かわいそうな私をやめることにしました。
「婚約を解消しましょう? 私はこの家を出て行きます」
ドローレスが家族の前で宣言すると、婚約者であるジャックが顔をこわばらせて立ち上がった。あまりのことに動揺しているのか、拳がぶるぶると震えている。
「急に何を言いだすんだ。ドローレス、まさか、君はあの医者と浮気をしているのか!」
「何をおっしゃっているのやら。むしろ、世間的に浮気を疑われているのはおふたりの方だとまだ気づいていないのかしら?」
「違います、お姉さま! わたしとジャックはそんな関係では!」
「ええ、知っておりますよ。もちろん。いっそのこと、あなたがたが男女の仲であればよいのにと何度思ったことでしょう」
ドローレスの言葉にジャックが目を見開いた。けれど彼女は自身の婚約者の様子など歯牙にもかけず、おろおろと視線をさまよわせている妹に目をやった。
「別にね、私は怒ってなどいないのです。だって、私が一番よく知っておりますもの。あなたがたが、ふしだらな関係などではないということを」
「それならば、どうして婚約を解消しようとする」
「だって、あなたがたふたりはあまりにも似た者同士だから。私を間に挟んで、理想の家族ごっこをする必要なんてないでしょう? あなたたちは私抜きでも、きっと良い夫婦になれると思うのよ。ねえ、カレン」
名指しされたカレンは、姉の迫力に息を呑む。普段は物静かな姉が、瞳をらんらんと輝かせているのが信じられないのかもしれない。
「まだ、わからないのかしら?」
ドローレスの問いに、ジャックもカレンも唇を震わせるばかりだった。
***
子爵令嬢ドローレスは耳がよく聞こえない。生まれつきというわけではない。かつてドローレスは入らずの森と恐れられる禁足地で、「腐り花」と呼ばれる植物性の魔物に襲われたのだ。
入らずの森には、ときどき魔石が落ちている。これらは非常に高品質で、宝石の一種として高値で取引されていた。もちろんこの魔石を加工したアクセサリーを持っていることは、貴族にとってはかなりのステータスとなる。
とはいえ、簡単に魔石が手に入るはずがない。魔石欲しさに森に入り込んだ結果、大怪我を負う者が大勢いた。そのため手練れの騎士や冒険者が年に数回、定期的に魔石回収に出かける時以外は、立ち入りが禁止されていたのである。
しかしドローレスの妹カレンと幼馴染だったジャックは、魔石が欲しくてたまらなかったらしい。カレンは母親の首飾りが、ジャックは兄の成人祝いである魔剣が羨ましくて、魔石さえあれば同じものが作れるに違いないと森に忍び込んだのである。
ふたりの行動に最初に気が付いたのはドローレスだった。ドローレスは勘が鋭い。言語化できない何かを察知して、いち早く危険に気が付く。騎士を伴い、訓練された犬たちよりも早く森で泣き崩れるふたりを見つけられたのもさすがの一言だった。しかし、ここで思いもよらぬ事態が発生する。
騎士がジャックとカレンに襲い掛かろうとする小型の獣を退治している間に、ドローレスは森の中に住む腐り花に襲われたのだ。
腐り花は、人間の身体に寄生する植物系の魔物の一種だ。寄生場所が悪ければその場で命を落とすが、ドローレスの場合は命に別状はなかった。寄生された場所が耳だったからだ。けれど命に別条がないということが、身体的に健康であるということを意味するわけではない。
腐り花に寄生された影響だろう、ドローレスは耳がよく聞こえなくなった。まったく聞こえないわけではないのだ。けれどいつも水の中にいるようにくぐもっていて、自分の吐く息と自分の声ばかりが耳の中で大きく響いてしまう。相手に話しかけられても、大事なことが聞こえず、うまく内容をつかむことができないため、何度も聞き返してしまうのだ。それは、貴族令嬢として生きるにはあまりにも致命的な症状だった。そしてジャックは、ドローレスを傷物にした責任を取る形で彼女と婚約をしたのである。
もともと人付き合いが得意とは言い難かったドローレスは、この事件をきっかけに社交界に顔を出さなくなった。鋭すぎる勘が、腐り花に襲われた結果、より強い予感へと変貌したからである。
とはいえ、ドローレスは自分の部屋の中に引きこもって遊んでいたわけではない。男兄弟のいないドローレスは、将来はジャックを婿として迎え、女当主として家を切り盛りしなければならない。そして領地経営をしていく中で、ドローレスの能力は、貴族としておおいに有用だった。屋敷の中での書類仕事はドローレスが、屋敷の外で行う社交についてはジャックとまだ未婚のカレンが行うことでうまく分担されていたのである。
そんなドローレスが、とある噂を耳にしたのは本当に偶然だった。
――子爵令嬢のカレンは、姉の婚約者を寝取ったらしい。いずれ姉を追い出して、当主の座におさまるつもりなのだろう――
