若き殺し屋達
第一章 [血に染まったクリスマス・イヴ] 前編
ゴーンゴーンと教会の鐘の音が頭の奥まで響く。
「寒い…」
身体が体温を失っていく。
手についた生温い液体の色すら認識出来ない。
心臓の鼓動だけがやけに早い。
「許さない…」
あのクリスマスの夜から何もかも失ってしまった。
クラスメイト、ストリートで暮らす小さい友人達
そして大好きなじいさん…
そしてオレは平穏無事の世界から真っ暗な闇の中へと突き落とされたのだった。
1
学校終了のチャイムが教室内に響き渡った。
オレは茶色のスクールバックに無造作にノートと教科書、それと今日返ってきた学期末のテストを放り投げ、教室をとび出した。
「今日こそは行かないと…。」
右手首につけた腕時計を見ると、針は四時三分を指していた。
この時計はじいさんが昔、何かの祝の時にくれたもので、デザインは少し地味だが、長年使っているのでこれが一番手首にしっくりくる。
急ぎ足で階段を駆け下りる途中、後ろから来たクラスメイトの女の子に呼び止められた。オレが立ち止まり振り返ると、その子は息を少し切らし、赤いリボンでポニーテールにくくった栗色の髪の毛を揺らしながら、オレのいる段まで下りてきた。
おそらく一番に教室を出たオレを見て、慌てて追ってきてくれたのだろう。
「何か用?……えっと…。」
この子……名前、何だったっけ……?
オレは今年の九月に、ここの進学校に入学してから、もう三ヶ月以上もたったのだが、まだクラスメイトのことをよく知らないし、名前すら覚えていなかった。
しかし、この子に関しては少しだけ憶えがある。入学してきた当初から、クラスメイトの男子達が噂していた。オレは頭をフル回転させ、必死に記憶を手繰り寄せた。
確か……お菓子などを作っている大手企業、何とかカンパニーの社長の娘で……名前、名前は……。
「何か用?キャロル…?」
「憶えてくれてたんだ、嬉しいわ、クリストファーフィリップ。」
「クラスメイトだし、それに…有名だから、ええと、その……いい意味で。」
オレが言葉につまりながらそう言うと、彼女「キャロル・ウォルコット」は少し顔を赤らめ、可愛らしくにっこりと微笑んだ。
その笑顔にオレの心臓がドキリと跳ねた。普段から滅多に女の子としゃべることがなく、緊張しているだけかもしれないが、そんな事とは関係無く、彼女の笑みは魅力的だった。
キャロルはピシッとした黒のブレザーの上に、バーバリーチェックのマフラーをして、薄茶色のコートを着ている。そのどれもが高級そうなものばかりだ。さすが、社長令嬢といったところか。
丁度、オレの目線の高さに彼女の頭の天辺がくる。思ったより小柄だ、百六十センチメートルもないのではないだろうか。
栗色の柔らかそうな細い髪と、それと同じ色のパッチリとした大きな瞳が窓から射す夕暮れの光を反射し、輝いていた。
そして、その場にいるだけで空気を和らげるような清楚で優しい雰囲気。これこそが社長令嬢など関係なくして、彼女の持つ最大の魅力なのではないだろうか。
そんなお嬢様の彼女がオレに、一体何の用だろう。
「明日うちの会社で、新製品の試食会を兼ねたクリスマスパーティーをするの。よかったらあなたも来てくれない?」
彼女は濃い青色のカバンから、一通の封筒を取り出し、オレの前に差し出した。
封筒には、ワインレッドと黒の地に「S」という文字と、葉の模様があしらってあるシールが貼ってある。
「これ…招待状、場所を記した紙も入ってるから。」
「あー…。」
オレは彼女の大きな瞳から視線をそらした。
キャロルは社長令嬢で、しかも容姿抜群。そのため周りにもちやほやされているにもかかわらず
気取ったところがなく、穏和な性格をしているので、クラスでも男女関係なく人気があった。
そんな彼女にパーティーに誘われて、普通の男子なら一言返事で食いついているだろう。
オレも気持ちの中ではそうだった。しかし、それを態度に出せないある問題が二つあったのだ。
「…ごめん、明日は親戚の家でパーティーがあるから、悪いけどいけないんだ。……本当にごめん。」
