第九話 奪還と真相
若かった叔父は純と律の面倒をよく見させられていた。その日も大人たちの難しい話についていけなくなった二人を連れて、どこかの神社だったか、初詣に参った。出店が並んでいて叔父は純と律にりんご飴を買った。
それから叔父は宝くじを買い、この紙切れが、運がよければお金に換わると言った。純と律はそれに目を輝かせ、お年玉から千円ずつ出して叔父に買ってとねだった。二人に番号を選ばせながら、叔父は尋ねた。
「二人は当たったら何が欲しい? 」
純と律は同時に言った。
「アイスクリーム。」
「お母さんがずっと前に買ってくれた高いの、たくさん食べる。」
叔父は微笑んで、二人の頭を撫でた。
遺言状に叔父が律にだけ遺産を残したとき、純は少しだけなんだそりゃと、理不尽に感じた。律は自分よりもしっかりしていて、成績も優秀だし生徒会の活動もしていたし、陸上部のエースだった。多才で優秀な妹に比べて、自分は何もないと思ったこともある。叔父は自分よりも律に残したほうが、有意義に使うと思ったのだろう。
根っから深く思い悩んだり、いつまでもぐだぐだ落ち込んだりすることができないらしい。まぁいいかと思いながら大学生活を送ってきた。
それがいきなり、五百年の怨念の塊の美少女が、幼い子供のように自分をしたってくる。さすがの純も、少し真面目に考えようと思った。
「純君は大丈夫だね。」
別れ際に微笑んでいたおばあさんの顔がよぎった。純の腕にもたれかかってスイが眠っている。
自分のどこが大丈夫なんだ。自分のどこに、こんなに寄りかかるんだ。こんなに全身で寄りかかられて、腕をひっぱられて、そばにいてと懇願されたのは初めてで、少し戸惑う。けれど、応えたいとも思う。
律はしっかりしているから、父さんも母さんもいるし自分なんかいなくても大丈夫だ。いつもそう思っていたけれど、律は自分を頼ってアパートに来た。連絡もとれず、帰ってくるかもわからないのに。暑い中ずっとあの扉の前で待ち続けた。そのあいだなにを考えていたんだろう。
「純、大丈夫か? 」
大上が言った。純は顔をあげる。
「ちょっといろいろ思い出した。」
純はスイを刺激しないように身を乗り出した。
「オオカミさんって兄弟いる? 」
「どうした? 急に。」
純は大上の笑った顔を見た。
「あんた面倒見のいい兄ちゃんって感じがする。弟か妹かいるだろ。」
純が言うと、大上はあごで廃屋になったホテルをさした。
「その話はまた今度な。」
ホテルの駐車場で車が停まる。純は車の中に手を伸ばす。闇の中に真っ黒な髪がゆれる。長い前髪の間から、あどけない唇が見える。白い手が純の手を取った。
「気をつけろよ。」
うなづくと純は歩き始めた。時々腕に髪の毛がふわりと触れた。ホテルの中には砂が入り、ごみが散乱し落書きが壁にある。まっすぐに純は歩いていく。
幼い頃、律と一緒に手をつないでキモ試しをした。二人とも本当は怖くて、でもわくわくしていた。二人並んで歩いていくと、錆びた噴水があった。もとは聖母か、女神だったのか、首はなく女性を思わせる体つきをした彫像がある。そのそばに律がいた。
「律。」
純が呼びかけるとすぐに頭を上げる。少し汚れていたが、律の体に傷はついていないようだ。服装も長袖シャツにジーンズと、少し汚れているけれどきちんと着ている。純がほっとすると、律の顔が泣き顔になった。
「お兄ちゃん。」
後ろから男の手が律の口を塞いだ。
サングラスをつけた男が律の口をふさいで腕をつかむ。男は指先を動かして笑った。交換だと言っているのだろう。
黒髪がさらりと揺れ、純を向く。純は唇をかむと、手をつないで歩き出す。
「だめ。」
律が叫んだ。
「だめ、その人は、純の大切な人でしょ。だめ。」
男が律の腕をひねりあげた。律が悲鳴をあげる。
「律に触るな。」
純が叫んだ。純はつなぎあった手を前に差し出す。そっと、純の手から指が離れて歩き出す。
