼』を持っている」
僕はそんなばかな、と馬鹿にする気も起きなかった。何言っているんだコイツ。
「そんなバカな話があるか」
レオはそうでもなかったらしい。人がいなくなったのをいいことに、いつも通りの会話の大きさで会話する。
「本当だ。といってもお前らには信じては貰えないだろうが、この世界では真理なんだ。この世界にいる間は疑ってはならない」
ぐ、と言葉に詰まらせる僕たち。そんな僕たちをよそに、イーは店の時計を一瞥し、そろそろ出ようかと、三人分の代金をカウンター内に置いていった。僕たちは慌ててお礼を言いながらそれに続く。
店から出たとたん、アイドルのコンサート会場かというぐらいの熱狂的な人々の声援が聞こえてきた。見た方が早いと、イーさんは言って、僕たちの先頭を急ぎ足で歩く。
人々は一か所に集まっている。街のなかでもここは一番大きな通りらしい。天にも届く『神の眼』の建
物を一望できるような広場で、群衆の視線のさきには、巨大な、それこそ都会の大型ビジョンでもここまでのサイズのものはなかなかないだろうというくらいの、テレビモニターが設置されている。
「アイ様!」「アイ様!」「神の眼万歳!」「神の眼万歳!」
民衆は、馬鹿になったかのようにその二つの言葉だけを繰り返す。
大型モニターには、つい先ほどまで僕たちが話していたアイと、アイのいた無機質な機会に囲まれた部屋が映されている。もう数人ほど、部屋の中に人がいるみたいだが。
熱狂的な民集。掲げられるアイ。まぎれもなく、彼らのなかではアイは神様だ。
町中の最大のモニターに写されるのは、アイ、それは間違いない。でも、先ほどまでの無邪気な少女じゃない。静かに目を閉じて微動だにしない彼女は本当に同一人物なのか疑わしいくらいだ。
「アイ様!」「アイ様!」「神の眼万歳!」「神の眼万歳!」
画面の中で、小さく息を吸ったかと思うと、アイさんが、静かに眼を開いた。
そのアイさんの一挙一動を見て、僕は、これはアイさんであって、アイさんではないと確信していた。
感情を持たずゆっくりと開かれた眼、あれは、強い意志を宿す、人の未来を預かる、王の眼だ。年相応か、それより幼いくらいの、可愛らしい少女のアイは、今はもうどこにもいない。
万歳コールが波を引いたかのように一斉に静まり返る。みなアイの言葉を一言も漏らすまいと、真剣だ。
張り詰めた空気を裂くように、アイが語る。
変わらず、安寧は約束されている
安心せよ、民は神の眼に見守られている
わぁぁ、と、声にならない叫びが広場中を反響する。ブツンと音をたてて、アイさんを映し出していた映像は消え、企業のCMが何事もなかったかのように入る。人々は各々解散していった。
人々が集まり、解散するまでの挙動をすべて眺めていた僕とレオ。それでも、何が起こったのかいまいち掴めていない僕たちのためにイーが説明してくれた。
「今のは、一日に一回ある、礼拝の時間。その時だけ、アイは民衆の前に、画面越しだけれど姿を現す」
「すごい人だかりだ。街がここ以外空っぽになったようだった」
「……アイはこの街の、国の神なんだ。基本的に出歩ける人間はみなこの広場に集まり、神の姿を拝見し、神の声を拝聴するんだ」
あの場には、本当に民衆はアイを見るためだけに、あの人数が集まっていたのだ。それにより、彼女が、この国でどれだけ重要な地位にいるということが思い知らされる。
じゃあ、その国のトップを、敬称もつけずに呼び、親し気に、分け隔てなく話をすることができるイーは何者なんだろう。
ちらりと、顔を盗み見たのに気付いたイーが、唐突に僕たちに問いかける。
「お前たちは、ウイルスというのをアイのところでみただろう?」
「黒い影みたいな生き物だよね」
「そうだ。ウイルスはこの街に定期的にやってきて暴れていく怪物だ。実際はこの国が生まれるまえから存在したらしいがな」
そして、俺はそのウイルスを駆逐する軍隊に所属している、と合わせて続けるイー。僕の疑問はお見通しだったみたいだ。しかも、ただ軍に所属しているだけではなく、理由があって、特別にアイさんのそばにいることが許されているらしい。
「アイは目が見えない。かわりに、さっきも言ったが、未来を見ることができる」
「それとウイルスが、なんの関係が?」
「アイはその未来を見る眼を使って、事前にウイルスが出る場所を察知しているんだ。おかげで、被害が最小限に抑えられている」
「まぁ、事前に災害の場所がわかるならこれ以上都合のいいことはないよな」
レオは過去に、厄災として魔物の強襲を受ける被害を受けた世界に住んでいた。その経験から、そう答える。単純に、世界を守る責任を有していた世界最強の人間であるがゆえに、災害の起きる場所が分かれば、と歯がゆいをたくさんしてきたのだろう。
もっとも、その厄災の原因が根本には自身にあったことが判明した今、他にも複雑な感情を抱いてはいるのだろうけど。
レオは顔には出さないように努めているんだろうけど、少し声が震えていた。イーは、それには気づかないふりをする。この二人の間に、いつの間にか言葉にならない信頼関係が生まれている。僕には、まだ入ることはできない、壁を感じる距離感。
それは、民を守るという重責を負う立場にある人間同士だから感じあえるものがあるから、なのかもしれない。
「昔はそれこそ、あのウイルスの襲撃によってたくさんの人間が死んでいたらしい。それが、未来を予知するという巫女が現れたことによって人類は徐々にウイルスに対処する方法を覚え、発展していった……それでできたのが今のこの国になる、と聞いている」
「だから、『神の眼』が国教なのか」
「国としてまとまったのはそう遠くない過去の話だ。それでも、未来を予知する巫女は『神の眼』を持つものとして、ずっとあがめられている」
イーは、ふと、視線を外した。そして、自分に言い聞かせるように、誰にいうでもない独り言をつぶやく。
「本当に、アイは神様になってしまったんだ……」
彼が思いをはせるのは、どこなのだろう。遠い過去か、届くことのない未来か。
アイのことを考えるときのイーは、愛しさと、悲しみに満ち溢れていた。その表情には、人生経験の少ない僕でも察するものがある。
イーは、彼女のことを誰よりも――しているんだ。
チリリと、僕の頭にノイズが走った。