オレは彼女からの誘いを丁重に断り、軽く頭を下げた。
しばらくの間……、といっても二、三秒程度のことだったのだろうが、長い沈黙が感じられた。
「そっか…なら仕方ないね。パーティー楽しんできて。」
キャロルはそう言い微笑んだ。しかしその笑みは先ほどとは違い、わずかに曇っていた。
それを見て、罪悪感がオレの胸に突き刺さってくる。気まずい空気が流れ、彼女は、ハっとして招待状をバックにしまおうとした。
「あ…待って!」
オレは無意識のうちに、とっさにそれを止めた。すると彼女は、ビックリした様子でオレの方を向いた。
「それ、もらっていいかな?」
オレがそう言うと、キャロルは一瞬キョトンとした。
無意識のうちにしてしまった行動に自分で戸惑いながらも、オレは慌てて理由を頭の中で探した。
「いや、も……もしかしたら行けるかもしれないから。」
行ける可能性はほぼ無いに等しいかもしれないが、こう言っとけば最悪、印象は悪くならないだろう。
それに……せっかくこの招待状は自分のために用意してくれたのだから、もらうくらい許されるはずだ。
キャロルは手を止めこくりと頷き、再びオレに招待状を差し出した。
「ありがとう。」
オレが礼を言ってそれを受けとると、キャロルの表情が少し明るくなった気がした。
何か彼女がこちらに話しかけようとしてきたが、長居は無用だ。
「じゃ、急ぐから。メリークリスマス。」
半ば強引に彼女の言葉をさえぎるようにしてそう言い、オレは招待状を上着のポケットに押し込んだ後、その場から逃げるようにして階段を駆け下りた。
街中に響き渡る教会の鐘の音、街はクリスマス一色に彩られていた。帰り道の商店街では今年もウィンターセ―ルで賑わっている。
ショーウィンドウには豪華なサンタクロースの飾りつけ。そして、それに映る自分の姿。
金がかった茶髪に色素の薄い肌。深いコバルトブルーの切れ長の瞳。女の子にも見えてしまいそうなくらいの線の細い顔立ち。
背丈は百七十センチ前後だろうか、最近計ってないのでよく分からない。
ハァ、とオレがため息をつくと、白い吐息がわずかに漏れた。オレはポケットに入れた招待状を取り出し、それをじっと見つめた。
「行きたかったなぁ、……本当は………。」
____本当は、親戚の家でパーティーなんてなかったのに。
それに、大体オレには血の繋がりのある親戚なんていない。
どうせ行けないと決まっているのなら、最初から誘われなければいいのだが、この人目を惹く容姿のせいで、昔から何かと声を掛けられるのだ。そしてその度決まって、ああして断らなければいけないので、罪悪感に苛まれる。
はっとしてオレは自分の両頬をパンと叩いた。
「ダメダメ。じいさんの言いつけだもんな。」
そう、この言いつけを破るわけにはいかない。これは恩返しなんだから。
「でも…、クリスマスパーティーに誘われたのなんて初めてだよな…。」
オレはそう呟き、胸の奥に残る未練を振り切るようにして、目的地へと向かった。
途中、商店外に並ぶ小さな菓子屋により、商品棚に並べられたチョコバーをカゴいっぱいに詰めた。しかし、財布の中身を確認して、少し思いとどまり、数をきっちり三十本に減らした。
「喧嘩にならないようにしないとな。」
中途半端にあまってもどうせオレは食べられない。これもじいさんの言いつけの一つ。
レジに持っていく途中、ショーウィンドウに並べられた高級そうなチョコレート菓子に目が留まった。
一箱四個入りのウィスキーボンボンの値段を見て、桁が一つおかしいのではないかと自分の目を疑った。
「十五…ポンド…!?」
そのチョコの値段は、オレの手元にある三十本のチョコバーの実に二、五倍の値段。
ワインレッドと黒の葉の模様があしらわれた箱に大きくメーカーの名前が記してあった。
「シュガーカンパニー……。もしかして……。」
オレはポケットの中の招待状に貼ってあったシールと見比べた。デザインが同じだ。
おそらくあの「キャロル・ウォルコット」の父が経営している会社なのだろう。
