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兄代  作者: 戸塚千景
第1章
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第3話

「こら九条。病み上がりだからと言って、居眠りしていいとは言ってないぞ」

 そんな、しゃがれた声に反応して顔を上げたのと、前頭部にてパンっ、という高い音が鳴ったのはほぼ同時の出来事だ。

 思わず、素の彼が出て来てしまう。

 何が起こったのか分からず、きょとんとする彼にクラス中の視線と、笑い声が集中する。

 いつにも増してよく回る頭が、数拍の間を空けて状況を説明した。

 赤崎高校。2年1組。3時限目。数学。担当は平林先生。

 そして、今俺がここにいる理由にして、覆ることのない大前提――――。


 俺は、九条雨霧だ。


「――――痛ってえなぁ、先生! 何もそこまでしなくていいじゃん!」

 衝撃を受けた箇所を両手で押さえ、口の先を尖らせて平林に向けて突き出す。黒縁の眼鏡が妙に似合わず、頭部の地肌の広がりがこっそりと伺える彼の手中には、丸められた数学の教科書が握られていた。

「九条、お前は何度言っても私の授業に真面目に参加する気を起こさないようだな?」

「しょうがないじゃないっすか! 俺昨日までベッドの上にいたんすよ? 所謂あれっすよ、時差ボケみたいな奴! ……ベッドボケ? 病人ボケ?」

 するとまたもや、頭頂部を教科書で叩かれる。教室が、どっと沸いた。

「痛っつ……」

 叩かれた所を押さえ、顔が見られぬよう少年はほんの少し俯いた。

 そして、小さく舌打ちをする。

 

 教室を包んでいた笑いが段々と収まってきた頃合を見計らい、平林は教科書を真っ直ぐに伸ばしながら、最後と言わんばかりの忠告を彼に投げかける。

「今日の所は、これで終わってやろう。次は、廊下に立たせるからな」

 少年の顔は、未だ下を向いたままだ。

 どの時代の教育論だよ……。

 思わず口から出かけた言葉を渋々呑み込み、顔を上げてにっと笑ってみせる。

「はーい」

 明らかにやる気の感じられない返事に平林は溜息をつくが、一人の生徒に時間を割いてはいられないという賢明な判断の下、教卓に戻ろうと少年に背を向け、歩みを進める。

 その背中に向かって、彼はまた舌打ちした。眉間にも、浅くない皴が生じている。


「俺平林の数学は結構寝てるな。3回に1回、は必ず」

 晴天の頭の中で、妙に機嫌の良い雨霧が出て来る。雨霧は、きっとこうなることを予期していたに違いない。

 今度は、兄に対する憤りにより、授業どころではない。

 こういったところで誤算を生じさせるのは、兄貴の悪い癖だ。自分がどう反応するのか、面白半分、楽しみ半分だったのだろう。

 それにまんまと引っ掛かった自分にも、晴天は苛立っていた。

 しかし、一番腹立たしいのは平林である。

 現在晴天が受けている授業内容は、晴天が1年生の夏休み明けにやった箇所であり、反復学習も嫌という程やってしまっている。今更に、新しい知識として頭に入れる必要性はない。

 ただし、平林の説明が、晴天に困惑を招いている。

 だらだらと抑揚のない話し方、関係の無い公式で埋まる黒板、覇気のない態度。

 どこが重要なのかも分からない。発言が整理されておらず、進んだかと思えば突然に戻ったりとどうも目まぐるしい。

 兄貴はいつも、こんな授業を受けているのか。実の兄に憐れみを抱いたほどだ。

 これでは、雨霧の成績が一向に伸びないのも合点がいく。高校生にもなって、弟に通知表を見せたがらない姿勢には呆れていたが。

 これでは、俺が教えた方が身になる。そう考える一方で、晴天の身体にある変化が起こっていた。


 授業中に睡魔に襲われるなど、いつ以来であろうか。


 全く先に進まない授業に苛立ちながら、その進行の遅さに体がどんどん怠けていく。雨霧の言うこともあり、この際だからと机に突っ伏したのが間違いだったのだ。


 ノートは真っ白。教科書に何かを書き込んだ様子もない。

 晴天は取り敢えず、この数学の授業が終わるまでの時間を即座に秒単位に変換し、時計を睨み付けながらカウントダウンを始めた。


 


 この日の全過程の終わりを告げるチャイムが、学校中に響く。同時に、ざわざわという声と、昂揚感と、開放感に包まれる。

 授業中は思わぬ誤算があったものの、もうそれに構う余裕は、晴天にはない。

 机の中に突っ込まれた、くしゃくしゃのプリントを一枚ずつ取り出して広げ、それが高く積まれていくと同時に兄のだらしなさに目の色が消えていく。

「後で持って行くか……夏休みの注意事項、生物の単語一覧、数学の課題について、5月の学校便り……あ、これ英語の期末テスト……38点……」

 プリントの題名を読み上げながら、弟特有の羞恥心も募っていく、その最中だった。

「おーい、くじょー? 何今さら掃除なんてやってんだよー?」

 朝方に聞いた、陽気な声を耳が拾う。

 声のした方に顔を向けた。国城が、廊下から教室を覗く格好で首を傾げている。

「お前、もらった奴次々と机に入れて、先生に言われない限り掃除しないじゃん。何で突然?」

「……教科書が一冊も入らなくて、でも昼間は人の目があるから……」

 小声で答える。もちろん、国城には届いていない。

「は? 何?」

「――――何でもねえよ」

 素っ気なくも、雨霧らしく返答する。

「ふーん。――――ところで、それいつまでかかんの? 部活は?」

 きょとんとした、純粋な疑問が国城の口から飛び出る。

 対して、晴天の額には、うっすらと冷や汗が光っていた。


 彼に、最大の問題が立ちはだかるまで、あと、13分。


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