012 打開可能な未来のためのマルエ
シモクレンは桜童子と出会った頃を思い出す。
サクラリアとイタドリとは錬金術ゲームSNSで仲がよかったシモクレンは、新しく見つけたゲーム<エルダーテイル>に二人を誘った。その頃は完全に初心者で、ちまちまとレベルを積みながら、材料集めを繰り返していた。
少しレベルが上がった頃、より高位なクエストに参加した。そこにいたのが桜童子だ。もうこの頃の桜童子はふわふわなぬいぐるみの姿で、初めて会った時からシモクレンは彼のことを気に入っていた。
桜童子に会える夜十時からは毎日が輝きはじめた。<師範システム>を使う桜童子にシモクレンはいろんなことを教えてもらった。サクラリアとイタドリを引き合わせると彼女たちもまた桜童子を気に入った。サクラリアは中性的な彼の声を気に入っていたし、イタドリは彼の優しさが好きだった。シモクレンは彼のリーダー性や鋭さを気に入り始めていた。
シモクレンはさらにたんぽぽあざみに出会い、彼女を仲間に誘う。桜童子のもとには多く人が集まった。<木工職人>や<魔具工匠>、<錬金術師>に<機工師>、<大工>や<鎧職人>もいた。随分仲間が増えてきたある日、桜童子が言った。
「レン、ギルド作らねえか。おいらとお前で」
【工房ハナノナ】が誕生した瞬間が最も誇らしい思い出だ。
また涙が溢れ出してきた。
誰かがタオルのようなものをかけてくれたのだろう。目を押さえる手の甲が優しく包まれる。少し温かい。
「葬式で泣いてくれる人の数がその人の功績を表す、なんてこたあないと思ったもんだが。まあ、ありがたいもんだねえ」
タオルのような手触りのものを掴んで持ち上げる。
「にゃあちゃん!?」
「よう、レン。ただいま」
桜童子を無言で抱きしめる。暖かさがそこにはあった。
■◇■
この世界に来て、死の感触に初めて触れた。
ユイは死にかけたとき、水底にいるような気がしたと言っていたが、桜童子が感じたのは波音響く浜辺だった。浜辺に寝転んでいた。
浜辺に来るまで、長い夢の中を歩いてきたようだ。どっと疲れたような気分がして横になった途端、この砂浜に空間転移されたようであった。
死ぬのはこんなに疲れるのか、と桜童子は思った。
夢の入口は、描き散らした紙が堆く積もった部屋だ。その汚い部屋は過去の自分の部屋だ。その当時は、暇があればエルダーテイルにログインしているか絵を描いているかだった。暇があればというのは正確ではない。ある日突然暇になったのだ。
桜童子が語りたがらない歴史の一部だ。
氷河期を渡り終えたかと思えばクレバスに叩き落とされたあの日。しばらくは茫然自失でログインどころではなかった。同じ境遇に立たされた仲間の何人かは今なお裁判で係争中だ。
背を丸め絵を描いては、片手間にキーボードを叩く。頼まれれば何でも描いた。リアルマネーに換えたこともある。だが、世間に裏切られた中で唯一救ってくれたのはエルダーテイルである。だから、このゲームのシステムで現実の通貨に変えるのは、救ってくれた世界に対しての冒涜に思え、やめた。
絵が流通し誰かに喜んでもらえるならそれでいい。打ち砕かれた社会への承認欲求をエルダーテイルが満たしてくれた。食べて寝て絵を描いてゲームするだけの排泄のような毎日。それでも傷ついた心は徐々に癒されていった。そんな運動もしないのにやつれて痩せていく薄着の青年<佐治蔵人>の背中を、部屋のぬいぐるみにまぎれて桜童子は見つめている。
そこにある紙を拾い上げた。何を描いたかぼんやりとしていて見えない。自分の記憶であるのにその絵がなんだったか思い出せない。
こんなものを死んだら見せられるのかと思った。
死の神は絶望が見せたかったのか。でも見せられたのは絶望の中にうっすらと湧き上がってきた小さな希望にすがり付く卑小な自分の姿だ。卑小さを嘲笑いたかっただけか。
だが、希望さえあれば人は生きていけることを再確認できた。小さな記憶と引き換えに。
自分を死に追いやった敵のことを思い出す。
「今決定シタ」
決定、決定、――――――決定。
「決定したことです」
上司の言葉と重なる。理不尽ではあるが今後の影響のために依願退職してくれと言われたのだ。自ら罪を犯したのではない。リストの中に名前があっただけだ。仕事の実力に問題があったわけでも性格に支障があったわけでもない。そこにいたことで決定したのだ。
何か閃いた気がして砂浜から起き上がる。
どこまでも連なるなだらかな砂丘と群青色の水平線の向こうから押し寄せる波。
「どこなんだ、ここは?」
反射的にゾーン名を確認したが、ラテン語で読めない。さすがにその知識はなかった。
何かを召喚しようと思えば召喚できたのかもしれない。だが、それを忘れ、ゆらゆらと立ち上がった桜童子は、砂丘のような浜辺に点々と足跡を残しさまよった。
潮騒の中にコーンともゴーンとも聞こえる鐘の音を聞いた。顔を上げると、水平線に星が昇るのを見た。月かと思ったが地球だった。
人工衛星からの映像で、月の地平に「満地球」を見たのは、さっきの卑小で鬱屈とした時代のことだ。だから、これも記憶の一部かと思ったが、月の地平は灰色一色で、こんなにキラキラとした碧光も射していないし、紺色の海もない。乳白色の砂浜なんてあるわけがない。
「ならば、これはおいらの知らない月か」
一瞬だがこの海がデジタルの海に見えた。この波の一つ一つが、ここに訪れた人の情報を含んでいることを直観した。見えたわけでも読めたわけでもない。ただわかったのだ。
あの蒼の惑星に戻らなければ。
この死が決定されたものであっても、それは運命などではない。
打開可能な未来であるはずだ。
桜童子はバッグから本を取り出す。<召喚術師>を極めようと中級時代からせっせと書き溜めてきたメモだ。ネットを見れば攻略情報は載っていたが、それに依らないことで強くなろうとした時期があった。その精神は今もなお死んでいない。
だが、過去に縛られては強くはなれない。現にたんぽぽあざみやフルオリンは常識に縛られない戦い方で強くなった。分厚い本を開くと乱暴に数ページを掴んで破いた。海に撒くと思わぬ風に巻き上げられて、どこか遠くへ散った。
鐘の音とともにまばゆい光が降り注ぐ。
囚われていてはいけない。進化するんだ。