色 - むらさき -
誰でも一度は、聞いたことのある名前だろう。
源氏物語。
その日本を代表する大長編の恋物語の中に登場する、紫の上。
義理の母親に恋をした光が、その亡き後、そっくりの少女を見つけ育てる。それが、紫の上だ。
シュウさんが忙しく、家の中がばたばたとせわしなかったのも過ぎ去り、また私とシュウさんがまったりと過ごす時間が訪れた。
紅葉も、盛りを少し過ぎ、もう葉が落ち始めている。
肌寒い風に晒されぬよう、庭へと続く縁側と、部屋の間にはガラス障子で間切られていた。
私は、恋人を亡くしたシュウさんが、私をここへ連れてきてくれた理由は、そこにしかないと思っている。
今、シュウさんは大好きな梅こぶ茶をすすり、ほっと夕食後のひとときを満喫中で。
私は彼の横に座り、私の不審な動きに不思議そうに首を傾げた彼に向かい、一直線に聞いてみた。
「……え。」
私の問いに、シュウさんは目を見開いて間抜けな声を出した。私はもう一度、目を見て訪ねる。
「……似ているんですか? 私と、凪さん…。」
義母に恋していた光が、彼女の死後、代わりにと連れてきた紫の上は、その事実を知った後どう思って過ごしたのか。
私は、幸せ者だと思う。
孤児として施設で育ったけれど、施設の先生方は優しくて大好きだったし、仲間も沢山いた。
施設が閉鎖することを知らされた時、いき場所の無くなった私を、シュウさんはこの屋敷に連れてきてくれた。
幸せで、幸せで、聞けなかった。
何を思って、私を引き取ってくれたのか。
どうして、あの時手を差し伸べてくれたのか。
ねぇ、寂しかったの?
私を、亡くした恋人の代わりにしたかったの?
――ねぇ、シュウさん。私はちゃんと、凪さんの代わりが出来ている?
私の真剣な眼差しに驚いて固まっていたシュウさんが、ふっと笑った。
「何、どうしたの?」
優しく笑うシュウさんが、その大きな手の平で頭を撫でてくれる。
「……くすくす。そんなに不安そうな顔をしなくても。」
私は、今どんな顔をしているんだろう。
シュウさんが呆れて笑ってしまうほど、変な顔をしているんだろうか。
くすくすと、シュウさんが笑っている。
私はそんなシュウさんに、笑い返すことすらできないくらい、余裕がなかった。
私が、もし、凪さんに似ていて、それで、代わりにとここへ連れてきて貰ったなら。
私は、その役目を充分に果たしているとは思えない。
「……本当に聞きたいの、それじゃないんでしょ。」
くすぐるような、優しい声。
いつも私をからかって、意地悪な顔をするくせに。
こんな時だけは、そんな声で、そんな優しい顔で、私を甘やかすから。
私はすぐに、泣きたくなってしまう。
「……あの、…。」
ついに溢れ出した涙は、私の不安の現れ。
代わりでいい。
私がいることで、シュウさんが少しでも寂しくないなら、それでいい。
「…ずっと、怖かったんです…。」
「…うん?」
だって、おかしいもの。
ここにいていい理由は何でも良かった。
何でもいいから、欲しかったの。
まだ若いシュウさんが、私みたいなこを引き取る理由なんて、私には思いつかない。
凪さんの話を聞いた時、もし凪さんが、私に似ていて。
私は代わりに連れて来られたなら、理由ができたと思った。
「私は、シュウさんに何もしてあげられないのに…。」
「……。」
「……どうして、あの時、連れてきてくれたんですか…?」
理由が思いつかないから、不安だった。
三年間、ゆっくりと流れるこの幸せな時間が、いつ終わりを迎えるかわからない。
シュウさんの気まぐれなら、いつ終わってしまってもおかしくない、不安定な居場所を、はっきりとさせたかった。
私が、ここにいていい理由が欲しかった。
シュウさんは、私の目を覗き込むようにして首をかしげると、その綺麗な顔を、困ったように歪めて微笑んだ。
「最初はね。」
私の正面に、ゆるく座り直したシュウさんが口を開く。