「オレにはきっと一生縁の無い食べ物なんだろうな…。」
そんなことをぼやきながら、会計を済ませるため、オレはレジの列に並んだ。
長い待ち時間から開放され、ようやく会計を終えたオレは、三十本のチョコバーが入ったビニール袋を片手にぶら下げ、店を出た。
腕時計の針は四時二十七分を指していた。
2
オレは今、血の繋がりのないじいさんと二人で、ロンドン郊外にある古びた一軒家に住んでいる。
そのじいさんというのが不思議な人で、無駄なことは一切口にせず、一日中ロッキングチェアに座り、難しい生物学の本やSF小説を読むか、鼾をかいて寝るかして毎日暇を潰している。そうやっていつも働いている様子はないのに、二人が暮らすのに不自由しないお金がいつもどこからか出てくる。オレがロンドン有数の進学高校に通えるのもそのおかげだ。
また、じいさんは映画好きで、昔はよく一緒に見に、街の劇場へ行ったりしていたのだが、ここ四年間彼は滅多に外に出ることがなくなった。夕飯の買い物なんかも全てオレが学校の帰りに済ませる。
体がやたら丈夫で、病気や怪我をしているところなど一度も見たことが無い。規則正しい生活が健康の秘訣だとじいさんはいつも言っている。
年は六十歳前後くらいだろうか、名前もゴルドンというファーストネームしか知らない。
じいさんは一体何者で、どうしてオレを育ててくれているのか、未だによく分からなかったが、そんなことはどうでもいいことだった。
こんなオレを8年も可愛がって育ててくれているのだから。
ようやく目的地に着くことができた。四時三十二分。
先ほどの商店街から徒歩五分ほどの場所にある、クリスマスの賑やかさとは無縁な薄暗い路地。
オレにとって懐かしい場所。しかし、辛い思い出もあるこの場所。
一歩足を踏み込み、すうっと冬の冷たい空気を吸い込んだ。そしてオレは路地に向かって大声で叫んだ。
「メリークリスマス!プレゼントもってきたぞー!」
狭い路地にオレの声が反響した。しばらくすると、古びた建物の裏から十人の子供たちがぞろぞろと姿を現した。
「お兄ちゃん!久しぶり!」
一人の男の子が元気にそう言い、オレの足にしがみついてきた。
「よお、風邪ひいてないか?」
「うん、大丈夫だよ!お兄ちゃんこそ最近来てくれなかったから皆で心配してたんだよ。」
心配…か、こんなに小さい子供達に心配されるなんてなんだか照れくさいけど少し嬉しくも思う。
「ゴメンな、テストがあってしばらく来れなかったんだ。」
「てすとって?」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「難しい問題がたくさん書いてある紙のことで……えっと…。」
あえて口で説明するのもなかなか難しい。オレはスクールバッグから今日返ってきたテストの答案用紙を取り出し、男の子に見せてやった。男の子はそのテストをしげしげと見つめ、「丸がたくさん付いてる。」と、キョトンと一言感想をもらした。
テストという紙を通して見ると、オレはそれなりに立派な人間に見えるかもしれない。しかし、実際は人と真正面から関わりをもてない、愛想笑いしかできない、社交性のない人間。オレからすれば、人と誠意をもって接することのできる人間のほうが、テストで百点を取る人間より、よほど優れていると思うのだった…。
「ねえ、これなんて読むの?」
「え?」
突然彼が指差したのは、答案用紙の記号問題の簡単なアルファベット。
どうしてこんなに簡単な文字が読めないのだろうかと、オレは一瞬面食らった。男の子は小さいといっても七、八歳くらいなのに。
ああ…………そっか、文字を習ったことがないんだ。この子達は。
その疑問が解けると、次に新たな謎が浮上してきた。
この子達は学校にも行ってない、文字が読めなくても当然なのに。どうしてオレはこの男の子が文字を読めないことを不思議に思ったのだろう。
オレにもこんな頃があったのに____。
いつの間にかオレは、自分にできることは当然、他の人間もできるのだと思うようになってしまっていた。
