5.はじめからおわる【4】
その後も何故か彼女、妖怪ゲロ吐き女は私の前に姿を現した。そして、時折私に向かって飛びかかってくるのである。
その度に彼女はゲロを吐くことになった。
「女の子には優しくした方がいいと思うぞ……」
「なんで?」
「うん、まあ分からんならいい……」
男は呆れたような顔をして僕に駄賃を渡した。
「あ、あとほらこれ」
男はそう言うと僕に三つのポチ袋を差し出した。大中小の三つのサイズが取り揃えられている。
「……人生には大切な三つの袋がある――みたいな話?」
「違う違う、お年玉だ。もう明日は正月だぞ」
気づけば一年が終わろうとしていたらしい。学校もテレビもないと日付の感覚が失われてしまうのだ。
「あんたこういうの好きだよね……イベント事と言うか」
「おう。今夜は紅白で年を越すつもりだぜ」
「紅白? テレビがあるの?」
「テレビはねえが――」
ドンと何かが机の上に置かれた。机と天井が軋み、嫌な音を立てる。
「こいつはある」
「これって――」
やたらとデカく四角張っていて、そして重い、街角で黒人が担いでラップでも披露していそうなその物体。
「――ラジカセか」
「テレビよりむしろこっちの方が都合がいい。映像があるとどうしてもそれを見ようとしちまうから肩が凝るんだよなあ」
「そういえば父さんがよくラジオでテレビ放送を聞いてたなあ」
僕がそう言うと、男は芝居がかった所作で指を振った。
「残念だが普通のFMラジオで聞けたのはアナログ放送だけだぞ」
男はそう言い、乱雑に物が詰め込まれた棚の中を探り出した。……ずっとここにいると肺を悪くしそうだ。
「おお、これだこれだ」
男がそう言いながら差し出したのは1枚のチラシ。安っぽい紙に物凄く汚い字で何かが書き付けられている。
『日本人として生まれたからには、紅白歌合戦を聞いて来年を迎えたいものですよね! というわけで紅白歌合戦を開催致しますので、歌に自信のある方、または合戦に自信のある方は奮ってご参加ください! なおこのもようはFMラジオで放送いたしますので、皆さんどうぞお楽しみください! 周波数は――』
「馬鹿だね」
「ああ、馬鹿だな」
男はククと喉を鳴らして笑うと、ラジカセを床に音を立てて置いた。ミシリと床が軋んだ。
「でも、そんな馬鹿がいないと世の中は回らないんだぜ? まあ、そりゃ置いといて……さっさと一つ選びな。優しい俺からの楽しいお年玉だぜ」
「それは嬉しいんだけど、中身はなんなの?」
「一番下で10円。二番目で5000円」
「ご、ごせんえん……」
5000円もあれば、切り詰めさえすれば1ヶ月は食っていけるだろう。このご時世では物凄い大金なのである。二等でこれなのだから、一等の期待が膨らむ。
「じゃあ、一等は?」
「この店の好きな商品一個タダ」
う、うーん……
「……なんか微妙じゃない?」
「じゃあ帰れ」
袋をしまおうとした男の手を僕は必死で掴んだ。有り難く頂戴致します。
「うーん、どれにしよっかなー……」
「よおく選べよ? 10円引いたら悲惨だぞおー」
そう言う男の顔にはニヤニヤとした笑いが張り付いている。何となく予想はついていた。
「……どれ選んでも一緒なんでしょ」
「ギク」
「まあ有り難く10円頂戴しとくとするよ」
僕は小さくため息をついて小さい袋を引っ掴んだ。
* * *
僕はまたいつもと同じ空の下、いつもと同じ道を歩いていた。
違うところがあるとすれば、今日は――
『本日は夕方から雪が降り、気温は一層下がるでしょう。この雪は明日未明まで――』
道が白に染められていることだろうか。
ラジオから流れてくる天気予報のお姉さんは淡々とあすの天気を伝えている。
「はい、おめでとう一等でーす!」
そう言いながら景気よくベルを振り回す彼の姿が思い出された。僕は忘れていた。
彼はこれ以上ないくらいお人好しなのだ。
せっかくなので僕は小さなラジオを貰うことにした。別に紅白歌合戦を聞きたかったわけではないが、彼はいかにもこいつを選んで欲しそうだったのだ。
『東京でも雪が降るようです。雪に汚染物質が付着している可能性もありますので、十分な注意を――』
雪は嫌いだ。
寒いから。
僕はフードをかぶり、急ぎ足で家路につくことにした。