埃
秋の休日。
今日は天気も良く、私は朝からシュウさんの屋敷の掃除に精を出している。
「…ふぅ。」
掃き掃除を終え、後は廊下を水拭きして終わり。
廊下の端まで来て、ふと、奥の襖が気になった。
私はこの三年、この襖を開けたことがない。
この屋敷は広すぎて、二人で使うスペースは限られていた。
シュウさんの部屋、居間、私の部屋、客間、台所、洗面所、シュウさんの仕事部屋。
私はここに来た当初から、生活に必要無い他の部屋にあまり行かないようにしていた。
プライベートなものがあるかもしれないし、私はここに、置いてもらっている身だから。
でも、今日は何となく、その奥の間が気になった。
間取りで言えば、庭に面している。
きっと、その部屋の窓からも、美しい日本庭園と、秋の紅葉が鮮やかに見えるはず。
「……入ったら、怒られるかなぁ…。」
怒られたことは、ないけれど。
私はそっと、襖に手をかけた。
もう、何年も開けられていないのだろう、その襖はず、という鈍い音を立てて開いた。
「……え…。」
物置になっているのか、はたまた何も置かれていないのか。
二つに一つと思っていた私の予想は大きく外れた。
そこには、タンスが置かれ、ベッドが置かれ、鏡や棚など、生活に必要そうなものが一通り綺麗に配置されていた。
ただ、使った形跡はないのだけれど。
「……。」
誰かの為に用意された、誰かの部屋だったことは間違いない。
けれどそこに、人がいたような跡が一つもない。
私は足を踏み入れた。
途端に足下の埃が舞う。
その時、後ろに人の気配を感じ、はっとして足を止めた。
「…何、してるの。」
どきり、と。跳ねる心臓に手を置く。
ゆっくりと振り向くと、シュウさんが立っていた。
「…ごめんなさい。」
私は反射的に謝っていた。何故だかわからないけれど、シュウさんの雰囲気がいつもと少し違う気がして。
「……。」
けれどシュウさんは、何も言わずに呆れたように微笑むと、少しだけ開けただけの襖を更に大きく開いた。
そして私をすり抜け、奥へと入って行く。
「酷いな。こんなに埃だらけになってたんだ。」
シュウさんは棚の埃を指でこすった。
指の跡がはっきりと残るのを見て、ふっと笑う。
「怒ってないから、そんな怯えないでよ。」
どうしていいのかわからず立ち尽くしていた私に、シュウさんはそう言った。
「…聞いても、良いですか…。」
私の問いに、シュウさんは目で促す。
「この部屋は、誰のお部屋ですか…?」
シュウさんは、ベッドの埃を少し払って、その上に腰掛けた。
「……凪っていってね。恋人だったんだ。」
「(…恋人…。)」
この前、寝ぼけて呼んでいた「なぎ」は、恋人の名前だった。
私はシュウさんの言葉を一字一句逃すことがないように、耳を傾ける。
シュウさんの声は落ち着いていて、昼の少し前の陽射しに照らされた横顔が、床に薄い影を作って揺れていた。
「ここで、凪が暮らしたことはないんだけどね。」
やっぱり。と、私は部屋を見渡した。
使われずに埃をかぶってしまった家具やカーテンが、悲し気に見えた。
「……どうしてですか?」
シュウさんは、私を見ずに口を開く。
「この部屋を見せる前に、死んじゃったんだ。俺の、幼なじみだったんだけど。」
私はなんとなく、その先がわかった。
シュウさんは海が好きだったけれど、今は海に行こうともしない。
そして、池田さんが言っていた、”紫の上”という言葉も、全てが頭の中で、カチリと噛み合わさっていく。
「潜水中の事故でね。……目の前にいたのに、助けられなかったんだ…。」
シュウさんが見せる悲し気な横顔。
今彼は、その時のことを思い出しているんだろう。
辛そうに歪んだ眉間が、遠くを見つめるような瞳が、引きつった唇が。
その人が、シュウさんにとってどんなに大切だったかを物語っていた。
私は何も言うことができずに、シュウさんの前で立ちすくんでいた。
震える。
それを想像しただけで、シュウさんの抱える記憶がどんなに辛いかがわかる気がして。
「……暗くなっちゃったね。ごめん。」
シュウさんは腕を伸ばし、私の頭をくしゃりと撫でた。
いつもの、のんびりとしたシュウさんでも、絵を描くときの、きりりとしたシュウさんでもない。
疲れたような乾いた笑顔で私を見る、見たことのないシュウさんだった。
「……シュウさん。」
「ん。」
私は、シュウさんの手を取り、それを握り締めていた。
考えるよりも早く、そうしてしまっていた。
シュウさんの手は、冷たかった。