それは根も葉もない噂だった。確かにカレンにまだ婚約者はいないが、それはカレンが本当に好きになった相手と結婚したいという望みを持っているためだ。ドローレスの両親も偶然だが政略結婚ではなく恋愛結婚だった。そして既に跡取り娘であるドローレスは婿となるジャックと婚約を結んでいる。急いでカレンの婚約者を決める必要はないと、鷹揚に構えていたのだ。それがこんな噂を生むことになるなんて。ドローレスは痛む頭を押さえてため息を吐いた。そして、長年の友人に連絡を取ることにしたのである。
***
「それで、僕のところまでやってきたんですか?」
「ええ、そうなの。耳さえちゃんと聞こえるようになれば社交はできるから。変な噂を放置してみんなが傷つくくらいなら、苦手な社交くらいこなしてみせるわよ。それで、いつなら手術の予約が取れるかしら?」
ドローレスがへらりと笑えば、彼女のかかりつけ医であるエセルバートはやれやれと頭を振った。ふたりの付き合いは、意外と長い。ドローレスが腐り花に襲われる前には、既に文通相手として何度もやり取りをしていた。ドローレスもエセルバートも、熱心な読書家だったのである。
そしてドローレスが腐り花に襲われた際に、彼女の診察を行った医師の助手をしていたのがエセルバートだった。耳がうまく聞こえないせいで会話がかみ合わないドローレスのために、筆談をした際に判明したのだ。残念ながら正体が判明した理由はふたりの文字が美しいからではなく、ドローレスが非常に悪筆であったためなのだけれど。
「今まであれほど手術を勧めても嫌がっていたのに」
「だって、最新の手術を受けるのにはそれなりの費用がかかるもの。それに耳の聞こえがよくないこと、一日中自分の声が響いていることでストレスは感じてしまうけれど、生きていけないほどではないから……。」
「だから、治療費はいらないと言っているでしょう」
「あら、そんなのダメよ。すべての患者さんの治療費を無料にすることなんてできないでしょう? 私だけえこひいきしてもらってはいけないわ。特にお医者さまは、誰にでも分け隔てなく公平に接さなくては」
「医者と言えども人間ですよ」
新しく開発された治療法は、物理的に腐り花を取り除く手術だ。とはいえ腐り花を完全に取り除くことができる保証はない。残っていた根や芽などから再発する可能性があるのだ。
「失敗した時のデメリットを考えた上で、手術を受けない選択をしていた君が翻意してくれたのはありがたいですが。その理由が、彼らだというのが腹立たしいです。そもそも彼らがあんな馬鹿なことをしなければ……」
「過ぎたことを言っても仕方がないでしょう?」
「それで、僕からの施しは受けないとのことでしたが。お金はどうやって用立てるつもりですか?」
「これをね、お金に換えようと思うの」
ドローレスが取り出したのは、いくつかの本だった。今ではすっかり売れっ子となったとある作家の初版本だ。数冊出した頃はまったく見向きもされていなかったせいで、数人の仲間内で読むために製作したらしい。凝った装飾もなく、あまりにも武骨。けれど、それがあまりにも貴重であることは、エセルバートも良く知っていた。
「製作費を抑えるために、作者が手書きで写したとか正気の沙汰ではありませんね」
「結構誤字脱字も多いのだけれど、それもまた味があるのよ」
「これを売るなんてとんでもない。僕が直接引き取らせてもらいますよ」
「あら、いいのかしら。私、これで手術代に見合うのか判断がつかないのだけれど」
「僕がする手術です。値段は僕が決めますよ」
「なんだかんだ言って、あなたは結局、私の意思を尊重してくれるのね」
「当然でしょう? 君が望んだことが一番大事なのですから」
そうして手術は実施されることになったのである。術後、エセルバートは珍しく柔和な顔を歪ませて言った。
「手術は成功しましたが、手術後の過ごし方というのも大変大事です。どうか、くれぐれも僕との約束を守ってくださいね」
あまりの迫力に、ドローレスは神妙な顔でうなずいた。
「ひとつ、耳に負担をかけないこと。腐り花の除去手術というと特別なものに聞こえますが、術後の生活は一般的な耳の手術を行った患者さんと同じです。耳に水が入らないようにする、くしゃみはできるだけ控える、鼻はかまないようにする。それから疲れは絶対に溜めないこと。これらに気を付けて生活してください」
「エセルバート、それは私が我慢しようとして我慢できるものではないのではなくて? 特にくしゃみなんて……」
「そうですね。ですから、くしゃみや鼻水が出そうなことはしない、疲れる場所には行かないということに気を付けてほしいんです」
「まあ、こんな話をしていると本当にエセルバートってお医者さまだって気がするわ」
