風邪
シュウさんから、珍しくメールが来た。
『To:和葉
本文:ごめんきょうはむかえにいけないのでばすでかえってきて』
「……え?」
本文を見て、私は少し間抜けな声を上げる。
横にいた優香が私の携帯電話を覗き込んだあと、私の顔を見て、一言、端的に言い放った。
「読み辛っ!」
「……ね。」
シュウさんのメールはたった一文。
内容は、迎えに行けないからバスで帰ってきて、というもの。
けれど、その一文には、ただの一つの漢字も句読点も使われていない。
「面倒臭かったんじゃない?」
恵理も画面を覗き込んだあと、肩をすくめた。
私は二人を見つめ、首を傾げていた。
「ただいまー!」
シュウさんの屋敷は、もう薄暗くなっているというのに明かりも付けられておらず、しんと静まりかえっていた。
また首をかしげながら、シュウさんの姿を探す。
いつもシュウさんの居る暖かい居間には、一枚の書き置きと、私の分と思われるお弁当が置かれていた。
『たべててください』
「……また、ひらがな。」
シュウさんの、柔らかいけれど綺麗な字で、この文章はなんだか違和感があった。
「(漢字、大好きだったはずなのに…。)」
日常ではおよそ使わないような漢字も、よく知っているシュウさんが、こんなにひらがなばかりの文を書くなんて。
私はなんだか不思議な不安に襲われていた。
シュウさんの部屋を見に行こうと廊下に出てすぐ、私は立ち止まった。
「…何、これ?」
そこには、点々と、シュウさんのものと思われる上着や靴下などの服が落ちている。
不可解な光景を横目に、シュウさんの部屋の前で止まった。
ノックを二回したけれど、中からは返事がない。
「シュウさん? いないんですか?」
私は声を掛けながら、そっと襖を開いた。
襖を開けると、むわ、という熱気が外へと流れ出た。
そして中を見ると、布団の上に、彼はいた。
「……シュウさん…?」
私が声をかけても、シュウさんは起きる気配もない。
部屋の中へと入り、側で様子を見てみると、顔が妙に赤いことに気がついた。
「……。」
そっと、額に手を当てる。
「わ、熱い…。」
私が思わずつぶやくと、シュウさんの瞼がぴくりと動いた。
そしてゆっくりと、その目を開ける。
「あ、シュウさん…ごめんないさい。起こしちゃってて…。あの、大丈夫ですか。何かして欲しいことは…。」
三年シュウさんと暮らしているけれど、シュウさんがこんな風に熱を出して寝込むなんていうことは初めてだ。
私はどうしたらいいのかわからず、取りあえず聞いてみた。
「……ずは、……うつる、から…はいっちゃ、だめ…。」
苦しそうな息の合間から、掠れた声が聞こえる。
痛々しいほど力の無いその声に、私は何故だか泣きたくなった。
「……なに、そんなかお…して。」
そんな私に気づいたのか、シュウさんが微かに笑う。
触った感じでは、かなり高い熱だと思う。
それなのに、移るからと私のことを心配して、私が不安な顔をすればこうしてちゃかしてくれる。
私はすっくと立ち上がると、人生で初めての看病をするために台所に向かった。
たしかこの辺りにあったはず。
私は台所の隅っこにある棚の上の方を、椅子を出して来てあさっていた。
氷嚢がこのあたりにあるのを、大掃除の時に見つけたのだ。
薄い緑のそれを見つけ、私は微笑む。
さっそく氷と水を入れ、タオルに包んだ。
「…そう言えば、薬って飲んだのかな…。」
朝学校に送ってもらった時には、確かに体調が悪そうだったけれど、本人はただの寝不足だと言っていた。
きっと、その時から相当怠かったのだと思うけれど、私は全く気づけなかったのだ。
きゅうと、胸が痛む。
自分の不甲斐なさが情けなかった。
「とにかく、薬…。えっと…その前に何か食べるもの…。」
冷蔵庫には、丁度先日買っていた林檎があった。
私はそれを擦りおろし、水と氷嚢、解熱剤と総合風邪薬を持ってシュウさんの部屋へと急いだ。
「シュウさん。」
一言声をかけてから、部屋の中へと入る。
中は相変わらずむっとしていて、加湿器と暖房がフル稼働していた。
「シュウさん、起きれますか? 薬、飲まないと良くなりませんよ。」
シュウさんは、うっすらと目を開けると、眉間に皺を寄せる。
「………むり、……おきれない…。」
そう言いながらも、起き上がろうとするシュウさんを慌てて助ける。
肘を立て、少しだけ顔を上げたシュウさんが、私を見上げていた。
「……それ、……。」
シュウさんの”それ”は、恐らく林檎のこと。
シュウさんは、辛そうに少し潤んだ瞳で私を見ていた。
「……。」
私はスプーンを取ると、無言でシュウさんの口元まで、すりりんごを運んだ。
「……。」
億劫そうに口を開けると、少しだけ口に含む。
その仕草が、不謹慎にも、私の胸を貫いた。
「(か、可愛い…っ!)」
ひな鳥に餌を上げる親鳥の気持ちが、少しだけわかったような私は、なかなか飲み込めないシュウさんを待って、せっせとすり林檎を運んだ。
