第五話 名付け親
睡眠欲が性欲に勝ったらしく純は目を覚ました。可愛らしい少女の寝顔が目の前にあったとき、しばらく考えたが考えに至った瞬間、飛び起きた。何かにぶつかって倒れこむ。見ると大上がいた。
「おはよう。」
おはようじゃない。純が何か言うより前に、少女が起きた。純の袖をぎゅっとつかむ。大上は時計を見た。
「俺は先生手伝ってくるから、お前はここでその子の服整えてくれ。」
純は少女の襟元がゆるんで、胸が片方見えてきているのに気づいて、直した。けれどおばあさんのようにできなかった。
「俺のシャツで我慢してくれ。」
純は自分の厚手のシャツをかぶせた。それからぶかぶかだが余分に持ってきた、ズボンもはかせた。
「じゃあ俺トイレ行ってくるから、ここで待ってて。」
純が襖を開けると、案の定少女はシャツをつかんでついてきた。さすがに個室までついてきたときには力いっぱい抵抗して、なんとか扉の前に押し出した。少女は扉を爪で引っかいて、うなっている。純が出てくると、おおげさなくらい飛びついてくる。捨てられたとでも思っているのか。いじらしさに頭をなでてやりたいが、手を洗ってからにしておいた。
部屋に戻ると朝食が運ばれていた。朝食は昨日の夕食と同じように二人きりで食べた。少女は純の真似をして箸を使う。膳は台所に下げた。大上が皿を洗っていた。
「オオカミさんなにしてんの? 」
「手伝い。」
割烹着が似合う。
「俺も手伝うよ。」
純が腕まくりをすると、少女も腕まくりをしてまざる。大上が笑った。久しぶりに笑った顔を見た気がした。
「ここって家政婦みたいなのいないのか? 」
「女中さんはいないな。ちゃんと家事をする人はいるんだが、俺がやらせてもらってる。」
純はちらりと大上を見る。
「変なことに巻き込んで悪かった。」
純は、この前の気の抜けた謝罪ではなくて、心からそういってるんだと気づいた。
「赤須さんが、ハコのこと話してくれたんだけどさ、なんか胡散臭いっつーか、からかわれたって言うか。この子が出てきたハコが昔に作られた呪いの道具だって言うんだ。それも、生き物を殺し作るって。」
大上が笑った。
「本当だ。」
純は大上を見る。
「ハコは怨念を込めて作る呪具だ。その力で大勢人が死んできた。」
大上がまじめな顔で言った。
「五百年前に作られて、埋められていた。それがある旧家が壊されたときに出てきてしまったんだ。純が開けるまでその間ずっと封じてきた。」
純は大上を見上げる。
「怨念の塊、この世の憎悪を全部詰め込んだような棺だった。開けなくても漏れ出していて、札も数珠もあっというまに朽ちる。ちょうつがいもぼろぼろだっただろ。上から釘を打ったのに、さび付いて浮き出していた。」
純は明るいところで改めて見ても、やっぱり少女は可愛い女の子にしか見えない。
「怨念の塊がこんなに可愛い形してるのか? 」
「俺も驚いた。純と一緒に寝ていたときには、俺たちが怯えていたものはなにだったんだろうってしみじみ思った。」
最後の皿を洗い終わると、大上は手を拭いた。純にもタオルを差し出す。純は少女と半分づつ使って手を拭いた。
「俺を連れてきたのって、ハコに何かするためだったのか? 」
「純の力が役立つと思った。少しでも先生の負担が軽くなるかもってな。」
大上が着ていた割烹着を脱ぐ。
「なのにお前、一瞬で先生の苦労を取り除いた。俺はもう、笑えばいいのか突っ込めばいいのか。」
美加も同じように言っていた。あんたは何者だと。
おばあさんは言った。少しだけ特別だよと。ただこれから先、純の一生には必要のない力だろうと。
「昨日に続いて今日も話し合いだ。俺は行かなきゃ行けないから、その子の面倒頼むぞ。」
大上が割烹着を丁寧にたたむ。
「純、外に出てもいいけど、あんまり遠くに行くなよ。」
「行きたくても行けないだろ。」
純が言うと大上が笑った。
昨日使った下駄を借り、履かせると純は少女を連れて外に出た。林があって、ずっと田園が広がっている。山が青々していてまぶしい。携帯電話は圏外だったが焦らなかった。まぁいいかと思いながら、少女と手をつなぐ。少女が嬉しそうに笑った。
