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第7話

翌朝。

二人は、クリーン水道へ向かっていた。

復讐か。

それとも、怒りの行き場を失った末の衝動か。

いずれにせよ、

事件の中心に、ついに“名前を持った相手”が現れた。

この捜査は、もう後戻りできない。

クリーン水道は、二階建てのこじんまりとした建物だった。

年季は入っているが、手入れは行き届いている。

敷地に車を入れた途端、作業服姿の男に声をかけられた。

「そこ、材料入ってくるから停めんといてくれ」

二人は素直に端へ移動した。

一階は倉庫兼作業場になっており、水道用のパイプや資材が雑然と積まれている。

その脇の階段を上り、事務所のインターフォンを押すと、事務員が中へ通してくれた。

応接室に案内されて間もなく、恰幅のいい男が入ってきた。

年は六十前後。

表情は柔らかいが、どこか計算された笑みだった。

「日下部と申します」

名刺を差し出す。

「伏水署の吉川です。こちらは白石」

互いに名刺を交換し、ソファに腰を下ろした。

「社長さんですね?」

「ええ」

「本日は、10 月 12 日に亡くなられた北条水道局の岡崎和也さんの件でお話を伺いたく」

「……特に心当たりはありませんね」

即答だった。

吉川は少し間を置いて、言葉を続ける。

「岡崎さんが亡くなる前、北条水道局の受付付近で、

岡崎さんと激しく言い争っている人物を見た、という証言があります」

その瞬間、日下部の表情がわずかに硬くなった。

「あの時は、水道の申請で意見が食い違っただけです。話し合いですよ」

「受付の方は、今にも掴み合いになりそうだった、と言っていましたが」

舞が静かに補足する。

「……人違いじゃないですか?」

「あなたの服の色と、胸の社名まで覚えていましたよ。

“クリーン水道”という名前が珍しかったから、と」

日下部は鼻で笑った。

「なんだか、私を犯人扱いしてませんか?

少し口論しただけで犯人になるなら、岡崎と揉めた業者なんて山ほどいますよ」

(尻尾を出し始めたな)

吉川は内心でそう思いながら、口調は崩さなかった。

「私どもの聞き取りでも、岡崎さんは業者にかなり厳しかったようですね」

「私はほとんど局には行きませんから詳しくは知りませんが……

まあ、そんな噂は聞いたことありますよ」

吉川は一呼吸置いた。

「あの……話は変わりますが。

御社の社員の方が、数か月前に自殺されたと伺いました」

日下部の目が、はっきりと見開かれた。

「……なぜ、それを?」

「北条水道局での聞き取りで」

(――先輩、それ“トイレ”ですよね)

舞は心の中で突っ込んだ。

「その自殺は、岡崎さんに追い込まれた結果ではないか、という話も出ています」

日下部は、苛立ちを隠そうともしなかった。

「刑事さん、いい加減にしてください。

北条水道局の連中が、そんな話を外にするはずがないでしょう」

「局内は、そういう体質ですか?」

「昔、私も局回りしてましたからね。それくらい分かります」

日下部は立ち上がりかけた。

「社員は元々、鬱になりやすい性格でした。

自殺は、そのせいでしょう。もうよろしいですか? 忙しいんです」

「分かりました。本日は失礼します」

二人は応接室を出て、階段を下りた。

一階では、ちょうどトラックがバックで入り、資材を下ろしていた。

吉川は無意識に、積まれた水道部材に目を向ける。

パイプ。

金属製の継手。

金色に光るバルブ。

(……さっぱり分からんな)

トラックが出るのを待ち、職人に軽く会釈した。

すると一人が、鋭い口調で言った。

「あんたら、刑事さんやろ。

うちの社長を疑ってるんか?」

「いえ、そういうわけでは――」

「あの社長はな、俺たち思いの、ええ社長や。

だから誰も辞めへんしな。二度と来んなよ」

周囲の職人が慌てて制止していた。

だが吉川は、その言葉を胸の中で反芻していた。

(“優しい社長”……か)