男は律を突き飛ばした。よろけて前に倒れこんだ律と入れ違いに、黒い髪が揺れながら男に近づく。純は駆け寄って律を抱き上げた。男を睨みつける。男の手が黒い髪をなでる。
「あんたは、何者だ。なんで俺の妹にこんなことをするんだよ。」
純が怒鳴ると、男はおどけたように首をかしげた。
土を踏む音がして、人影が現れる。純は震える律を抱きしめて、身構えた。
「純は殺さないって約束でしょ。」
聞き覚えのある声に純は硬直する。闇の中から、見覚えのある栗色の髪がゆれる。夏なのに、背筋に冷たいものが落ちた。
「七恵? 」
暗闇の中で七恵が笑う。純は混乱していた。
「驚いた? でも私も驚いた。」
くすくす笑って七恵は言った。
「なんでかな。私のほうが先に見つけたのに、失敗しちゃったな。」
声の様子が不機嫌そうになった。
「なんで大上と仲良くしてるの? 」
七恵が純を睨みつけた。
「オオカミさんと仲良くしてたのはお前が先だろ。」
「違う。」
七恵の声がホテル中に響いた。
「殺そうとしたのよ。なのに、純がいきなり来たんだもん。びっくりしちゃった。」
七恵が笑った。
「お前、何者なんだ? 」
闇の中で何かが転がる音がする。丸いものが床をすべっていく。数珠球だ。周りを黒い靄が包み始めた。
「芦垣、殺さないで。」
七恵の後ろからざわざわと音がする。純は律の腕をつかんだ。
数珠球が生き物のように動いた。純は目をそらすまいと奥歯をかんだが、数珠球が宙で停まった。
「芦垣さんちょっと待ってください。」
純は目を動かす。昼間の少年がいる。芦垣が少年を睨んだ。
「話違くないですか? 」
「黙れよニシ。お前は後方支援だろ。」
少年は純を見る。
「芦垣さんがつかんでるのって、赤須ですよね? 」
少年が言った瞬間金髪の男は自分のつかんでいる手を見る。
「律、走れ。」
純が走ると、律も走った。
芦垣と呼ばれた男が追いかけようとしたとき、彼の腕を黒い髪がつかみあげた。同時に細い足が顔にめり込む。
「痴情のもつれってやつ? お昼のドラマみたいだね。」
のんきな声でキナコが言った。男の顔を踏みつけたまま、黒いカツラを脱ぎ捨てる。純は走り続け、大上の車が見えてきたところで律の背中を押した。
「行け。」
「純は? 」
律が振り返ったが、純はその背中を押した。
「大丈夫だ。あいつらは、お前じゃなくて俺が目的だ。この前俺のアパートにいた人、オオカミさんがいるから走れ。」
律の背中を押して純は振り返った。キナコ一人を戦わせていられない。律が立ち止まったとき、玄関が崩れた。
「違う。私たちの目的は二人とも。」
七恵が笑う。背後に黒い靄が動くのが見えた。純の足元がえぐれる。
「貴方たち二人を脅して欲しいって言われたの。妹のほうを特に。」
純は律をかばうように立った。
「誰なんだ。」
七恵が唇にゆびをあてる。昔は、魅力的に感じていたしぐさだが今はただ不気味にしか見えない。
「私とより戻りてくれたら教えてあげる。」
七恵が指を組んで可愛らしく微笑んだ。
「私、純のことが好きだよ。本当だよ。」
七恵の前に壁が崩れ落ちる。さっきの少年だった。仲間割れか、裏切りか、どちらにしろ味方になってくれてるようだ。
「純ちゃん、警戒して。」
はっとして純は距離を置く。その時壁にそって立っていた彫像が倒れた。律めがけて落ちてくる。少年が飛ぶような速さで律にぶつかり、律が床をすべった。律が立ち上がって少年に駆け寄る。出入り口になっていた扉を崩れた壁と散乱していた家具が塞いだ。
「ニシ、頭いいけど要領悪いね。どうでもいいでしょ。あんたは言われたとおり仕事すればいいんだから。」
七恵の生気の抜け落ちたような目が少年を虫みたいに見ている。
「つーか、俺黒髪の方のことしか聞いていないんですけど。」
少年がうめいた。腕を押さえている。律が起こそうとする。純は少年を庇うように立った。キナコは飛んでくる数珠球から逃げている。助けを求めることはできない。
