近距離恋愛
いつだったのか、もう私は覚えていない。
というか。最初から、だったのかもしれない。
あの、施設のお祭りの日、目があったあの瞬間から、もう始まっていたのかもしれない。
「シュウさん。」
「ん?」
「シュウ、さん。」
「はいはい、何ですか。」
ただ名前を呼ぶだけの私に、シュウさんは呆れた声で応える。
私の呼びかけに応じてくれる。そんな奇跡が、あの瞬間に始まったのだ。
初めて会ったのは、私の預けられていた施設のお祭りの日だった。シュウさんが何故、それに来ていたのか私は知らない。もしかしから、お偉い方々が多く来ていたその日、誰かの付き添いで来ていたのかもしれない。
黒いスーツのおじさま方が私たちのいたホールの外を歩いて行くのが、窓越しに見えた。
同じくらいの年のこと一緒にいた私は、知らない人たちが沢山来ていることが不思議で、しばらくその様子に魅入っていた。
すると、黒い景色にぽつりと、白が混じっていることに気づいた。そしてその白もまた、私を見ていることに気づいたのだ。
白いシャツに、色あせたジーンズ。色素の薄い髪の毛はさらさらと流れ、夏の暑さなど微塵も感じさせない爽やかな空気を纏っていた。
男の人に、綺麗だと感じたのは、それが初めてだった。
私が不躾にも見つめる中、シュウさんは私の見ていた窓の近くまでやってきていた。
『(こんにちわ。)』
窓越しだったので、声は聞こえなかった。けれど、口の動きで、「こんにちわ。」と、言っていることはわかった。
私は戸惑った。綺麗な男の人が私に話しかけていることに、幼いながら緊張もしていた。
私がどう返そうかと迷っていると、シュウさんがふっと口角をあげ、コテン、と首を傾げた。
釣られて、私も同じように首を傾げた。
それを見たシュウさんは、それまで見たどの人よりも凄艶に、私に笑ってみせたのだ。
その出会いから、シュウさんは毎月一回か二回、私のいる施設に顔を見せた。
何かのついでなのだとは分っていたが、来ると必ず私に声をかけてくれる。
私はシュウさんの、他の大人達とは違う空気が大好きで、彼が来るのを心待ちにしていた。
そんな日々が二年程続いたある日、突然、施設が閉鎖することになったと知らされた。
働ける年齢のお姉さんお兄さん達は、施設の先生の紹介などで仕事先を見つけ、共同生活をするのだと言っていた。
まだ保護者が必要な私のような年齢のこたちは、ただ、保護してくれる人が見つかるのを待つしかなかった。もし見つからなければ、遠い所にある大きな施設に移動することになると言われた。
小さいこたちは、里親になってくれる人が見つかり、次々に貰われていった。
売れ残りの犬のような気分で、私は日々、不安を抱えながら過ごしていた。
『どうしたの。酷い顔だけど。』
毎日、行き先の決まらない不安定さに押しつぶされそうだった私は、その声で顔をあげた。
そして、座り込んでいた私の前でしゃがみ、頬杖をついて笑うシュウさんを見て、私はついに泣き出してしまった。
そんな風に泣いたことの無かった私に驚き、先生方がわらわらと集まってきた。必死に涙を止めようと拭うけれど、決壊したダムのように、涙はあふれ続ける。
『ははっ不細工。』
そう言って笑うシュウさんに、私はむくれてみせようとした。けれど、頭をぽんぽんと撫でるその大きな手から優しさが伝わって、余計に止まらなくなってしまった。
『俺の家においで。』
幻聴だったのだろうかと考えた。
シュウさんが、来てくれたことがあまりに嬉しくて。
私は自分に都合のいいように、幻聴を聞いてしまったのだろうか。
そんな事をぐるぐると考えていると、シュウさんが大きな手を差し出した。
『俺と、一緒に帰ろう?』
今度こそ、幻聴なんかじゃない。
私がその言葉に戸惑っていると、シュウさんの顔が目の前に近付いていた。
『嫌?』
少し切なそうに下がった眉毛。
シュウさんがそんな顔をするなんて。
私は思い切り、ぶんぶんと顔を横に振った。
嫌、なんて。
そんなこと絶対にない。
けれど。
それでも。
この手を、掴んでいいのだろうか。
『さ、行こうか。』
しびれを切らしたというように、戸惑う私の手を握って、彼は施設から、私を連れ出した。
慌てる私に、彼はくすくすと笑う。
「シュウさん。」
「聞こえてるって。」
「…ねぇ、シュウさん?」
「何ですか。」
この綺麗な人は、どういうつもりで私をここへ連れてきてくれたのかはわからないけれど。
おかげさまで私は今日も、シュウさんの側に居られる。幸せな日々を送れている。
シュウさんの横で、私はシュウさんの横顔を見つめ続ける。私が見ていることなど何とも思っていないのであろうシュウさんは、ただ、それを許してくれる。
「シュウさん、好きです。」
シュウさんの屋敷に来て、三度目。シュウさんと出会ってから、五度目の秋。
私は、とても自然に、風が吹くように、呼吸をするように。
その言葉を放ったのだ。
言ってしまってから、私は急激に焦りだした。鼓動が速まり、身体中が熱く、呼吸がしにくい。
けれど、シュウさんは。ごくごく普段と変わらず、私を横目にちらりと見るとその唇を薄く引き、嬌艶に笑う。
秋は、シュウさんの季節。色づく景色に、涼しい夜風。シュウさんに一番似合う、シュウさんの季節。
「何を、今更。」
私の一世一代の拙い大告白は、どこまでも上手な彼の前に、葉を揺らす風にさえ、なりはしないようだった。
こんなに近くにいるのに。そこには確かに、少しの距離があって。
近すぎる程のこの距離が、埋まる日は来るのだろうか。
私はある種の敗北感にがっくりと脱力し、また、彼の横にころりと丸くなる。
見上げると、シュウさん越しに見える金色の月が、秋の黒く澄み渡る空に、妖しく浮かんでいた。
[ 第一章 了 ]