「君は僕を何だと思っているんです」
「誰よりも頼りになる、一番の親友よ」
「それはどうも」
やれやれと肩をすくめて、エセルバートは続けた。
「いいですか、約束はきちんと守ってくださいね。せっかく時間とお金をかけて行った手術です。再発なんてしたら、目も当てられません」
「そうね。せっかくエセルバートの貴重な時間を割いてもらったのだもの。その時間を無駄になんてしないわ」
「僕が言っていることはそういう意味ではありません。はあ、まあいいでしょう。とりあえず、先ほどお伝えした注意事項は必ず守ってください。どんなときもです。例外なんてありません」
「もちろん。承知しましたわ、エセルバート先生」
ドローレスは笑顔を弾けさせる。十数年ぶりにクリアな音の世界を取り戻した。くぐもった音の世界で、じっと気持ち悪さに耐えなくてもいいのだ。エセルバートに言われたことも、守れないことではない。さすがにくしゃみは我慢できないだろうが、普通の生活をしていればよいのだ。ドローレスは何も心配などしていなかった。
***
ところがである。手術を終え、自宅に戻ったドローレスは自身の予想が甘かったことを思い知らされた。ジャックとカレンは、エセルバートがやめてほしいと言ったことをすべて即座に実行したのである。それはドローレスが、術後の生活の仕方について説明をする間もなくの出来事だった。
「くしゅん、え、ちょっと、くしゅん。どうして、くしゃみが止まらないの? やだ、なにこれ」
「ドローレス! 退院おめでとう! 耳の調子はどうだい?」
「ありがとう……。耳はよく聞こえるようになったのだけれど……くしゅん! くしゃみが止まらなくて……。どうしてこんなにお花が部屋の中にあるの?」
「そりゃあ、ドローレスの快気祝いだからね。奮発して、町中の花屋の花を買い占めたよ。屋敷中に花を飾ったんだ」
「そ、そうなの? ええと、なんと言ったらよいのかしら……」
屋敷の中を飾るにあきたらず、大きな花束を抱えたジャックが、きらきらとした眼差しでドローレスを見つめている。どうやら彼の頭の中には、腐り花に寄生されてから、ドローレスが生花が苦手になってしまったことはきれいさっぱり消え失せてしまっているらしい。今までも折に触れて伝えてはいたが、どれくらいの深刻さかが理解できていないようだった。
ドローレスは、生花を見ると腐り花に襲われた嫌な記憶を思い出してしまうし、生花が近くにあると涙と鼻水、そしてくしゃみが止まらなくなるのだ。せっかく耳から腐り花を取り除くことができたというのに、これでは耳に負担がかかってしまう。申し訳ないが生花を飾るのをやめてほしいとお願いすると、ジャックはあからさまにがっかりしたような顔をした。
「まあ、お姉さま。ジャックの好意をどうして無下になさるの。ジャックは、大好きなお姉さまが喜ぶと思ってずっと前から準備していたのに!」
「もちろん、気持ちはありがたいのよ。でもね、私は生花は苦手で」
「でもとか、だってとか、そういう言葉を使うのはダメだってお姉さま言っていたのに。そんな好き嫌いをするなんて」
それとこれとは話が違うだろう。そう思ったが、まったく話が通じない。さらに言うなら、彼女もまたドローレスの頭痛の種だった。
「お姉さま、どう、素敵な舞台でしょう?」
「ええ、ええ。でも、これ、涙と鼻水が止まらないの。胸がぎゅっとしめつけられて……。だめ、もう見てられない」
「途中退席なんていけません! 行儀が悪いですよ。大丈夫です。前半は胸がつぶれるようですが、後半は感動の荒しですから!」
「だから、鼻水が出ちゃだめなの」
「令嬢たるもの、すべて涙に変えてくださいませ!」
その後、なんとか観劇は回避しているが、その後もカレンはよかれと思ってと、ドローレスをさまざまな茶会や夜会に引っ張りまわすのだ。疲れを溜めてはいけない、ストレスがかかると、これもまた耳に負担がかかるし、手術からの回復に時間がかかってしまう。ドローレスは何度もカレンに説明するが、ひとのいるところが大好きなカレンには理解できないらしい。
念のため両親にも術後の注意事項とカレンやジャックの行動について相談してみたのだが、彼らは苦笑しつつドローレスの頭をなでるばかりだった。
「ふたりとも、お前の耳がよくなって嬉しいのだよ。何せお前を見るたびに自分たちの過ちを突きつけられる羽目になっていたのだからね」
嬉しいからちょっと羽目を外してしまったのだと言われたなら素直に受け取れた。けれど、父親の後半の言葉が妙に引っかかる。それではまるで魔物に襲われ、後遺症を負った自分が悪いようではないか。とはいえそんな風に考える自分が卑屈なのかもしれない。それ以上愚痴を言えば、ドローレスの方がたしなめられる気がして、彼女は口を閉じた。