車を走らせながら、舞が言った。

「さっき……嘘ついてましたよね。

“聞き取りで聞いた”って」

吉川はその事には答えず車を路肩に停め、本田刑事に電話をかけた。

「クリーン水道が、亜鉛化合物を入手できるルートがあるか調べてくれ」

電話を切ったあと、舞が小さく呟く。

「……社員からあんなに慕われてる社長なのに」

「だから、怪しいんだよ」

吉川は前を見据えたまま、静かに言った。

“優しさ”は、時に、

最も巧妙な仮面になる。

署に戻った吉川は、自席に腰を下ろし、黙って本田刑事の帰りを待っていた。

一課長の濱嶋は、その様子を一目見ただけで察した。

——こいつは、もう答えに近づいている。

濱嶋はあえて声をかけず、向かいの椅子に腰を下ろした。

そこへ、勢いよく扉が開いた。

「吉川さん!」

本田刑事が、息を切らしながら駆け込んできた。

「シアン化合物の入手ルートが判明しました。調査と聞き取りの結果、クリーン水道の社長の実

家にあたる工場を突き止めました。廃屋同然の古いメッキ工場です。その奥から、シアン化合物

が見つかりました」

室内の空気が、一段重くなる。

「毒物班が、ペットボトルに残っていたものと照合しています。最近、開封された形跡がありま

した。指紋も採取しています」

「……そうか。ご苦労だった」

吉川の声は静かだった。

「白石。クリーン水道で採取した社長の指紋は?」

「はい。すでに科捜研に回しています」

「一致したら、逮捕状を取ってくれ。明日の朝、クリーン水道へ行く」

「……はい」

舞は返事をしながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。

——あの職人の言葉。

——あのときの、張りつめた空気。

どうか、間違いであってほしい。

そんな願いが、心のどこかに残っていた。

翌朝。

クリーン水道の倉庫は、シャッターが固く閉ざされていた。

「現場か……」

舞は、内心ほっとしている自分に気づき、すぐにその気持ちを振り払った。

二人は二階の事務所へ上がり、応接間に通された。

日下部社長は、穏やかな表情で二人を迎えた。

話を切り出したのは、社長のほうだった。

「先日はすみませんでしたな。うちの職人が、失礼なことを言ったそうで」

「いえ。社長が職人さんを大切にされているのは、よく分かりました」

「いやあ……今は人手不足ですさかい。辞められたら困るだけですわ」

乾いた笑いのあと、社長は視線を伏せた。

「……それにしても、もう一度来られたということは。確信があってのことでしょうな」

吉川は、わずかにうなずいた。

「はい」

日下部は深く息を吐き、語り始めた。

「私はこの仕事を、三十年以上続けてきました。脱サラして、この会社を一から立ち上げまして

な……

水道局を回り、資格がないと追い返され、書類の不備でやり直しを命じられ、雨が降っただけで

工事を止められた日々。」

舞は思わず口元を押さえた。

「……ひどい」

「でも、仕方ないと思ってました。工事手順書がすべてですさかい」

最近は若い社員に局回りを任せていたこと。

亡くなった井上のこと。

寡黙で、追い詰められていった姿。

「行方不明になって……川で見つかりました」

遺書には、「すいません」と何度も書かれていた。

妻・佳子への謝罪。

生まれてくる子どもへの言葉。

——それでも、死を選ばせてしまった。

舞は、吉川の横顔を見た。

彼の表情は、わずかに沈んでいた。

「葬儀で、佳子さんに会いました。お腹は大きくなっていて……それでも、あの人は『ご迷惑を

おかけしました』と、私に頭を下げたんです」

日下部の目に、涙が浮かぶ。

「そのとき、怒りが込み上げました。社員を奪われた怒りが……あいつへの怒りに変わった」

局での口論。

投げつけられた言葉。

——「出来の悪い社員のせいでしょう」

その瞬間、殺意を覚えた、と日下部は語った。

「……俺は、あいつを殺しました」

吉川は、黙って聞いていた。

「親父の工場に残っていた毒物を使いました」

そして、祭りの雑踏で見た光景。

回し飲みの水。

「……思いついてしまったんです」

日下部は、突然、両手でテーブルを叩いた。

「俺は、確かに殺した! だが、あいつだって……あいつだって、立派な人殺しだ!」

その言葉に、吉川の目が鋭く開かれた。

——あのとき、被害者が口にしていた言葉。

舞は、吉川の異変に気づき、そっと声をかけた。

「先輩……」

遠くで、サイレンが鳴った。

近づき、止まり、階段を上がる足音が重なる。

舞は立ち上がり、静かに告げた。

「……自供を確認しました」

日下部は、何も言わず立ち上がった。

こうして、男は逮捕された。

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