原因はおそらく、長年の間とても裕福な生活を送ってきたせいだろう。そんな中で暮らしていると人間は、学校に行けて当たり前、それができて当然だと思うようになってしまう。しかし、ここの子供達はそんな当たり前のことができないのだ。
オレは忘れかけていた。ここの子供達の境遇、辛さ、寂しさを。
それはきっと、オレが成長しているということなのかもしれないが、それ以上にこの子達がそんな辛さなどを思わせないくらい、逞しく、力強く生きているからに違いない。そんな彼らを見ていると、自分ももっと強くならなければいけないといつも思わされる。
時の移り変わりと、自分の変化に少しだけしんみりとしていると、少し勝気そうな女の子が寄ってきて、「ねぇ、プレゼントって何?」と、目をきらきら輝かせて言った。オレはその子にチョコバーの入った袋を渡した。
「ほらこれ!チョコバー!!一人三本ずつな。」
わあ、と子供たちはチョコバーが入っている袋に群がり、包みをあけ、おいしそうにチョコをほおばった。
こんな安いお菓子ですら、ここの子たちにはクリスマスプレゼントに匹敵してしまう。
ここは住む家と両親を失くした子供たちの集まる路地、ストリートチルドレンの寝床。
一番背の低い女の子がチョコを食べる手を止め、じっとオレを見上げた。どうしたのかと聞くと、彼女はもじもじと恥ずかしそうにオレに訊いてきた。
「お兄ちゃんは食べないの?」
……一瞬、どう答えるか迷った。
「甘いもの苦手なんだ。」
「へぇ、変わってるね。」
女の子は不思議そうにそう言い、チョコまみれの手をぺろぺろと舐めた。
……変わってる。やはりそうなのだろうか。
………うん、そうかもしれない。イギリスで生活をしていたらチョコレートの一個や二個、普通に食べるものなのだろう。
しかし、オレがチョコレートや甘いものが食べられなくなったのにはワケがあった。それは……。
例の、オレが昔からじいさんに言いつけられていたことに関係がある。
「人と深い関わりをもってはいけない。」
「チョコに手を出してはいけない。」
「テレビは見るな。」
「自分のことを他人に話してはいけない。」
そしてもう一つ大事な事ーーー…
他にも写真に写るなとか、知識や体力をつけろとか色々あるけれど、主なのはそれだ。
最初はどうしてなのか分からず、じいさんに理由を訊くと、「全てお前のためなんだよ。」としか答えてくれなかった。
理不尽に思うこともあったが、身寄りのないオレにとってじいさんは絶対的な存在。この言いつけを守ることが、オレを育ててくれているじいさんにできるたった一つの恩返しだと思ったから、オレはこの年になるまで特定の友達を作らないで、テレビも必要最低限の時にしか見ず、チョコレートも食べたりしなかった。おそらく、これからもきっとそうなのだろう。
キャロルからの誘いを断ったのは言うまでもなく、この言いつけのせいだ。
この子達は特別。じいさんが唯一許してくれた関わりを持てる人達。
オレは「どうしてだろう」と、こみ上げてくる疑問符と、じいさんに対する感情の矛盾を心の奥底にしまいこむことで納得することにした。自分のためと思わず、じいさんのためになのだ、と。
じいさんの言うことはきっと正しいはずなのだから。
すっかり考え事に耽っていたオレを現実に呼び戻したのは、一人の男の子が発した言葉だった。
「あ、そういえば昨日も来てたよ。黒い車。」
「え……?」
その一言でハッと我に返る。オレは慌てて、その男の子に訊いた。
「何台来てた?昨日の何時頃?」
「二台で昨日の夕方だったよ。」
二台か……。
「オレの言った通り、ちゃんと隠れた?姿は見られてない?」
念を押し、その子に確認を取ると、「うん、大丈夫だと思う……。」と、少年は少し口篭り、オレから目をそらした。
男の子のその様子にオレはピンときた。
「誰か姿を見られた子がいるんだな?」
子供はこんな風に、嘘をついていても分かりやすい。それでも怒らず、そう言って彼をじっと見つめると、男の子は本当のことを口にした。