そんな毎日が続いていたある日、ドローレスはカレンたちとのお茶の時間にもかかわらず船を漕いでいた。耳の調子が悪いのだ。明らかに症状がぶり返している。効果的な薬がないので、体を休めるしかない。その時間さえ満足に確保できていなかったせいで、睡魔に抗えなかったのだ。だが夢うつつのドローレスも、耳に入ってきた会話で一気に眠気が吹き飛んでしまった。
「どうしてドローレスは俺たちの言うことを聞いてくれないんだろう? 俺たちはドローレスのためによかれと思ってやっているのに」
「お花も観劇も夜会もお茶会もお嫌だなんて。本当にわたしたちのことを愛してくれているなら、耳が聞こえなくなっても付き合ってくれるはずだとは思わない?」
「その通りだ。俺たちは、ドローレスの耳が聞こえなくたってちっともかまいやしない。だがあれだけ誘いを嫌がるのだ。もしや外が怖いのかもしれない。それならば、実にかわいそうなことをしたな」
「おかわいそうなお姉さま。わたしたちがずっと支えてあげなくちゃ。ジャックの子は、お姉さまの代わりにわたしが産んであげるわ! そうすればお姉さまは、安心して子育てに専念することができるじゃない? 魔物に寄生されてしまったお姉さまが子どもを産むのは、いろいろと心配だし」
「それはありがたい。俺もカレンにお願いしたいと思っていたんだ。カレンの子どもなら血が繋がっているし、ドローレスも可愛がってくれるにちがいない。新しい命を育み、俺たちを親にしてくれるだなんて、君はまさに聖母のようなひとだ。これからも俺とカレンでドローレスを守っていこう」
「こんなに献身的な婚約者がいて、お姉さまは幸せ者ね。羨ましいくらいよ」
「こんなに姉想いの妹がいる幸運を、ドローレスはもっとありがたく思わなくてはな」
にこにこと笑うふたりの会話は、知っている言語のはずなのにちっとも理解できなかった。
ふたりが浮気をしてくれていた方が、よっぽどましだった。それなのに、ふたりには悪意なんて欠片もないのだ。あるのは心からの善意。本気でドローレスのためになると思って、今後の相談をしているらしい。
術後だから、しばらくの間耳を悪くするようなことは控えてほしい。ドローレスがお願いしているのはそれだけなのだ。それなのに、彼らは自分たちの好意が拒絶されたことばかりを問題視しているようだった。あげくの果てにドローレスの言葉は曲解され、極端な提案がなされていく。
本当にドローレスのことを思っているのだろうか。ふと、小さな疑問が湧いてしまう。今までは耳が聞こえないから、彼らの行動の違和感に気が付かなかっただけなのかもしれない。確かに話が食い違うと思うことはたびたびあったのだ。そんな時には、ドローレスがふたりに合わせていた。うまく彼らの意図を理解できない自分が悪いのだと思っていたからだ。けれどもしかしたら、彼らはただ単に、自分たちの考えを優先させていただけなのかもしれなかった。
――子爵令嬢のカレンは、姉の婚約者を寝取ったらしい。いずれ姉を追い出して、当主の座におさまるつもりなのだろう――
あの噂は、確かに間違いだった。とはいえ、根も葉もないとは言いがたい。ドローレスを軽んじるような発言や振る舞いから生じたであろうと容易に察せられる。何せ彼らは悪意さえ持っていないのだ。他人の前でも今と同じような行動をとっているに違いなかった。
彼らの振る舞いに、目をつぶるべきだろうか。ドローレスは吐き気を堪えながら思考を巡らせる。今まで通りの暮らしを受け入れてしまえば簡単だ。自分の考えは内側に秘めて、周囲の言葉を受け入れていれば丸く収まるだろう。何せ自分はもともと社交が苦手で、魔物に寄生された傷物なのだ。多少耳が悪くても、大人しい働き者でいれば両親も、妹も、未来の夫である婚約者も、みんな満足するに違いない。身近な家族が笑顔であることが一番大事なのだ。そう納得しようとして、なぜか胃の腑が重くなる。
そこで思い出したのは、親友の言葉だった。手術前に交わした何気ない言葉。
――君が望んだことが一番大事なのですから――
エセルバートは、ドローレスの選択をわがままだとは言わなかった。手術を拒否したときも、掌を返して手術を受けると申し出たときも、手術代の支払い免除を断ったときも、支払いのために希少な本を手放すと決めたときも、ドローレスの考えを尊重してくれたのだ。頭のよい彼からはきっとドローレスの行動は、不合理で愚かなものに見えたに違いないのに、それでもドローレスが納得するように見守ってくれていた。本当にドローレスのことを考えているのは誰なのか。考えるまでもない。
自分のことは自分で決めなくては。他人の言葉に流されて生きていては、自分は一生後悔することになる。親友の存在はどんな予感よりも強く、ドローレスの背中を押してくれた。