純の頭上がメキメキと嫌な音をたてる。純は言った。
「七恵、俺のことはあきらめろ。」
七恵から笑顔が消えた。
「純、私のこと軽い女だとおもってるでしょ? 違うんだよ。これでもけっこう一途なんだよ。」
天井がみしりっと音をたてる。
「やめろ。」
純が叫んだ瞬間、頭上から髪の毛の塊が落ちてきた。七恵めがけて絡みつく。
「やめろスイ。」
七恵の悲鳴がした。純は駆け出した。髪の毛が純に絡みつく。
「それ以上すると七恵が死ぬ。やめろ。」
キナコが飛んできた。ごろごろ床に転がって、体中の黒い靄をはらう。数珠球がキナコめがけて飛んできて、キナコは上着で叩き落す。
「このガキ。」
芦垣が口汚くののしりながら、真っ黒な靄を身体にまとわりつかせて襲ってきた。
「キナコ、どうすればいい? 」
純はワンピースを揺らして逃げるキナコに叫んだ。
「考えて。まぶしいもの、光ってるもの。なんでもいい。純ちゃんが明るいって思うもの全部。」
純は髪の毛玉の中を掻き分けて入り込んだ。手を必死にもがいて、スイの腕を捜す。こんなに真っ黒なのに、明るいものなんて急に思いつかない。電球とか、そんなものじゃない。もっとまぶしいものだ。
真っ青な空、青々と揺れる田んぼ、スイが笑っていた顔を思い浮かべたとき、手が何かをつかんだ。
髪の毛が一点に流れていく。黒い靄が消えていく。純の手をつかんでスイが笑った。
「純。」
スイは純を抱きしめて、ほほを摺り寄せた。
純は床に転がった七恵を見る。胸が動いているから、生きている。
「よしよし、殺さなかったな。」
純が言うと、スイが純を強く抱きしめた。
「純。」
スイがぎゅっと抱きつく。
黒い靄がすっかり晴れ、キナコは数珠を拾い上げた。さっきまで弾丸のような勢いで動いていたのに、今は静かだ。
「どういうことだ。」
芦垣が叫んだ。純を睨む。
「なんで俺の数珠が動かない。」
キナコが数珠をゆびではじいて芦垣に言う。
「あんただけじゃないよ。ハコちゃんの力も、あたしの目も、そこで転がっているのも、ぜんぜんだめ。」
芦垣が純に歩み寄る。
「俺のアイデンティティーを返せ。」
その後頭部にバットが振り下ろされた。芦垣が倒れる。
「だったら最初から鈍器を武器に使え。」
純は、やはり赤須は自分が持っているものが鈍器だという認識があったんだと思った。
「なにこれ、なんなのよ。」
律が叫んだ。
「純、なんでそんなに平気なの。」
純は律とスイを交互に見た。
「なんなのよ。これ、なにがおきてるの? 」
これが普通の反応なのだろう。理解できないものを嫌悪し、手に負えないものに恐怖する。
純はスイと手をつないで、律に歩み寄った。律が怯えて後ずさる。
「律、俺は今ちょっと変なことに巻き込まれてるんだ。でも、俺はこの変なことがそんないやじゃないし、ちょっと好きかもしれない。」
律の肩が震える。
「なんでそんなにいいかげんなの。なんでそんなに、軽く考えてるの。」
もっともな言い方に、純は苦笑いをした。
「俺がどんなにだらしなくていいかげんで、どうしようもなくゆるい人間でも、スイは俺がいいって言うんだ。お前もちょっとそうだろ。」
「そ、そんなわけないじゃない。馬鹿。」
顔を真っ赤にした律に、純が言う。
キナコが赤須のそばにぺったり寄り添って言った。
「お父ちゃんもあれくらいツンがあったほうがいい? 」
「扱いづらいしうざい。お前はツンでもデレでもいいけどな。」
瓦礫を押しのけて少年が立ち上がる。腕を押さえていた。
「ジャリ、知ってること全部吐け。」
バッドを向けて赤須が言う。少年は両手を上げた。
「俺はその黒髪を連れて来いといわれました。密教系の新興宗教の集団で、テロに使う可能性があると雇い主に言われました。」
素直に少年が言った。純は便乗して質問した。
「俺の妹をさらったのは? 」
「それはバッドで殴られた人の仕事です。」
律が言った。
「私、映画館から出たところで女の人に声をかけられました。この男の子は、今初めて会った。」