「いい天気だな。風も気持ちいいし。」
話しかけても、少女は嬉しそうにするばかりだ。純の手をぎゅっと握っている。手をつなぐだけで、女の子にこんなに嬉しそうな顔をしてもらったのは初めてだ。
田んぼの間に小川が流れている小魚が見えた。
「これ食えるのかな。」
そんなことを言いながら、田んぼを覗き込んだり、あぜ道をのんびり歩く。トンボが横切っていき、黄色い蝶がひらひら飛んでいる。歩くたびにバッタが足元を飛び跳ねた。
自分のそばにいるのが怨念の塊だとは思えない。赤ん坊の頃からずっと昏睡状態で、やっと目を覚ました。そんな表現がぴったりくる。こんなに嬉しそうに、こんなに楽しそうに笑う。この子が人を大勢殺すことのできる呪具だなんて、誰に言っても信じてもらえない。純も信じられない。自分は死んでいないし、苦しくも痛くもない。何よりこの少女からは穏やかで無邪気な雰囲気しか出ていない。青々とした草原で笑っている姿は、癒しの音楽を流すプロモーションビデオのようですらある。
携帯電話が鳴った。メールが何件か届いている。家族と友達からだ。電波が危ういので早めに送ろうと純はメールを開いた。少女はそのあいだ、純がメールを打つのを興味深そうに見ている。けれどすぐに飛んでいく虫に目を奪われる。子供みたいで微笑ましい。
少女がぴたっと止まり、純の腕をつかんだ。顔を上げると、真っ白なものが見えた。
フリルのついた日傘をさして、ふわふわの日傘と同じ形に膨らんだスカートを履いた、白い靴下と白い手袋と、白い靴の少女がいた。
そっと日傘を上げると、左目に白くて星の形をしたアイパッチをつけている。金色の巻き毛に薄い色の目と長いまつげをした、猫のようにくりっとした瞳の少女だった。歳は中学生くらいだろうか。小柄でまだまだ幼い顔をしている。着ている服はどうみても田んぼの真ん中に出現するような存在ではないのだが、整った顔立ちで異世界から来たんだろうと納得してしまう、オーラがあった。
少女はくるりと日傘を回した。よく見ると、彼女の後ろにはいつの間にか黒い車があった。見渡しのいい場所なのに純は気づかなかった。少女はすたすたと純の前に歩いてくる。それから、小首をかしげた。
「こんちは。おにちゃんたち地元の人? 」
少女はじぃっと、純の腕にしがみつく黒髪の少女を見る。少女がさっと隠れる。すると覗き込む。
「真っ黒な髪の毛のお人形さん、ハコちゃん? 」
少女が純を見た。
ハコと呼んだということは、寺の関係者だ。純が一歩下がると少女は日傘をしまってから、右手を差し出した。
「初めまして、あたしキナコ。おにちゃん、ハコちゃんを出した人っしょ? 」
少女が笑った。純は戸惑った。キナコと言われて、赤須のことを思い出した。てっきり黄粉だと思ったが、人の名前だったのか。
「おにちゃんの名前聞いてないの。ハコちゃんも。あたし挨拶したよね? 」
少女が口を尖らせる。純ははっとした。
「俺は原田純、この子は、えーと? 」
純は少女を見る。少女は純を見る。キナコは二人を交互に見た。
「ハコちゃん名前ないの? 」
キナコは日傘をまたぱさっと開いた。
「名前、もらえるといいね。もらったら教えてね。」
キナコはくるりと背中を向ける。車に戻っていった。キナコが乗ると、車はおばあさんの家に向かう。純は呆然と見送りながら、少女を見た。
名前は、ないのだろう。大上も、赤須も、おばあさんも、名前を呼ばなかった。この子はやはり存在していなかったものなのだ。けれど純が、形をもたせてしまった。
まだ信じきれないが、純は少女を見る。いつまでもこいつとか、お前という呼び方は不便だし可哀想だ。おばあさんが立派な名前をつけてくれると思うが、それまでの間仮で自分が呼べる名前があってもいいんじゃないか。
「あのさ、名前、スイって呼んでいいか? 」
少女が純をじっと見る。
「こういう、真っ黒でまっすぐなすごく綺麗な髪のことを翠髪って言うんだ。ハコよりはマシだろ? 」
純が言った。少女は黙っている。純の袖をぎゅっとつかんだまま、見つめ返す。
「気に入らないか? 」