「……ん、……がとう…。」
かすかな吐息に混じった音はきっと、ありがとうって言ったんだ。
シュウさんは結局、半分も食べなかったけれど、私は今度は薬を手に持ってシュウさんに迫る。
「シュウさんもうちょっと頑張ってください! 薬飲みましょう!」
シュウさんは林檎を食べ終わると力尽きたようにまた仰向けに寝てしまっていた。
私が呼びかけると、またうっすらと、その濡れた瞳を開ける。
「……も、…むり…。」
シュウさんは、今度こそお手上げというように呟くと、寝る体勢に入ってしまった。
「シュウさん?」
目を閉じて、まったく反応しようとしない。
けれど、薬を飲まなければ長引いてはやっかいだ。
私は考えたあげく、強行手段に出ることにした。
「…シュウさん。」
シュウさんは何度目かでようやく、眉間に皺を寄せながらも、目を開けてくれた。
蒸気した頬が、潤んだ瞳が、色っぽくてくらつく。
綺麗な顔がこんな風に辛そうに歪められて、それを救いたい一心だった。
「……。」
私は薬と水を口に含むと、そのままシュウさんに口付けた。
「…っ!?」
シュウさんは、一瞬びくりと硬直した。
薬と水を流し込むと、なんとかそれに対応しようと喉を鳴らす。
「……飲めました? お水、まだいりますか…。」
こくりと、喉が鳴っている。
シュウさんは薬を飲み下す間、私を避難がましい瞳で見ていた。
きっと、こう思ってるんだ。
”うつるって言ってんのに”って。
私の問いに、シュウさんは首を降った。
「……ばか。」
掠れた、弱々しい声。
怒られたにも関わらず、私はにこりと笑った。
それからシュウさんはすぐに眠ってしまった。
部屋の中はこれでもかという程暖かかったけれど、時々シュウさんは寒そうに布団を引き寄せる。
閉まっていた冬用の毛布を出して来てかけてあげると、少し安心したように顔を緩ませた。
「(……辛そう…。)」
何度か氷嚢をかえて、近くの自販機でスポーツドリンクを買ってきた。シュウさんが少し目を冷ます度に、それを飲ませる。
そうやって、夜は過ぎていった。
部屋に、光が差し込み、心地のいい鳥のさえずりが鼓膜を揺らしている。
私がゆっくりと目をあけると、目の前に、シュウさんの瞳があった。
「……。…!?」
気づくと、私はシュウさんと一緒に、シュウさんの布団の中に横になっていて。
シュウさんが、私のことを見つめている。
「しゅ、…。」
「おはよ。」
「……え。あれ? …あ、体調は…どうですか?」
「もう、平気。」
「……。あの、すみません、私はどうしてこのような…。」
私は昨夜の記憶をおさらいしてみた。
熱が上がって動けないシュウさんを看病して、氷嚢をかえたり飲み物を買って来たりしていたことは覚えている。
でも、いくらおさらいをしてみても、この状況の説明はできなかった。
「明け方、起きたら腹の上につっぷしてるからさ。一緒に寝ようと思って。」
「…すみません…。」
「いいよ、風邪、移るからと思ってたけど…。」
シュウさんは、肘を立てて少し上体を起こすと、私の頬に手を合わせる。
そして、そのまま身体をかがめた。
いつもよりも遠慮がちな口づけ。
寝ぼけていた頭も、エンジンがかかったように動き始める。
シュウさんは、唇を離すと、べ、と舌を出した。
「和葉が口移しなんかするから、どうでも良くなっちゃった。」
ぼ、と。
顔に血が上るのがわかる。
そうだ、私は昨日、シュウさんに口移しで薬を飲ませたんだ。
その時は必死で、とにかく薬を飲ませたかっただけだったけれど。
冷静に考えてみれば、生まれて初めて、自分から唇を合わせた。
シュウさんも、きっとその事実に気づいているのだろう。
にやにやと緩まっている表情が、やけに色っぽく思える。
「今日、土曜日でしょ。」
「あ、はい…。」
「じゃ、もうちょっと寝よう。起きたらご飯食べにでも行こうか。」
時計を見ると、まだ朝の六時。
シュウさんは私を抱き寄せると、規則正しい寝息をたてながら、すぐに眠ってしまった。
シュウさんの寝顔が、昨日のように辛そうに歪められていないことに安堵すると、私にもまどろみが襲ってくる。
これで、何度目なのだろう。
彼の腕の中で眠るのは。
腕まくらをしている腕が、私をそのまま抱き寄せ、もう片方の腕が腰の辺りに回っている。
抱き枕にでもなったような感覚だけれど、シュウさんの体温を間近で感じられる特等席だった。
はじめ、あれほど緊張していたのに、今ではもう、抱きしめられて眠るこの状況が心地よくなってきている。
「……シュウさん、」
私の呼びかけに、瞼がぴくりと動く。
「好きです。」
呟くようにそう言った途端、ぎゅ、と抱きしめられた。
少しの息苦しさと、沢山の幸せ。
朝の光に透ける様なシュウさんの寝顔を見つめながら、私は徐々に、夢の世界へと入っていった。