***
それから数日後、ドローレスは家族を集めると、婚約者であるジャックに婚約の解消を申し出た。
「婚約を解消しましょう? 私はこの家を出て行きます」
ドローレスが家族の前で宣言すると、婚約者であるジャックが顔をこわばらせて立ち上がった。あまりのことに動揺しているのか、拳がぶるぶると震えている。ドローレスの発言に驚いているのは、両親も同じことだった。わざわざ全員を集めての茶会を提案した際にもの言いたげな顔をしていたから、ドローレスが何かを計画していることには気が付いていただろう。けれどまさかいきなり婚約解消を言い出すとは思っていなかったはずだ。せいぜい、以前両親に相談した内容についてやんわりとジャックとカレンに苦言を呈する程度だとたかをくくっていたに違いなかった。
「急に何を言いだすんだ。ドローレス、まさか、君はあの医者と浮気をしているのか!」
「何をおっしゃっているのやら。むしろ、世間的に浮気を疑われているのはおふたりの方だとまだ気づいていないのかしら?」
「違います、お姉さま! わたしとジャックはそんな関係では!」
「ええ、知っておりますよ。もちろん。いっそのこと、あなたがたが男女の仲であればよいのにと何度思ったことでしょう」
ドローレスの言葉にジャックが目を見開いた。そうなのだ、いっそジャックとカレンが完膚なきまでにドローレスのことを裏切ってくれていたなら、婚約解消ではなく破棄を突きつけることだってできた。しかしふたりは、そういう意味では潔白なのだ。ただ単に、無神経で、ドローレスの気持ちをないがしろにしているだけ。家族にしてみれば、気に留める必要もないほどの日常。だからこそドローレスは、自分が感じる不愉快さについて自ら声を上げなければならなかった。
「別にね、私は怒ってなどいないのです。だって、私が一番よく知っておりますもの。あなたがたが、ふしだらな関係などではないということを」
「それならば、どうして婚約を解消しようとする」
「だって、あなたがたふたりはあまりにも似た者同士だから。私を間に挟んで、理想の家族ごっこをする必要なんてないでしょう? あなたたちは私抜きでも、きっと良い夫婦になれると思うのよ。ねえ、カレン」
ふたりの行動とドローレスの望みがうまく噛み合えば、彼らは素晴らしい婚約者、心優しい妹として名をはせたことだろう。街中の花屋の花を買い占めるジャックに、流行りを知らない姉に令嬢としての楽しみを教えるカレン。ふたりの姿は、まるで舞台俳優のように華やかだ。けれどドローレスの望みは彼らの行動とは真逆のもので、だからこそジャックとカレンの振る舞いは傍から見ればひんしゅくを買うものになってしまっていた。自分の意見など聞き入れてもらえないまま、ふたりに振り回されるドローレスを見てしまえば、ますます例の噂の信ぴょう性が高まるのも無理はなかったのだ。名指しされたカレンは、姉の迫力に息を呑む。普段は物静かな姉が、瞳をらんらんと輝かせているのが信じられないのかもしれない。
「まだ、わからないのかしら?」
ドローレスの問いに、ジャックもカレンも唇を震わせるばかりだった。自分の行動を振り返るのは意外と難しい。本人たちがドローレスのためだと思い込んでいればなおのことだ。ため息を吐いたドローレスは、手元の袋から小さな魔導具を取り出した。オルゴールにも似た魔導具の中央部分にはいくつかの魔石がはめ込まれている。ドローレスが蓋を開ければ、柔らかな音色の代わりにジャックとカレンの会話があふれ出してきた。
先日のものだけではない。随分と昔の会話まで鮮明に記録されている。それは、上辺だけはドローレスを気遣うものだが、本質的にはジャックとカレン自身が己を愛し、可愛がっていることが透けて見えるような会話ばかり。両親たちの顔色が面白いほど変わった。
『ジャックの子は、お姉さまの代わりにわたしが産んであげるわ!』
『俺もカレンにお願いしたいと思っていたんだ』
『わたし、赤ちゃんを産むならジャックみたいな優しい男の子がいいな』
『俺も、カレンみたいな優しい女の子だと嬉しいよ』
ドローレスが相談した際にはジャックとカレンの味方をしていた両親も、カレンの発言には頭を抱えたようだった。せめて、自分が結婚して子どもが複数人生まれたら、その子どものうちの誰かを養子にしてはどうかという提案ならばどれだけよかっただろう。けれど、カレンの物言いでは、姉の夫と関係を持つと堂々と宣言しているようにしか聞こえないのだ。そしてジャックもまた嬉々としてそれを受け入れているように思われる。
