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最終話第8話

事件は解決した。

だが、吉川の胸の奥には、ひとつの言葉が澱のように残っていた。

――あいつだって、人殺しだ。

日下部が叫んだ、その言葉。

それは、かつて沙織が亡くなったとき、義母から投げつけられた言葉と重なった。

――あんたは、人殺しよ。

胸の奥が、きしむ。

そうだ。

私は、沙織を殺したも同然だ。

身重だった沙織を、雨の中で一時間も待たせた。

貧血持ちだと知っていながら。

すべて、俺のせいだ。

「先輩! 赤っ!」

舞の叫び声に、反射的にブレーキを踏み込む。

タイヤが鳴り、車は横断歩道の手前で止まった。

いつの間にか、雨が降り出していた。

「……先輩。運転、代わりましょうか」

「ああ……」

信号待ちのわずかな時間で、二人は席を替わった。

舞には分かっていた。

吉川が、あの言葉に引き戻されていることを。

「確かに犯人は捕まった」

吉川は、前を見つめたまま言った。

「でも……犯人は、あの社員思いの社長だけなのかな」

「私も、そう思いました」

舞は、静かに答えた。

「もちろん、どんな理由があっても殺人はいけない。でも……井上さんと奥さんは、どんな思いだったんでしょう」

「……うん」

吉川は短く息を吐いた。

「でも、僕たちの仕事は犯人を捕まえることだ。それだけだ」

「先輩……」

舞は一瞬、言葉を選び、続けた。

「先輩、よく言ってましたよね。白黒をつけるだけが刑事の仕事じゃないって。沖田さんたちから、学んだんじゃないんですか?」

吉川は、答えなかった。

ただ、拳を強く握りしめていた。

「皆さん、お疲れさまでした」

捜査一課長の声で、打ち上げが始まった。

「皆さんの粘り強い働きで、犯人を無事に逮捕できました。今日は柊部長の奢りです。ほどほどに、乾杯!」

杯は上がった。

笑い声も広がった。

だが、吉川と舞は、心から喜ぶことができなかった。

柊部長は、そんな二人を、何も言わずに見ていた。

やがて、お開きとなり、その場で解散となった。

タクシーを拾うため、大通りへ向かって歩く。

吉川は、かなり酔っていた。

足取りも定まらない。

「白石……喉が渇いた」

舞は吉川を支え、公園の石のベンチに座らせた。

自動販売機で水を買い、戻る。

吉川は、石のベンチを跨ぐようにして座り、うなだれていた。

水を渡すと、吉川は一気に飲み干した。

そして、笑った。

「舞……僕も、人殺しなんだよな。ははは……」

その瞬間、乾いた音が響いた。

舞の平手が、吉川の頬を打っていた。

「……いつまで、引きずるつもりですか」

声が震えていた。

「死ぬまでですか? そんなの……沙織さん、喜んでませんよ。情けない……」

吉川は、驚いたように舞を見つめ、次の瞬間、彼女の胸に顔を埋めた。

「……ごめん」

舞は、吉川を受け止め、そっと抱き締めた。

「……舞って、呼んでください」

「いや……だめだ」

その声には、もう力がなかった。

「……舞」

舞は、堰を切ったように泣き出した。

「……ずるいぞ」

吉川は、しどろもどろに言った。

「おまえも……僕の名前を、呼んでくれ」

舞は、涙を拭い、静かに答えた。

「……純一」

その名を聞いた瞬間、吉川は、初めて深く息を吐いた。

翌朝、吉川と舞は北条水道局へ向かった。

犯人逮捕の報告――それは本来、喜ばしい知らせのはずだった。

だが、二人の表情は硬かった。

窓口に着くと、古川係長が応対に出てきた

報告を聞いた瞬間、古川は一度だけ神妙な顔をした。

しかし、その表情はすぐに崩れる。

「いやあ、良かった良かった。なあ」

周囲に向かって笑いながら言ったが、

その言葉に同調する者はいなかった。

室内には、明らかな温度差があった。

すべてを知っている吉川は、思わず拳を握りしめた。

そのときだった。

窓口の脇にいた一人の職員が、すっと立ち上がった。

「……なんで、喜んでるんですか?」

古川はひきつった顔で、その職員を見た。

そんな言葉が出てくるとは、思っていなかったのだろう。

「な、なんでって……犯人が逮捕されたんだから、喜ばしいことじゃないか」

「逮捕されたのは、水道業者の社長ですよ」

職員は一歩も引かなかった。

「岡崎は、業者さんをいつも下に見て、なめてました。私は何度も言いました。業者さんが可哀想じゃないかって。でも、まったく耳を貸さなかった。係長、あなたたちも……見て見ぬふりをしてましたよね?」