少女が手に力を込めて、純に抱きついた。踏ん張らなければ倒れていた。
少女が声を上げて泣いた。純はおろおろしながら少女を見る。
「嬉しい。」
涙をこぼしながら笑った。純も笑い返した。
「スイ、大事にする。」
そんなに喜ばれると、なんだかこそばゆい。
「戻るか。オオカミさんも心配してるかもしれないし。」
スイがこくりとうなづく。純が手を差し出すと嬉しそうに飛びついた。
寺に戻ると、キナコが乗った車が停まっていた。車の運転席からすらりとしたロングスカートの女性が降りてきた。スリットは紐で結んであって、何もないよりも色っぽく見える。胸元が開いていて、腰には龍の刺繍がしてある帯を巻いていた。
キナコと同じ、異世界のいでたちだ。純がぽかんと見ていると、おばあさんとキナコが一緒にいるのが見えた。
「ハコちゃん、純ちゃんおかえんなさい。」
出迎えてもらっている。純はスイと手をつないでいたが、スイが言った。
「スイだよ。純が名前くれた。」
いきなりアグレッシブにしゃべり始めた。純は驚いてぽかんとする。
「スイちゃん、よかったね。かぁいい名前。」
キナコが褒めるとスイは嬉しそうに純の腕を抱きしめる。
「名前、ついちゃったんだ。」
黒いロングスカートの女性が言った。じろりと冷たいとも言える目で純を見た気がした。おばあさんも驚いていたが、すぐに笑った。
スイは名前を褒められたのが嬉しいのか、ずっとにこにこしている。
「フサおばあちゃん、キナコとマナちゃんで色々スイちゃんのおよ服もって来たよ。キナコのお下がりだけど、マナちゃんのおさがりもあるよ。サイズがわからなかったからてけとーに持ってきたの。」
この異世界からの来客はスイの服を持ってきたのだろう。おばあさんが頼んだのだろうか。キナコは大きな紙袋を車から出した。ブランド名の書かれたその中には、キナコが着ているのと同じようなフリルがちらりと見える。
おばあさんが服を着せるために案内し、スイを説得して純から離して。服を着るために部屋を移動した。襖で区切られているだけの隣の部屋で、純はロングスカートの女性と一緒に待たされていた。
切れ長の目が色っぽい。歳は大上と同じくらいだろうか。背筋をすっと伸ばして正座をしお茶を飲んでいる姿は堂々とし落ち着いて見えた。
「原田純、だっけ? 」
美女が突然尋ねたので、純はぎこちなくうなづいた。
「私は安西、大上の上司だけどうちのバイトに来る気持ちは今も変わらない? 」
安西はじっと純を見る。そういえばそんな話も出ていた。
「オオカミさんは、パソコンにデータを入力する仕事とかって言ってたんですけど。まぁ金はあったら学費のたしになるし。」
安西がお茶を置いた。
「遊ぶ金欲しさでもなんでもいいけどね、君けっこう肝が座ってる。」
にやりと笑った。最近こういう笑い方をする人とばかり知り合っている。襖が開いて誰かが来た。大上だった。安西と大上の目があった瞬間、大上がぎょっとした。
「安西さん、なんでいるんですか。」
「親父に呼ばれた。キナコぐらいの背丈の女の子に着せる服とか下着とか持ってこいって。」
襖が勢いよく開いた。キナコほどではないけれど、シンプルなリボンをあしらい、袖口にフリルのついた淡い桃色のワンピースを着たスイが出てきた。
普通の格好をしても、やはりスイは可愛い。髪の毛も伸ばし放題だったが、藍色の髪留めで横をすこしとめ、涼しげになった。
「あら、可愛い。」
安西が言うと、キナコが得意げに胸を張る。スイが純の隣にやってきてぴったりと寄り添って座った。普通のどこにでもいそうな格好のせいか、どきどきしてきた。キナコは呆然と立っている大上を見ると笑った。
「あーちゃんだ。お話終わったの? 」
大上が驚いたように言った。
「キナコちゃんも来たのか。」
とことこキナコが歩いて、大上にもたれかかった。
「あたしおなかすいた。おなかと背中がひっつく。もう立ってらんないよ。」
さっきまではしゃいでいたのによく言う。その瞬間、大上が吹き飛んだ。正しくは誰かに勢いよく蹴られた。誰かとは赤須だった。純はあまりのことに驚いて固まったが、他の全員は日常のように眺めていた。