意地悪な見方はいくらでもできる。ジャックとの婚姻を念頭に置いたものであれば、噂通り姉の婚約者を横取りしているとみなされる。カレンがジャックとは別の男性との婚姻を望むというのであれば、貴族として大切な家の血筋を混乱に落としかねないともいえる。
「そんなに深い意味はないの! ただお姉さまがおかわいそうだと思って。わたしにできることなら、協力してあげたいと思っただけなの!」
「そうだ、俺たちに他意はない! 子どもに恵まれない夫婦が、やむにやまれず側室や妾を得る場合はあるだろう?」
「わたし、聞いたことがあったのよ。お腹で赤ちゃんを育てることができない女性や、子種のない男性の代わりに、家族が協力することだってあるって。それなら、わたしがやってあげるのが一番でしょう?」
「……そうだとしてもだ。そのようなことは、家庭内に秘めておくことだ。客人の前で軽々しく口にしてよいものではない」
「まさかあなたたち、同じようなことをドローレスのいない茶会や夜会でも繰り返していたのではなくって? それならばあんな噂が出て当然でしょう。馬鹿馬鹿しいと思っていたわたくしの方が、他家から見れば大馬鹿者だったなんて。ああ、なんてこと」
魔石にはふたりの発言だけが記録されていたわけではなかった。小さな声ではあるが、別の人たちの声も入っているのだ。会話の内容から察するに、屋敷を訪れた客人だと推測できた。客人がいたにもかかわらず、このふたりはいつものように無責任な発言を繰り返したのだろう。それが他人にはどう理解されるのかなんて、考えもせずに。
両親は突きつけられた異常事態に打ちのめされているようだった。自分たちの振る舞いが他人の目にどう映っているのか、本気でわからないふたりのことが信じられないらしい。自分たちがふたりをそう育てたのだという事実にはまだ気が付いていないようだ。よろよろとジャックがドローレスに手を伸ばす。
「それでも、俺たちはドローレスを大切に思っているんだ」
「申し訳ないけれど、自分勝手な優しさで満足感を得られる道具にされるなんて、まっぴらごめんなの。かわいそうと言われることも、勝手に押し付けられたことをしてあげたと言われることももうたくさん。今日をもって、かわいそうな私をやめることにしました」
差し出したのは、貴族籍を抜けたことを証明する書類だ。魔物に襲われ、寄生された耳は手術したが再発。今後貴族女性として生きることは難しいとエセルバートに診断書を出してもらえば、戸籍を管理する神殿の神官が気の毒そうな顔で簡単に申請を受理してくれた。エセルバートのコネを使ってしまった形になるが、彼はなぜだか非常によい笑顔をしていた。
「私抜きでもきっと大丈夫。今まで通り、ふたりでどうぞ仲良く過ごしてちょうだい。この家の今後もあなたたちに任せるわ。お父さま、お母さま。育てていただいたことは感謝いたします。その魔石は、今までの養育費代わりに置いていきますわ。どうぞご自由に使ってくださいまし」
ドローレスはそのまま艶やかに微笑み、静かに席を立った。
***
「というわけで、家を出てきちゃった」
「まったく、可愛らしい顔で思い切りのよいことをしましたね」
「あら。貴族籍を抜ける手続きをしたのに、私がそれを使わないとでも思っていたの?」
「あなたはとても優しいひとですから。家族にすがられたら、撤回するかもしれないと心配していました」
「今までの私ならば、そうしたかもしれないわね。でもこんな風にこじれるまで我慢するくらいなら、もっと早いうちに自分の考えを相手に伝えていた方がよかったのかしら」
「それができれば一番良かったのでしょうが。以前のあなたは、自分が我慢していることにすら気が付いていませんでしたから。茹でガエルにならずに済んでよかったです」
生きたカエルは突然熱湯に入れられれば飛び出して逃げていく。けれど、常温からゆっくりと温められると、危険に気づかぬまま茹でられて死ぬ。有名な話に苦笑しつつ、ドローレスは自分の耳をそっと撫でた。再発した耳の不調は、二度目の手術のおかげですっかり寛解している。
「まさか、魔石が腐り花に寄生されることで生まれていたなんて」
自分を散々苦しめてきた腐り花に助けられることになるとは。ドローレスが肩をすくめてみせれば、話を聞いていたエセルバートも苦笑いでうなずく。腐り花が耳の中に寄生することで、物理的に聴覚を奪われているのだと思っていた。密閉性の高い耳栓を耳の奥に詰められている、そんなイメージを持っていたのだ。そしてそれは一般的な腐り花の寄生被害においては、正しい状態らしい。