室内が、ざわついた。

「あんなの、完全なモラハラです。パワハラです」

今度は、別の職員が立ち上がった。

「そうです。見ていられませんでした。クリーン水道の井上さん……あれだけ言われても、『お客さんのためだから』って、ずっと辛抱してました。『これが間に合わないと大変なことになるんです』って、必死でお願いしてた。でも岡崎は、書類を回さなかった」

一拍、間が空く。

「……その数日後、自殺されたんです」

女性職員のすすり泣く声が、室内に広がった。

さらに一人、若い女性職員が声を上げた。

「私たちの仕事って、市民のために働くことじゃないんですか? 殺された岡崎さんより……井上さんのほうが、ずっと市民のために働いてました」

古川は何も言い返せなかった。

居心地の悪さを誤魔化すように、足早にその場を去っていった。

吉川と舞は、ただ立ち尽くしていた。

やがて、二人は同時に深く頭を下げた。

「刑事さん……」

誰かの呟きが聞こえた。

顔を上げたとき、吉川と舞の目には、いっぱいの涙が溜まっていた。

「ありがとう……皆さん」

吉川の声は、少し震えていた。

「これからも、京都市民のために働いてください」

そう言って、二人は部屋を後にした。

「あの人たちなら……もう、こんなことは起きないでしょうね」

「ああ……」

自分たちの言葉を代わりに吐き出してくれた人々がいた。

それだけで、胸の重さが少しだけ和らいだ。

二人はその足で、井上さんの妻のもとを訪ねた。

クリーン水道の社長が犯人だったこと。

多くの人が、井上さんの仕事を認め、覚えていたこと。

それを聞いた妻は、その場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

舞は、そっと寄り添い、優しく声をかけた。

「お体、大切にしてくださいね」

二人が立ち去ろうとした、そのときだった。

「……私は、罪にならないんですか?」

か細い声が背後から聞こえた。

舞が振り返る。

だが、吉川は立ち止まったまま、振り返らずに言った。

「……なんのことでしょう?」

少し間を置いて、続ける。

「あなたは、預かっていた鍵を渡しただけですよね。……では、失礼します」

その背中を見ながら、舞はすべてを察した。

だが、あえて何も聞かなかった。

署へ向かう途中、舞が言った。

「白黒を付けるだけが、刑事の仕事じゃないんですよね。やるじゃないですか、先輩……あっ、純一」

「なんで、呼び捨てするんだよ!」

「え? 昨日、そう呼べって言ったじゃないですか」

「知らん。僕は知らんぞ」

「えー? 覚えてないんですか? 昨日のこと」

「な、なんのことだ?」

「私が介抱してあげたことも? 胸で泣いてたことも?」

「こら! そんなこと署で言うな!」

舞は、得意の膨れっ面を見せた。

それから数か月後。

捜査一課の慰安旅行で、江ノ島を訪れていた。

「これこれ……潮風と春の陽気のコラボが最高だ」

麦わら帽子で顔を覆い、吉川は夢心地だった。

「コラ、純一!」

帽子を取ると、逆光の中で舞の顔が逆さに現れた。

「またおまえか……」

「朝起きたらいないから、絶対ここだと思ってきました。それにしても、部長もよくこの江ノ島のホテルにしましたよね」

「おまえ……また呼び捨てしたな」

「へへへ。ほら純一、みんな待ってるぞ!」

舞は走り出した。

「早く来い、純一! 何やってんだ、純一!」

「やめろ! 誰かに聞かれたらどうするんだ、舞!」

慌てて追いかける吉川。

その様子を、ホテルのテラスから柊部長がにこやかに見つめていた。

春の潮風が、二人の背中を押していた。

――完――


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