私の心臓が、彼が呼吸をする毎に鼓動を強く刻んで行く。
「お世話になってる絵の先生が、施設のお祭りで個展を開くっていうから、見に行ったんだ。……見に行った、というより、半ば、連行されたようなものだったけど。」
シュウさんの瞳は、私を通り過ぎて、出会った時の景色を見ているのだろうか。
私を見ているようで、見ていないその瞳を、私は見つめ続ける。
「……確かに、一目見たとき、昔の凪に似ているな、て思った。」
色素の薄い、シュウさんの瞳がゆらぐ。
「でも、連れてきた理由を言うなら、それは少し違うかな。」
おいで、と、シュウさんは私に手を伸ばした。
抗うことのできないその言葉に、私は少しだけシュウさんに近づく。
腰を引き寄せられ、シュウさんのあぐらの上に座らされた。
「施設が閉鎖するって聞いて、真っ先に考えたのは、和葉のことだよ。どうしてるのか気になって。」
不安に押しつぶされそうだったあのとき、私は精一杯いいこに振る舞っていた。自分ではどうしようもないことは、数えきれないほどあるけれど。
せめて、自分のできることくらいは、なんでもやろうとしていた。
そうすれば、良いことが起こるって信じて。
「不安、だったでしょ。」
シュウさんの言葉に、私は素直に頷いた。それを見て、シュウさんが優しく笑う。
「でも必死に、強がってた。実は、少し前にも遠くから見てたんだよね。自分も不安なくせに、周りの仲間を励ましてる和葉を見たら、なんて言うのかな…。」
シュウさんは、私の頬を撫でた。最近では心地よくなっている、あのどきどきが襲って来る。
けれど、私はシュウさんの言葉を逃さぬよう、シュウさんを見つめ続けた。
「このこを、守ってあげたいって思ったんだ。」
シュウさんを見つめる私を、シュウさんの瞳が捕らえる。
今度こそ、私を映す瞳が、呆れたように細まった。
くすりと笑ったシュウさんはが私の目尻を撫でると、指が濡れていた。
「……じゃぁ、」
それは、やはり、私がここにいて良い理由にならない。それは、シュウさんの好意でしかないから。
「でも。」
私の言葉を遮るように、シュウさんが続ける。
「いつの間にか、……。」
シュウさんは、その先を言おうと開いた口を閉じてしまった。
私は少しの不安と、大きな期待に胸をどきどきとさせながら、その先が紡がれるのを待つ。
「……和葉。」
「…っはいっ。」
突然名前を呼ばれ、私はつっかえながらも返事をする。
シュウさんが伸ばした腕が、今度は私の後ろへと回って。そして、私を思い切り引き寄せた。
「―――っ!」
雪崩れるように引き寄せられた私は、彼の胸に手をついて、身体を起こそうとした。
「…っ!?」
顔を上げた私が目にしたのは、シュウさんの可笑しそうに細められた瞳。
そして、何が起きるのか予想する間もなく、私の唇に柔らかな熱が触れる。
「…っん、ちょ、っと…シュウさん!」
お互いの熱を交換するように、吐息が混ざる。
私は必死にキスの合間を縫って、抗議の声を上げた。
「んぅ…っ!」
この人は本当に。初心者に、なんてことするんだろう。
どのくらいそうしていたのか。息を弾ませ、涙目になりながら、やっと唇を放したシュウさんを睨んだ。
「大丈夫? 和葉。」
指に、力が入らない。
酸欠の頭を、シュウさんが笑いながら撫でてくれる。
火照った頬に、冷たいシュウさんの指が心地いい。
"好き"と、聞けると思ったのに。
「……狡いです…。」
私の紡いだ精一杯の抵抗に、シュウさんは笑って、私の耳元に囁く。
「知ってる? 紫を、源氏は彼女が死ぬまで手放さなかったこと。」
「~~~っ!」
大人の男の人の、低く耳に響く声。
このひとは例に漏れず、私が耳元で囁かれることに弱いと知っている。
「…心配しなくても、――手放したりしないよ。」
シュウさんはそういうと、私をもう一度引き寄せ、顎に手をかけ。
私の不安を飲み込むような、優しいキスをくれた。