ところが、ドローレスの場合は少しばかり事情が異なっていた。彼女の耳の中では、腐り花が大きく育ち、見事な果実を実らせていたのである。それがいろとりどりに輝く魔石だということに気が付いたエセルバートは、大層驚いたのだそうだ。魔石には魔力だけでなく、特殊な効果があるものが存在する。魔石が見つかったことを伝えられたドローレスが、手術代の足しにしてほしいと申し出たが即座に却下されていた。宝石商などに売却することも可能だが、詳細がわからないままでは足元を見られてしまう。そのため家の中にある魔導具に魔石を嵌めこみつつ、詳細を確認していたエセルバートは、やがてその魔石には過去の音声が記録されていることに気が付いたのだった。
不思議なことに、魔石から再生されるものはあまり好ましいとは思えない発言ばかり。記録されているのは主にジャックとカレンのものだったが、時折、ドローレスの両親や使用人たちの声も混じっていた。ドローレスに直接聞かせるのは避けたいと文字起こしを行っていたエセルバートだったが、あまりの気分の悪さに深酒をした挙句、翌日は二日酔いに悩まされたのだという。
一方のドローレスはというと、使えるものは親でも使えとばかりに、一瞬のためらいもなく魔石に残された音声を利用することにした。程度の低い発言だからこそ、ドローレスの自由を得るための戦いにおいて十分な力になるからだ。まあいくら高価なものとはいえ、自分にとって疎ましい発言ばかり込められた魔石など手元においていたくはないから、手切れ金として押し付けてきてしまったのだけれど。
魔石の嵌められていない魔導具を見ながら、エセルバートは小さくうなずいた。
「あなたの中で育っていた魔石を見てから気になっていたのですが、腐り花という名称はもともと異なるものだったのかもしれませんね。たとえば、そう『鎖花』のように呼ばれていたのではないでしょうか」
「急にどうしたの? 確かに腐り花は、腐臭などしない花ではあるけれど。これに寄生されると、人間も動物も命を落としてしまうのでしょう? 生物を腐肉に変え、それを好んで食する花だと考えれば、何も間違ってはいないわ」
ドローレスは困ったように髪を耳にかける。自分で言っていて、嫌な想像をしてしまったためだ。けれど、エセルバートは静かに首を振った。
「以前は、腐り花はまるで人食い花のような恐ろしい魔物として語られていました。けれど研究が進んだ結果、腐り花に寄生された宿主が必ずしも短命であるわけではないことがわかってきたのです」
「意外と長生きできるということ?」
「それだけでありません。腐り花に寄生された患者が子どもを産んだ例も多数存在します。そして彼らに身体的な問題がないことは十分に明らかだとして、神殿の神官たちや医師、薬師たちが共同で声明を出しています。それでも、人々の意識は代えがたいものがあるのですが」
妹たちの発言を思い出し、ドローレスもその点に同意した。そこでエセルバートが指を立て、とある仮説を口にする。
「ここまでの説明では、腐り花は宿主をさまざまに苦しめるとんでもない魔物のように聞こえますが、別の側面も持ち合わせているんです。ある意味で、宿主を守ろうとしているとも捉えられるのですよ」
「宿主を守る? そんなまさか」
「実際、魔石の中にはあなたにとって好ましくない発言ばかりが残されていました。それはこう考えることはできませんか。腐り花はあなたを傷つける発言を喰らい、あなたを守った。そしてあなたの魔力を十分に吸い上げて、吸収した他者の言葉を内包した状態で魔石を生むのだと」
「それは……」
宿主を枯らしてしまうものならば、それは確かに寄生だろう。けれど宿主を利用しつつも、宿主にとってもまた利があるのだとすればそれは共生といえるのではないだろうか。
「実は魔術や魔物に関する研究は、古代の方が進んでいたのですよ。当時の文献はほとんど残されておらず、我々はかつて当たり前に誰もが知っていたことを再発見しているような状態なのです。ですから、我々が腐り花として恐れている魔物は、かつては鎖花としてお守り代わりに普及していた可能性だって否定できないのですよ」
「悪いものや嫌なものを吸収して、綺麗な魔石が作れるから、一石二鳥ってこと? でも耳に寄生されたら耳が聞こえなくなるし、足に寄生されたら足が動かなくなってしまうのよ?」
「そのあたりは、加減できたのかもしれませんね。外部に……それこそ鎖と魔石を組み合わせて、イヤリングやアンクレットなどに加工していたのかもしれません」
そんなことがあるのだろうか。けれどあの見事な魔石を見てしまえば、魔術に長けた古代の人々が今の自分たちにとっては夢のようなことを行っていたのかもしれないと思えてならなかった。まあ、しっかり根まで取り除いてもらったわけだし、機会があったとしても自分の身で確認しようという気持ちは一切起きなかったが。
「それで、本当に学会に報告しなくてもよいの?」
