第十話 報酬と準備
純は話し合いもそこそこに、すぐ実元の事務所に戻った。キナコの携帯電話を借りたスイから、何度も何度も電話がかかっていた。三日ほどいなかったのに、何十年と会っていなかったかのような抱擁を受け、学校が始まったらどうしようと思った。
翌日純はキナコと一緒に七恵のいる病院に行った。七恵はあの後すぐに病院の前に捨てたらしい。七恵の意識は戻っていたので、純は会いに行った。大上にあの後問いただすと、彼は初めから七恵がスイを狙う者たちと関わっていたことを知っていた。そのため情報を得るために七恵の誘いに乗ったらしい。純はのど元までなんで言わなかったと言いかけたが、飲み込んだ。あのときの自分はそんな理由信じるわけがない。そして、今彼女と元の関係に戻れるかというと、そんなこともない。
七恵は病室で寝ていたが、七恵が驚いた顔をして起き上がった。純は座らずに言った。
「具合どうだ? 」
七恵が自嘲するように笑った。
「見たままだよ。」
こういう顔をするやつだったんだと、純は思った。本当に好きだったのに、七恵の上辺しか見てなかったんだと感じた。
「お前大丈夫か? なんか、失敗したやつは殺すみたいなのないわけ? 」
七恵がきょとんとした顔をして、吹き出した。
「私なんか殺しても仕方ないよ。私の目的は純と純を妹をさらうことだけだったんだよ。私一人でもできたけど、ハコのこと知ってた芦垣が絡んできただけだし。」
淡々と喋る七恵が自分の知らない女の子に思えた。
「早くよくなれよ。」
純はそれだけ言うと、立ち去ろうとした。七恵が一瞬だけ手を伸ばしかけたけれど引っ込めた。顔をそらして、消えそうな声で言った。
「好きだったよ。本当だよ。」
純は何も答えずに出た。スイが病室の前で純を待っていた。純が手を出すとぎゅっと握り返す。
一階の待合室に行くと、キナコが誰かと話していた。腕に包帯を巻いた、制服姿の少年だった。純を見てぺこりと頭を下げる。
「このあたりに住んでるのか? 」
「いや、皆実さんの見舞いに。」
「七恵の? なんで? 」
少年は真顔で言った。
「あの人、失恋したってすごく鬱になってて、ここ数日一緒に仕事してても生霊とばしまくってたし、病院でも廃人みたいになってないかなってちょっと心配だったんで。さっき見たらふつーだったから、立ち直ったんだなって。」
本当に優しい少年なのだと純は思った。
「あのグラサンは? お父ちゃんがボコボコにしたけど心配じゃない? 」
キナコが尋ねると、少年はきっぱり言った。
「あの人の場合自業自得っていうか、それくらいの覚悟して仕事してると思う。」
だがドライな面もあるらしい。
「原田さんにはご迷惑おかけしました。俺が安易に仕事引き受けたせいで怖い思いさせて。」
ぺこりと少年は謝った。
「妹かばってくれたり、なんか最後は助けてもらったほうが多いからそんなに気にするなよ。」
ちゃんと謝罪できることがとてもすばらしいことに見えた。
「そうだね。ご両親によろしくね、良一君。」
キナコが不気味な笑顔で言うと少年がびくっと震えた。弱みを握って愉快だという表情だった。
帰り道、詳しく聞けば少年はこの界隈で有名な家名の者らしく、両親にすすめられ修行もかねてアルバイトをしていたらしい。そこで、危険な力を持った少女が野放しになっているため、保護すると騙されスイを誘拐する件に加わってしまったとのこと。
「あたしも知ってる有名なお坊ちゃまだったよ。やっぱり若い子はすぐ悪い大人に騙されちゃうんだね。キナコも気をつけよっと。」
キナコが明るく元気に言った。あの怨念たぎる顔が元の笑顔に戻ったが、あの少年にとってはあまりいいことではないのだろう。
それからしばらくして手続きの忙しい両親に代わって、律が大量のアイスを持ってきた。キナコがクーラーボックスに喜んで頭をつっこんだ。
「お世話になりました。おかげで相手をかなり追い詰められました。」