「ミーナが隠れるの少し遅れて……、それで……。」
彼は半泣きになり、しゃくりあげながら言った。
「オレは別に怒ってるわけじゃないんだよ。それで?」
こう言うと相手も安心してしゃべってくれる。男の子は続けた。
「それで…車に乗ってた人から明日また来るから、お友達も呼んでおいでって言われたって……。」
「今日来る!?」
ミーナというのは一番小さい……さっきオレに話かけてきた子だ。オレはミーナに尋ねた。
「その人たちはどんな感じだった?」
「全然怖そうじゃなかった。キャンディーもらったの。」
彼女はパッとボロボロのキャロットスカートのポケットから透明なセロファンに包まれた飴を出し、オレに見せてくれた。
「友達も呼んできてくれたらもっといっぱいあげるよって言われたの。」
「ねえ、なんであの車の人に姿を見られちゃいけないの?」
ミーナの横に座っていた痩せっぽちの男の子がオレに尋ねて来た。
「え………、それは……。」
オレは返答に困ってしまった。
黒い車に乗っていた輩はおそらく人身売買を営むマフィアの一味だ。
冬に入ってからちょくちょくここのストリートにやってきて子供たちをつけ狙っている。
騒ぐ親族がいない、公に認めてもらっていないストリートチルドレンは奴等の絶好のカモだ。普通に暮らす子供をつれさらうよりてっとり早いし、なにより事件の扱いが無い。
最近、近くにある多くのストリートチルドレンが集まる路地で子供たちの集団失踪が起こった。表向きには孤児院や教会にひきとられたことになっていたはずだが、実際は違う。拉致されたんだ、おそらく奴等に。
一旦捕まれば逃げる術は無い。想像すらつかない過酷な労働を強いられて死んでしまうのがオチだ。
「……、とにかくあいつらは悪い奴なんだよ。」
「ふーん、そんな風には見えなかったのにね。」
それはそうだろう。ああいう大人は自分を偽ることに長けている。先刻の男の子が示したような反応は絶対見せはしない。
一番の問題は今日そいつ等が来るってことと、どこに隠れるかってこと。帰りのバスに間に合わなくなるが、仕方ない。
考えを張り巡らせ焦っていたその時、遠くでエンジン音が聞こえた。
「しっ、静かにして!!」
オレは耳を澄ませ、車のいる方角を探った。そして、子供たちにここにいるようにと念を押し、車の音がした方角の場所まで様子を見に行った。
路地の反対側にある少し開けた通り。そこにいたのは……案の定、二台の黒い車だった。
出てきたのは黒いスーツを着たごつい体格の男達四人。遠くからだったが、少しだけ奴等の話し声が聞こえる。
手前の二人は英語で話しているのだが、その後ろの二人は他国の言葉で話している。ここからだと聞こえづらいが、あれはスペイン語だ。中学のころに授業でスペイン語をやっているので、少しだけわかる。話の内容は、子供を探せとかそんな感じだった。
「まずいな……。」
しかし、まだ子供たちの居場所はばれていない。それに乗用車二台できたということは、今日も下見程度だろう。子供の人数も把握しきれていないはず。
子供を十人でもさらう気があるなら、小さくてもトラック一台くらいは引き連れてくるはずだ。
オレは物音を立てぬよう、そっとその場から抜け出し、急いで子供たちのもとへ向かった。
奴らのしゃべっていたのはスペイン語教師のそれとは微妙に違う、おそらく南アメリカ独特の発音を持ったスペイン語だ。
「コロンビアマフィアか……。」
コロンビアマフィアといえば、世界七大マフィアの一つだ。コカインの生産地ということもあり、その売買によって莫大な富を得ている。
昔じいさんに連れって行ってもらった映画は、そのほとんどがマフィア映画だった。オレがその中で見た映画の中のマフィアは名誉とプライドを重んじるカッコいい人だった憶えがある。
しかし、違うのだ…奴等は。
金のためなら、魔を見せる薬物を未来ある若者に売り払い、必要とあらば、幼い子供を平気で殺してしまえるような…そんな輩。
「麻薬……。」
オレの脳裏に何かがよぎった。
まさか……!