「だから、海に行かないんですか。海を、描かないんですか。私、この前シュウさんの海の絵を見たんです。」
早口にまくしたてる私を、シュウさんはただ黙って見つめている。
熱くなる胸に、私はどうしようもない気持ちをシュウさんにぶつけるように言葉を紡ぐ。
「シュウさんの海の絵を見て、すごく感動しました。海って、こんなに綺麗なものなんだって、シュウさんが好きなことが、その絵から伝わってきて。」
どうしてこんなに胸が締め付けられるのか、わからなかったけれど。
でも、言わなければいけない気がした。
恋人を海で失って、海から距離を置いているシュウさんに。
私は凪さんの、顔も、どんな人かも全然しらないけれど。
きっと、海が好きで。
シュウさんの絵が好きで。
――きっと、シュウさんのことが大好きだったんだろうと思うから。
シュウさんの濃い茶色の瞳に、影が揺れている。
私を映す瞳に、訴えかける。
音を出すのがこんなにも、息のつまるものだと知らなかった。
声が震えそうになるのを必死で我慢しなければ、そのまま泣いて言葉になんかならなかっただろう。
たった、一言なのに。
「……シュウさんと、海が見たいです。」
縁側にいれば、聞こえてくる。
ざざ、と、ゆっくりと満ちては引くことを繰り返す波の音。
シュウさんはその漣が聞こえるような日は縁側で、何をするでもなくぼおっとしていた。
庭の奥、海の方向を飽きもせずに眺めて。
「……記憶の中の、凪がさ…。」
シュウさんの手を握ったままの私の手を、シュウさんがぎゅ、と握り返す。
伏せられた瞼の長い睫毛が、顔に影を作っている。
「消えないんだ…。」
小さな、小さな声。
今迄聞いたことのない、弱々しい声だった。
「手を、…伸ばしたのに…っ。」
記憶。シュウさんの見る情景。
シュウさんは、絵を描く時、その時の情景が目の前にそのまま映し出されると言った。
それを私は、とても神様に愛された、すばらしい能力だと思ってたけれど。
そこに、記憶の情景が甦るような記憶力は、悲しい記憶をもなお鮮明に繰り返させてしまうのだろうか。
私の手を握るシュウさんの指は、かすかに震えていた。
こんな、シュウさんを見たことがない。
私の知っているシュウさんは、大人で、なんでもこなせて。
涼し気な横顔の美しい、意地悪で優しい人。
「……私、シュウさんが好きです。」
「……ふっ、うん。……知ってる。」
瞳を伏せたまま、シュウさんが少し笑う。
私の心臓は、いつものように早鐘のように打ってはいなかった。
ゆっくりと、ゆっくりと、脈をうつ心臓。
それはシュウさんも同じ。
脈を打ち、呼吸をして。
――生きているのに。
「…凪さんも、シュウさんが好きだったんですよね。」
「……うん。」
シュウさんが、顔を上げた。
けれど、私の目は、彼の顔をはっきりと映すことができなかった。
いつの間に、涙が出ていたんだろう。
こらえていたはずなのに。
自分でも気づかぬうちに瞳を滲ませるほど溜った雫は、私の瞬きとともに頬を滑り落ちる。
「…もし、私が凪さんだったら、シュウさんが私のために海を描かなくなったり、海に行かなくなったら嫌です。」
きっと、嫌。
海が、美しいものだって知ってる。
シュウさんの絵が、私にそれを教えてくれるから。
シュウさんが、大好きなものだから。
涙が止まらなくなった。
大好きな人から、大好きなものを奪ってしまう。それを、想像するだけで悲しい。
「新しい、海の記憶を作りましょう。忘れる必要ないです。ただ、そうやって少しずつ、優しい思い出にかえていきましょう。」
どんなに辛いか、私にはわからない。想像でしか、それを言えないけれど。
ただ、恋人を目の前で失う、その光景だけが鮮明に甦り苦しめること、それはとても悲しいことだ。
私は祈るように、シュウさんの手を握る手に想いを込めた。
長い、沈黙が続く。
最初に口を開いたのは、シュウさんだった。
「和葉。」
「……はい。」
シュウさんは私の手を離した。
伝わらなかったのか、と。私は落胆する。
けれど次の瞬間、今度はシュウさんの腕に抱きしめられていた。
「……和葉、ありがと。」
穏やかな声だった。
さっき聞いた、切なく弱々しい声ではなくて、いつものシュウさんの、落ち着いた優しく響く声だった。
「今度、行こう。」
「……え。」
「海。一緒に行こう。」
耳元で、甘い響き。
私はシュウさんの腕の中、また、涙が止まらなくなった。
ふと見ると、部屋に差す、正午を少し過ぎた陽射しが、私たちの動きに舞い上がった埃を、きらきらと。
美しく照らしていた。