深々と頭を下げる律のそばで、クーラーボックスにどんどん入っていくキナコ。そのまま中に納まるのではないかと、少し不安になったがアイスクリームを抱えて出てきた。
「追い詰めすぎるなよ。犯罪おこすぞ。」
赤須がキナコをひざにのせて、抹茶アイスを食べていた。人を散々拷問にかけた男の言うことではない。律はこの数日間で、異様な人間関係をスルーするスキルを身につけている。
「伯父さんにあの人たちを紹介した闇金の人は結局夜逃げしたらしくて、わからなかったんです。」
律が遺産を受け継ぐ話をうっかり漏らした伯父に、律を誘拐するための人員を手配した者がいたのだが、伯父の証言で向かった場所はすでにも抜けの空だった。
「こっちの方でも調べてるからな、それなりの制裁はいくから伯父だけで勘弁しておけ。」
赤須のひざまくらでクッキーアンドクリームを食べながら、キナコが極楽と叫ぶ。赤須の抹茶もわけてもらっている。安西が行儀が悪いと怒った。
「スイはどれにする? 」
純が言うと、スイはアイスクリームを見てきょろきょろしてから、純を見た。決めきらないらしい。
「じゃあ無難にバニラにするか。」
純が選んであげると嬉しそうにしていた。律がむっとして純にぶつかってきた。
「アイス溶けるから早く選んで。」
「ちょっと待てよ。」
スイにアイスクリームの開け方を教える。純のやり方をまねてスイは開ける。
律は弁護士を紹介した安西にも礼を言ってから、のんきにアイスを食べている純を見た。
「で? 」
何の話だろう。純が黙っていると、律はいらっとした顔で言った。
「説明してよ。色々。」
純はどこから言おうと思ったが、とりあえず切り出した。
「実は俺、吹き飛ばせる人だったらしい。」
律がはぁ? っと首をかしげる。だがしかたない、ここから話さないとややこしくなりそうだった。
律は純の話を黙って聞いていた。聞いている間、ちらちらスイを見た。スイはもぐもぐアイスを食べながら、純の視線に気づくと笑った。純もついへらっと笑ってしまう。
「なんでそんなにへらへらできるの? それってすごく危ないことなんじゃないの? 」
律が純を睨んだ。
「危ないって、なにが? 」
「純には子猫にしか見えなくても、私たちにとってはトラかライオンってことでしょ。それにそんな子ずっとべったり引っ付けて、大学はどうするの? 就職は? 」
純はスイを見た。
「スイ、留守番できるよな。俺が実家に帰ったときもここで待ってたよな。」
こくっとスイはうなづいた。
「じゃあ、純が死んだら? 」
律が言うと、純はスイを見た。スイはきょとんとする。
「たとえば純がいきなり事故で死んだら? その子どうなるの? 」
純がスイを見る。スイが小首をかしげて純を見る。
「純、まじめに考えてよ。その子は犬や猫じゃないんだよ。」
律は大量のアイスクリームを残して、帰っていった。
夕方、純はスイと一緒にビルの屋上に行った。キナコからもらったシャボン玉を吹いてみせると、スイが手を伸ばすのでこぼさないように気をつけながら渡した。
茜色に染まった空に、ふわふわシャボン玉が飛んではじけていく。
律の言葉を口の中でかみ締め、純はスイの横顔を見た。自分が死ぬなんて考えたことなかった。
「スイ、俺がいなくなったらどうする? 」
スイが笑ったまま固まった。手からシャボン液を落とす。こつーんと音がして液体が飛び散った。スイが走ってきて純を抱きしめる。
「やだ。だめ。」
純は予想以上に力強く抱きしめられてむせた。
「やだ。やだ。」
純はスイの頭をなでた。
「ごめん。聞いちゃいけなかったな。」
スイの口から泣き声が響く。純は抱きしめ返しながら思った。
いつまでもこんなふうにそばにいてやれない。ふと純は、病室にいた叔父を思い出した。会いに行くと笑っていた叔父はどんな思いで自分や律に笑いかけていたんだろう。今更ながら、叔父の気持ちが少し見えた気がした。