「お前俺のものに勝手に触るな。殺すぞ。」
赤須が怒鳴った。昨日とは明らかに殺意の度合いがちがう。気性の荒さも。続けて倒れた大上を蹴ろうとしたが、止めるようにキナコが赤須の背中に抱きついた。赤須の動きが止まる。キナコは赤須の背中に顔をひっつけて、腕を腰に回した。
「なんでキナコがいるんだ。」
赤須が言うと、安西が目を細めた。
「皐月さんがおいていくからでしょう。寂しい会いたいってホームシックおこして手がつけられなかったんですよ。」
ぎゅうっとキナコは赤須の身体にしがみつく。
赤須はさっきまでの殺気はどこにいったのか、キナコの頭をなでた。キナコはぎゅっと抱きつき、泣きそうな顔で見上げる。
「さびしかった。」
赤須が鼻水を拭いた。キナコはすぐに赤須の腹に顔を当てて、ふすーっと息をする。
「まったく可愛いやつだな。世界か? 金か? お前がほしいものならなんでもやるぞ。」
赤須がキナコのつむじに言った。
「世界は皆のものです。皐月さんの一存で勝手にあげないでください。」
安西が冷静につっこむ。
「何もいらないから、もうちょと、匂い嗅がせて。」
キナコが赤須の薄い腹に顔を押し付けたまま、言った。赤須がキナコをつかんで、プロレス技のように回し始めたときは、一瞬なにが起こったかわからなかった。
「いつもの可愛がりだから、気にしないで。」
安西が嘲笑した。純は、一面というよりもうキャラクターが変わっていると呆然とした。大上は起き上がったところにキナコがぶつかってきてまた倒れた。
「マナちゃん来てたのか。」
髭のある男が入ってきた。安西が眉間にしわを寄せる。赤須はキナコを放すと頭をぽんぽんなでた。
「俺はむさいおっさんたちと飯食ってくるから、ここで坊主たちの守してろよ。」
キナコは悲しそうな顔をした。
「一緒にご飯食べたいよ。」
「むさいおっさんが大勢居るところいくと加齢臭がうつるだろ。我慢しろ。」
ひどい言い方だ。キナコはむーっとうなっていたけれど、我慢して残った。
昼食は冷麦だった。スイも同じものを食べて、一緒に出された寒天を眺めたり突いたりしてから食べた。キナコはもぐもぐ寒天を食べながら言った。
「純ちゃん大学生って聞いたけど、宿題とかないの? 」
「レポートは全部やった。一ヶ月あればなんとかなる。」
「え? ここから帰れるの? 」
キナコに間髪言われ、純は、自分がもしかしたらここから帰らせてもらえない可能性を思い出した。いつもとかわらず日常が来たので、楽天的に考えていた。
キナコはそれに気づいたように、言った。
「純ちゃんは家に帰りたかったら、帰れるかもね。」
「本当か? どうすればいい? 」
残った課題のことを考えると、すぐにでも帰りたくなった。
「スイちゃんをハコに戻せばいいんだよ。今までどおり。」
キナコがなんでもないように言った。純はスイを見た。寒天をおいしそうに食べている。
「もともとそうだったんだよ。ハコを移すために皆集まったの。スイちゃんを移したら終わり。」
「スイはどうなるんだ? ハコに入れたら、どうやって生活するんだ? 」
キナコは首をかしげた。
「スイちゃんはハコだから、何も食べなくていいしトイレにも行かないよ。」
純はスイを見た。こんなにおいしそうに寒天を食べるのに、何も食べず、飲まず、外の景色も見られず、これから先ハコの中で永遠にすごさなくてはいけなくなるのか。
「俺が家に帰れて、スイもハコの中に入れなくていい方法あるか? 」
キナコはお茶をごくっと飲んだ。
「あるよ。純ちゃんがスイちゃんを一生面倒みればいいの。」
しんと静まり返った。せみがみんみん鳴いている以外、音がしなかった。
「一生って、一生? 」
純はスイを見た。スイは寒天を食べ終わってごちそうさまでした、と言った。
「それができなきゃ、どっちか選んで。一緒にここに閉じ込められるか、スイちゃんを残して帰るか。」
キナコはごろんと横になった。
「あたしの両親はね、あたしを選んでくれたよ。あたしが良くないものかもしれなかったのに。」
