色 - しろ -
パレットに、色とりどり。
チューブから出された絵の具を筆に取り、まっさらな紙にのせていく。
和紙のようなざらついた大きな紙は、掠れたような温かな模様を描きながら、シュウさんの世界に染まっていく。
風が、さらりと髪を揺らした。
私は、この時間が好きだった。
シュウさんと過ごす縁側の、まったりとした空気ももちろん大好きだけれど。
この、絵の具の匂いに満ちた風に吹かれる、シュウさんの斜め後ろが、大好き。
何を想って描いているのだろうか。下書きもなく、いつの間にか形作られるその不思議な絵の完成を見守っていると、いつの間にか陽が沈みかけ、部屋が薄暗くなってしまっているのだ。
シュウさんは、私を振り返らない。
一時も筆を休めることなく、食事もトイレにも行かず、ただただ、筆を動かし続ける。
いつもののんびりとしたシュウさんは、この時だけ、きりりとして見えた。
「(…なんて、豊…。)」
世間でも一目置かれる天才画家、海老沢秋とは、私の斜め前に座る、まさにこの人だ。
私は、昔の彼を知らないけれど。
けれど、私のことを引き取った三年前、二十四歳だった彼は、既にこの大きな、純日本風の屋敷を持ち、一人で気ままに暮らしていた。
そのこと一つ考えても、彼がどんなに凄いのか、絵の世界など露も知らない私でもわかる。
今も、着々と完成に近づいて行く絵に、良い知れない感動を覚えていた。
豊かに、深く。
私の目に映る色が、まるで呼吸でもしているかのように。
色とりどり、何重にも重なって混ざり合っていたパレットに、シュウさんは白い絵の具を出した。
光を取り込んだ絵は途端に、外の爽やかな空気を取り込み、風に、今にも揺れそうに輝く。
「……あれ。また居たの。」
そして、一区切りついた絵から目を離したシュウさんが、遂に私に視線を向けた。
「はい。」
「いつも、楽しくないでしょうに。」
ふー、と、伸びをするシュウさんに、私は首を振る。
楽しくないなんて、とんでもない。この時間が大好きなのだから。
首を振る私に、シュウさんはくすりと笑って、頭をくしゃりと撫でた。
庭に置かれた、小さな燈籠に照らされた木々から、黄色や赤や、橙に染まった葉がひらひらと舞い落ちる。
ひんやりと、少し張った空気を吸い込み、シュウさんはゆっくりと息を吐き出した。
私はと言えば、夕食を終えた今、クッションを抱きしめながら、襲い来る眠気と戦っているところだった。
けれど、突然の鼻のむずがゆさに、耐えられず。
「…っくしゅん!」
ずず、と鼻水をすすると、シュウさんが笑う。
「随分、親父臭いようだけど。」
「…うるさいです。ぴちぴちの女子高生に対して失礼ですよ。」
これでは風情もへったくりも、あったものではない。恥ずかしさを隠すようにそう言えば、シュウさんは、はは、と口角をあげた。
「…そんな、恰好をしているからだよ。」
「え…。」
足を外に投げ出すように座っていたはずのシュウさんは、いつの間にか、私の向かいにあぐらをかいて座っていた。左の肘を立て、その上に頬をのせて、私を斜めから見つめている。
「(――っ心臓に、悪い…!)」
突然、どくりと血が騒ぎだす。
自分がそうやって見つめるだけで、私がこんな風になることを、彼は知っているのだろう。
悔しいけれど、体は正直すぎる程、全身で反応していた。
「……確かに。ぴちぴちの体、なんだろうけれど。」
彼は、自分のことをよくわかっている。
あまりよろしく無い性格も、その、綺麗な顔も。
す、と。私の方に右手を伸ばす。その指先がやけにゆっくりと私の頬に触れ、さらりと撫でた。
「~~~っへ、んたい!」
精一杯だった。
私の心臓が、これ以上は持たないと。
私の精一杯の反抗を、シュウさんは楽しそうに、くすくすと笑う。
そして、右手を引っ込めると、自分の羽織っていたシャツを私にかけてくれた。
「見てるこっちが、寒い。 ほっぺた、冷たくなってますよ。」
いつもの位置に戻ったシュウさんを見て、私は詰めていた息を吐き出した。
深呼吸をすると、隣で、やはり楽しそうに、シュウさんが笑うのを感じた。
恥ずかしすぎて顔を見ることは出来なかったけれど、きっと今彼はしているはずだ。
私の大好きな、あの少し意地悪な笑顔を。
――シュウさんのかけてくれたシャツは、肌触りよく私をつつむ。
やはり見慣れた、白いシャツだった。