キナコと赤須が芦垣を見てから、少年を見た。
「お名前は? 」
キナコが腰を落として少年を見る。
「あたし、あんたの名前がすっごく知りたいな。さぞかしいいお家柄なんでしょ。」
少年が目をそらす。図星なんだろう。瓦礫が崩れて大上がこっちを見た。なにが起きたかわからないらしくしばらくこっちを見ていて立ち上がった赤須がバットを握った手で殴った。
「寝ているやつらをトランクに詰めろ。吐かせる。」
なぜかウキウキわくわくしているように見えた。キナコはじろじろと獲物を見つけたライオンみたいに少年を見ていた。
純は、親戚が集まった居間にいた。この前のおばあさんのところで、重苦しい空気を体験済みなせいかなんでもないことのように思えた。
親戚の中で一番金に困っていたのは、父の兄だ。二浪している娘とバイクを欲しがっている息子がいた。二人とも私立で、伯父の経営する会社はこの不景気で危ういらしい。赤須が芦垣をボコって雇い主が伯父であることを吐かせた。今も何食わぬ顔でここにいるのが信じられない。純は自分もこのおっさんを一回くらい殴りたかった。
背筋をぴんと伸ばしたまま入って来た律を皆が見た。制服を着ているのに大人びて見えた。律は大きなクールボックスを持っていた。
「わざわざ集まってもらってごめんなさい。ありがとうございます。」
律は深々と頭を下げた。
「叔父さんからお手紙をもらったので、せっかくだからおじさんやおばさんたちにも見て欲しくって。」
律が微笑んだ。純は、律でもこういう顔ができるんだと思った。律は手紙の中を読み上げた。
「律へ。この手紙を読んでいるということは、月並みだけど叔父さんは死んでいます。」
純は吹いた。母がぎゅっと純の太ももをつねった。
「律は人一倍負けん気の強い女の子なので、純のように適度に力を抜くのが苦手な子だから、叔父さんはこれを律に残します。律が悲しいとき、純とケンカしたとき、この中にあるものを使いなさい。きっと解決するから。」
律は大事に手紙をしまった。
「叔父さんがくれたものはたくさんあるので、せっかくだから皆でわけようと思うんです。」
律が言うと、親戚の間からざわめきがした。母がそっと目頭にハンカチを当てた。
「りっちゃん、いい子に育って。」
純は母の涙に罪悪感を覚えた。
律はクーラーボックスを抱えると、父と向かい合って座っていた伯父に向かって投げつけた。伯父のほほに若干めり込んで、眼鏡にひびが入った。唖然として全員が口を開けた。律はクーラーボックスを抱える伯父を睨んで言った。
「それ、全部浩一郎伯父さんにあげます。欲しかったんでしょ? 私とお兄ちゃんを殺してでも。」
伯父が一瞬表情をこわばらせたが、すぐにもとの顔に戻った。
「律ちゃん、なにを言ってるんだい? 」
律の足がクーラーボックスごと伯父を踏みつける。
「今度弁護士さんと一緒にお邪魔しますから、よろしくお願いします。伯父さん。」
母がぽかんと見る。親戚一同は唖然とする。父は、無表情におもむろに立ち上がった。
「どういうことなんだ、律。説明しなさい。」
純は、こんな事態にも関わらず冷静に発言している父の肝の座り具合に驚いた。普段無口なだけでいざという時もアテにならないと思い込んでいたので、見直した。
伯父が律に残したのはアイスクリームの商品券だった。宝くじは確か当たっていて、それをすべてアイスクリームの商品券に変えていたらしい。両親にはスイやキナコのことは伏せて、誘拐された律を助けに、バイト先の男性スタッフと一緒に助けに行ったということにした。
母はそのあいだになんで警察に言わない、と律と純のほっぺをつねった。結局律のこれからを考えて起訴はしないようにしておこうということになり、その代わりに父と律は伯父に手加減なしでいろいろな証書に署名をさせていた。金で解決するのかと、純は見ていたが、律の気が済むならそれが一番だと思い、黙っていた。