眠そうにキナコがあくびをした。
「純ちゃんは、名付け親だよ。純ちゃんも選ばなきゃ。」
あくびをかみ殺していって、キナコはぷすーっと寝息を立て始めた。
純はキナコの寝顔を見てから、立ち上がった。スイも立ち上がる。
「スイ、俺は一人でいかなきゃいけないんだ。」
スイは首を横に振った。
「スイも行く。」
心細そうに言う。
「スイは、キナコが起きたら俺が電話をかけに行ったって伝えて欲しいんだ。すぐ戻ってくる。」
純はスイの頭をなでた。
「それかスイも昼寝してろよ。戻ってきたら、起こすから。」
純が言うと、スイは寝ているキナコと純を交互に見る。純は笑った。
「もしかしたら、これからずっとここにいなきゃいけないかもしれない。俺の家族に、当分連絡もとれなくなる。そしたら大騒ぎになるんだ。」
純が言い聞かせるように言うと、スイはぺたんと座り込んだ。じっと純を見上げる。純は頭をなでて、笑った。
「すぐ戻ってくる。」
純は携帯電話だけを握り締めて、外に出た。
寺の周りには民家が何もない。田んぼばかりだ。かなり歩けば民家がぽつぽつ見えてくるが、そこまで行かなくても腕を振れば携帯電話のアンテナがたった。
そのとたんメールがいっせいに入ってくる。美加からと友達から、それから家族からメールが入っている。純は一番緊急性を感じる、家族に電話をした。
「純、あんたなんで連絡してこないの。」
母の怒鳴り声がした。雑音が混じるが、会話できる。
「あー、ごめん。バイトで山の中にいるんだ。」
純が言うと母はため息をついた。
「もうすぐりっちゃんの誕生日でしょ。なんで連絡しないの。あんたがそんなに馬鹿だと思わなかった。」
「ごめんってば、俺もいろいろ大変なんだよ。」
いつもは鬱陶しい母の声が、とても懐かしく心地良いものに聞こえた。
「しかも山の中でアルバイトってなに? あんた悪い先輩にでも騙されたんじゃないの? 」
心配性の母らしい言葉に、純は笑った。間違いではない。
「畑の雑草抜いたり、野菜もいだりとかだよ。民宿みたいな場所でさ、飯もうまいし、空気もきれいだし、最高だよ。母さんたちも連れてきたいくらいだよ。」
「そんなこといいから、りっちゃんの誕生日には戻ってくるのよ。」
「わかってる。」
電話が切れた。純は携帯電話を見る。電波は立っているのに、どういうことだ。
その時、ぱちんっと頭上で音がした。純が顔を上げると、切れた電線が火花を放ちながら純めがけて落ちてくるところだった。
純はとっさに倒れこんでよけた。田んぼに落ちた電線が嫌な匂いを放ちながら稲を焦がした。誰もいないのに、と純は電柱を見上げた。木製の電柱の真ん中が、みしっと音を立てる。見えない何かが、電信柱を壊しているような光景に、純は見入っていた。自分めがけて倒れてきたときには手遅れで、純の足は動かなかった。
一瞬目の前が真っ黒になり、空も田んぼも見えなかった。けれど徐々に、純の目の前は見えてきた。電柱を何かが包んでいる。それは真っ黒な細い糸のようなもので、横から伸びている。純は自分をかばうように伸びた糸の先を見た。スイがいる。スイの髪の毛が絡みついた電柱が、スイの髪の毛に押しつぶされる。その瞬間、悲鳴のような音が響いた。スイの髪の毛が電柱を粉々にして、捨てた。
スイはとことこ純のそばによってきた。不安そうにじっと見つめる。
「痛い? 苦しい? 」
純はスイの頭を触った。普通の柔らかな髪の毛だ。でも目の前の光景は夢でも幻でもない。砕けた電柱がそばにある。
純はもう、自分はだめなんじゃないかと思った。こんなに信じられない光景を見たのに、スイのことが怖いとか気持ち悪いという気持ちは湧き上がらなくて、焦げたスイの髪の毛が痛々しく見えた。
「スイは痛くないのか? 」
スイは首を横に振った。不安げに純を見る。
「キナコ起きたから言ったよ。それから来たんだよ。」
自分の言ったことを守ってくれた。それにも感動してしまった。
純は立ち上がると、スイに手を出した。スイが嬉しそうに握り返す。
「ありがとな。助かった。」
純が言うとスイはいっそう嬉しそうに笑った。