ドローレスの問いに、エセルバートはうなずいた。もしもの可能性だったが、これが真実ならば非常に有用な発見だ。相手の会話を記録する魔導具は、現在でも確かに存在する。けれどそれはドローレスが家族の前で使った再生専用の魔導具よりもはるかに巨大なものだ。耳飾りに思われるような形で使用することができれば、さまざまな場面で活躍することはまず間違いない。
耳で声が記録できるのならば、目では映像が記録できる可能性がある。それならば手や足に寄生した腐り花は、どのような効果をもたらすのだろう。それは純粋な知的好奇心をくすぐるものではあったが、恐ろしい事態を容易に引き起こしかねないものでもあった。あまりにも国家を統治する者たちにとって都合が良すぎるのだ。そして一部の者に不合理を押し付けてなお、利を見出す者の数が上回るだろうと思われた。
「学術的な発見は確かに素晴らしいけれど、好きなひとの身の安全が一番ですからね。あなたにはこれから、光あふれる道だけを歩んでほしいのです」
「もう、エセルバート!」
「君の仕事が早く軌道に乗ってくれるのを待っていますよ。結婚すれば手術代としていただいた本は、ふたりの共有財産となりますからね。またいつでも好きなときに読めますよ」
「あの、それって厳密には特有財産じゃないかしら。結婚前からの持ち物は結婚してもあなた個人のものよ」
「細かいことはいいんですよ。僕は、僕のすべてをあなたに受け取ってほしいんですから」
顔を赤くしたドローレスに、エセルバートは片目をつぶって見せた。
実はエセルバートは、ドローレスの婚約解消直後から彼女に求婚しているのである。なんと文通を始めた頃からドローレスのことを好ましく思っていたらしい。じっくりと愛を育んでいけたらと思っていたら、ドローレスが腐り花に寄生されてしまい、その責任を取る形でジャックがドローレスの婚約者になってしまったというのだ。ドローレスの治療にあたり、その後婚約の詳細を耳にした際にははらわたが煮えくり返るような心持ちだったのだという。
「ドローレスが好きで好きで仕方がないから婚約を申し込んだというのならばいざ知らず。傷物にした責任とは。まったく、失礼にもほどがある」
「ええと、責任をとって結婚するというのも誠意の見せ方ではあるのよ?」
「あなたを傷つけた人間に娶られて、幸せになれるのか当時から疑わしいものでしたよ。実際、こんな形になったわけですし。だから、最初から僕にしておけばよかったのです。どうです? このまま僕の手を取りませんか? きっと幸せにしますよ?」
茶目っ気たっぷりに、けれどどこまでも真剣なまなざしで乞われ、けれどドローレスはゆっくりを首を横に振る。
「今のままでは、あなたのお情けにすがって生きていくダメな自分になってしまうわ」
「たっぷりとすがってくれてかまわないのですが」
「私はあなたと対等な立場でいたいのよ」
だから本当は、自分の気持ちにだって蓋をしておくつもりだったのだ。こじれたらおしまいになってしまう男女の仲よりも、永遠の親友でいられる方が幸せに思えたから。言葉にしなかったにもかかわらず、エセルバートは意味深に喉を鳴らした。
エセルバートには、ドローレスを守る金と人脈がある。けれど、ドローレスはそれを望まない。もしもエセルバートがドローレスの意思を無視したならば、ジャックやカレンと同じになってしまうのだ。それがわかっているからこそ、彼はもどかしい想いを抱えつつも、隣で彼女を見守るに留めている。
ドローレスを失ったジャックとカレンは、急に現実が見えてきたのか喧嘩ばかり、領地経営も危ういらしいと彼は把握していたが、そんな些末なことをドローレスに伝えるつもりはなかった。ドローレスが輝くほどに、彼らが勝手に落ちていくであろうと確信していたからだ。
数年後。ドローレスが始めた事業は順調に拡大していた。彼女は、治療院を訪れた患者たちに合わせた職の斡旋や、退院してから利用することのできる家事サービス、身体にあった住居への引っ越しなどの提案などを行っていた。病が治れば元通りの人生へと戻る場合もある。けれど病に倒れ、そして治ったからこそ新しい人生を歩もうと思う人間だっている。そうせざるを得ない人間だって少なくはない。そんな人々がいちから生活を立て直すことは厳しい。それも自分ひとりの力ではあまりにもハードルが高い。雑多に散らばる情報をとりまとめ提供することで、誰もがよりよく生きられる世界になることをドローレスは願ったのだった。
ドローレスの耳からはもう魔石は生まれない。だって彼女はひとりではないのだ。腐り花に、あるいは鎖花に食べてもらわなくても、他人の言葉に押しつぶされそうになることなどない。ドローレスの左手の薬指には、愛する旦那さまとお揃いの結婚指輪が輝いている。
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