「お兄ちゃん!」
「どうしたの?急に。」
慌てて戻ってきたオレを見た子供達が寄ってきた。オレは、その中にいるキャロットスカートの女の子、ミーナに訊ねた。
「ミーナ、黒い車に乗った人からもらったキャンディー食べてないよな。」
オレがそう言うと、その子は、少し戸惑ったように「え、うん…今持ってるよ。」と答えた。
「ちょっと見せて。」
オレは彼女からキャンディーを取り上げた。
透明なフィルムに包まれた黄色い歪な丸い形のキャンディーには、不自然な継ぎ目が見える。フィルムをはがし、指で力を加えると継ぎ目を境にパキンとキャンディーが二つに割れた。その中は空洞になっていて、極少量ではあるが、白い粉が出てきた。
「コカイン……か?」
なんて奴等だ。麻薬入りのキャンディーを子供に……。
「兄ちゃん…こかいんって?」
「毒みたいな物だよ。」
ええ!?っと子供達がどよめいたので、オレは慌てて彼らを諫めた。
「しっ!!静かにしてくれ。悪い奴等がもうこの近くに来ている。」
どうやり過ごそうか……、相手は大柄な男四人。最悪の場合……いや、前提として考えておいたほうがいいだろう。
おそらく奴等は銃器の類を持っているはずだ。見つかれば最後…撃ち殺されるか、あるいは……。
よほど恐い顔をしていたのだろう、敏感な子供の一人がオレの様子に不安を抱き、泣き出してしまった。他の子供達も今にも泣き出しそうに表情が曇っていく。
どうする…。
どうする…。
このままこうしていても、オレの不安が子供たちに伝染してゆくだけ。
こんな時、オレがもう少し大人なら……。
知恵があれば、力があれば……!
しかし、幸いにも再びエンジン音が鳴り、車はこことは逆方向に去っていった。
オレと子供たちはホッとタメ息を吐いた。
「悪い人たち行った?」
「うん、大丈夫だよ。」
本当によかった。オレ一人の力では、この子達を守りきることなんてできない。
でも……、またいつか来るかもしれない。
オレがはっとして時計に目をやると、時刻は既に四時四十九分を過ぎていた。
「やっば!バスが行っちゃう!!」
荷物を持ち、慌てるオレに、痩せっぽちの男の子が訊ねてきた。
「お兄ちゃん。今度はいつ来てくれるの?」
「え…、ああ。明日から冬休みだから、しばらくは毎日来れると思う。」
冬休みの間は毎日ここに来て、この子達に文字の読み書きから教えてあげよう。そして、あいつ等からきっと守る。
「本当!?約束だよ!」
「…うん。」
子供達の顔に笑顔が戻ると、寒さと緊張で引きつっていた自分の顔も、和らいでいくのを感じた。
オレはすぐに帰ることを子供たちに告げた。五時のバスに乗らなければ、また一時間も待たされることになる。
みんなはチョコまみれの口で笑い、バイバイと手を振ってくれた。オレも笑い、彼らに手を振り返した。
バス停に向かう途中、鉛色の空から、ちらほらと真っ白な雪が降ってきた。
荒く吐く息が白く染まり、冷たい空気に溶け込んでいく。オレはポケットに手を突っ込み、空を見上げた。あの子達は今日もこの寒さの中で大丈夫だろうか。
オレも経験した、雪に震えたあの頃を思い出す。
どうしてオレがあそこのストリートに通うようになったかなんて、考えるだけ野暮だ。
実はオレも八年前までは、あそこのストリートチルドレンとして明日をも知れない生活を送っていた。
オレは両親のことを全く知らない。
ストリートで暮らす子供達のほとんどが両親を亡くしたと言っていたから、おそらくオレもそうなのだと思う。
不思議なことにオレは、幼少時代の記憶が全くない。両親の顔も、自分の生い立ちも、住んでいた場所さえも、全く憶えていないのだった。思い出せないのではない。まるでそこだけすっぽり穴が開いているかのように記憶がないのだ。
ただ、気がついたときにはストリートに放り出され、そこで生活を送るようになっていた。
その白紙の記憶の最中、一体オレに何があったのか。知る人間はおそらくもういないだろう。
丁度こんな日だった。今から8年前の寒い冬の日、オレはじいさんに出会った。
「私と一緒に来なさい。」
そう言って差し伸べられたじいさんの手があまりにも温かかったから、オレはどこの誰かも分からないそのじいさんと一緒に暮らすことになった。あの日のことは一生たったって忘れはしない。嬉しかった。
もう、誰にも見つけてもらえないのではないかと諦めていたから。
時々思う、じいさんはサンタクロースなのではないかと。だから普段は仕事をしていなくて、寄付金なんかをもらっているのだと。きっとそれは所詮オレの妄想でしかないのだろうけど、少なくともオレにとってじいさんは、サンタクロース以上の存在だった。
オレもあの子達にとってのじいさんになりたい。勉強を教えて、表の明るい世界を見せてあげたい。
そんな理由でオレは家からバスで二時間もかかる進学校に行くことにしたのだ。
明日から忙しくなるな。家にあるありったけのノートと鉛筆を持って行こう。アルファベットから教えてやらなくちゃ。
腕時計を見てみると、四時五十八分をまわっている。
「本当にやばい!!」
バス停まであと五分はかかる。間に合うかどうか、わずかな期待を胸に、オレは白い息を切らし、バス停までの道を猛ダッシュで駆け抜けた。
3
オレがバス停に着いたときには既に、いつも二,三人は必ずいる乗客達もいなかった。
「遅かったか……。」
仕方ない……。
オレは冷えたベンチに腰を下ろし、一時間後に来るバスを待つことにした。
30分くらい経った頃だろうか、道路の向こう側から風変わりな女性があるいて来るのが見えた。
「あれは…キモノ?」
イギリスではまずお目にかかれない服装だ。
彼女の見た目は異様だった。燃えるような赤くウェーブのかかった長い髪の毛、鷹のような鋭く黄色い目。
口元に妖しい黒子と紫の口紅、背もヒールを履いていないのに180近くあるように感じた。
あろうことかその女性はオレの隣に座ったのだ。
彼女は紐のついたバッグから赤い煙管を取り出しマッチで否火を先端に詰めた葉につけた。
紫煙が周囲とオレ達を別の空間へと遮ったような気がした。
ゆっくりと炎が揺らめくように赤髪の女はオレの方に振り向き話しかけてきたのだった。
「今年のイギリスはここ10年でも一番寒いらしいな」
オレは「ええ、まぁ」と曖昧な返答をした。沈黙がなんとなく怖かったのでオレの方から彼女へ質問することにした。
「あなたは…日本の方ですか?」
「日本人では無いがな」
そうして彼女はまた紫煙を吐き出した。
「私は…ここへは人探しをしに来たのだ。」
「へぇ…どんな方ですか?」
「ゴルドン…」
「え?」
「ゴルドンフィリップという男だ」
「………」
緊張が走った。じいさんのいいつけにはもう一つ必ず守れと言われたことがあった。それは…
私の事を誰かに話してはいけない。
一瞬の沈黙でも相手に怪しまれる。オレは間髪入れずに答えた。
「知りません…。」
じっとオレの目だけを見る女の眼差しはえも言えぬ威圧で満ちていた。
「………そうか。残念だ。」
彼女はすっと立ち上がり、オレの前から煙のように静かに姿を消した。
跳ねるような心臓の鼓動が収まるまでしばらく時間を要した。
あの女はじいさんのオレも知らなかった。ファミリーネームを知っていた。
「ゴルドンフィリップ…」
考えてみれば当たり前か…オレのファミリーネームがフィリップでオレはじいさんの養子なのだから…
でも、妙な違和感があった。
なんだろう、このもやもやとした心の隅にあるものは……。
ふっと顔を上げると、向こうからライトを光らせ、バスがやって来た。あたりはもう真っ暗だった。
オレは顔を顰め、黙ってそのバスに乗り込み、窓際の席に座った。
バスの中は暖房が効いていて温かかった。車内の温度と外の気温が違うので、ガラスに水蒸気がつき、曇っていた。
オレはその曇った窓ガラスに無意識のうちに指で文字を書いていた。
その文字はアルファベッド三文字と記号がひとつ……。
『Why?』
オレはハっとしてその文字を慌てて掌で消した。
……何を書いてるんだろうオレは……。
「どうして」だなんて。
眠気が襲ってくる。オレは朦朧とした意識の中で考えた。
「どうして」というのは一体誰に対しての言葉なのだろう。
じいさんに対して?それともオレ自身に対して?
それとも_______。
瞼が重くなってきた、もう限界だ。
オレは濡れた窓によりかかり、深い眠りに落ちていった。
前編 終
中編へ続く