第6話
マンションを出てから、舞が言った。
「あの人……犯人じゃなさそうですね」
「……ああ」
舞は、子供をあやしながらも、会話の端々を逃していなかった。
吉川は思う。
――人を見る力。
これは舞の、紛れもない特技だ。
「それに……あんなに可愛い奥さんと、生まれたばかりの子供がいますしね」
「そうだな」 吉川は、静かに頷い
犯人は、別にいる。
そして――その人物は、祭りの人間ではない。
そう確信しながら、二人は次の一手を考え始めていた。
一度車に戻った二人は、エンジンを切ったまま、買ってきた缶コーヒーを開けた。
秋の夜風が、わずかに肌寒い。
もし木下直樹が犯人なら、あの写真は決定的証拠になる。
だが――彼の言葉が真実なら話は違う。
ペットボトルを渡した男が、真犯人だ。
「……『その人に渡してって言われたんです』か」
吉川の頭の中で、その言葉が何度も反芻された。
そのときだった。
「先輩。もう一度、写真見せてもらえますか?」
舞が携帯を手に、じっと画面を睨んでいる。
「この人……何か、おかしくないですか?」
「どれだ?」
吉川が身を乗り出す。
「ほら。ここです。帯……他の人と違いません?」
「帯?」
一瞬、吉川は首をかしげた。
だが、舞の手から携帯を受け取った瞬間――息を呑んだ。
「……上下、逆だ」
法被の帯。
他の担ぎ手は、上が黄色、下が赤。
だが、この男だけが逆だった。
その瞬間、記憶がよみがえる。
――横浜から京都に戻り、初めて祭りに参加した日のこと。
『おい、おまえ。帯、逆さまだぞ。初めてか?
上が黄色、下が赤。意味があるんだからな』
そうだ。
常連が、間違えるはずがない。
「……舞」
吉川は低く言った。
「出かしたぞ」
「え?」
「行くぞ」
舞は事情が飲み込めないまま、ただ吉川の背中を追った。
◆
二人が向かったのは、先ほど訪ねた町内会の家だった。
年寄会は解散していたが、まだ数人が残っている。
吉川は着くなり、携帯の写真を見せた。
「この男、誰だか分かりませんか?」
木下直樹から少し離れた位置に立つ、五十代ほどの男。
「……知らんな」
「おまえ、見たことあるか?」
誰も首を横に振る。
木下の顔は即座に分かった彼らが、だ。
「……あれ?」
一人が言った。
「こいつ、帯、逆さまやな」
「ほんまや。素人や」
吉川は、確信した。
――この男だ。
祭りに紛れ込み、
岡崎和也を狙い、
毒入りのペットボトルを渡した。
目的を持って、祭りに入った人間。
◆
二人は一度署に戻った。
本田刑事が待っていた。
「どうでした?」
「まだ断定はできないが……
ペットボトルを渡した男は、犯人じゃない可能性が高い」
「え?」
吉川は、木下直樹の件を詳しく説明した。
「……その木下さん、本当のことを言ってるんでしょうか?」
「おそらくな」
本田は頷いた。
「じゃあ、渡した“もう一人”が……」
「ああ。写真を元に、祭りに“特別参加”した人物がいないか、
町内会と別班で洗ってくれ」
「了解です」
◆
吉川と舞は、再び北条水道局へ向かった。
怨恨の線は、ほぼ間違いない。
だとすれば――誰かが知っている。
だが返ってくるのは、相変わらず、
「分かりません」
「聞いていません」
「特に心当たりは……」
その繰り返しだった。
「……皆、何か隠しているようにしか思えません」
舞が言う。
「だが、話してもらえないと、どうしようもない」
そう言って、吉川は舞を待たせ、庁舎内のトイレに向かった。
◆
個室に入り、便座に腰を下ろしたとき、
外で二人の職員の声が聞こえた。
「それにしても、あの岡崎……
いつか業者に殴られるんじゃないかと思ってたけどな」
吉川は、息を殺した。
「クリーン水道の社員が自殺したのも、
あいつに追い込まれたって噂、あるぞ」
「課が違っても嫌だよな。
同じ局員として……」
足音が遠ざかる。
吉川は、ゆっくりと息を吐いた。
――そうか。
だから、誰も話さなかった。
沈黙は、庇護ではない。
恐れと、後悔と、組織の論理。
点が、一本の線に変わった瞬間だった、
吉川が庁舎のトイレから戻ると、舞は何も言わず、ただ後ろを歩いてきた。
いつもなら、「遅かったですねー」と軽口の一つも飛んできそうな場面だ。
それが、ない。
――嫌な予感がする。
車に乗り込むなり、舞が堰を切ったように話し始めた。
「さっき……受付の人から聞いたんです」
ハンドルを握る吉川の指が、わずかに強くなる。
「岡崎さんが亡くなる一か月くらい前、受付の横で言い争ってた人がいたそうです。
岡崎さんと」
「……どんな相手だ?」
「作業服を着た、六十代くらいの男性です。
あまり見かけない人だったらしくて……胸元を見たら、“クリーン水道”って書いてあったって」
吉川は、思わず短く息を吐いた。
「……繋がった」
「え? 何がですか?」
「出かしたぞ」
そう言って、吉川は舞の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
舞は何が起きたのか分からないまま、なぜか誇らしげに胸を張っている。
――そうか。
見落としていた。
受付の職員には、事件に直接の利害関係がない。
だからこそ、口が重くならなかった。
(よく拾ったぞ、白石)
心の中でそう呟きながら、吉川は昂る気持ちを抑え、署へと車を走らせた。
◆
署に戻ると、吉川はまず本田刑事から報告を受けた。
「木下直樹さんについてですが、毒物を入手した形跡も、入手ルートも確認できませんでした」
「そうか……」
「木下さんの線は、ここで切れます。
ただ、当日“特別参加”していた人物が何人かいて、まだ全員は特定できていません」
吉川は頷き、話す。
「被害者の岡崎和也は、日頃から業者に対して相当厳しかったようだ。
……いや、厳しいというより、パワハラやモラハラに近い」
「えっ? それ、いつ分かったんですか?」
舞が思わず聞き返す。
「トイレだ」
「……」
舞の顔が、みるみる赤くなった。
「……なに想像してる」
吉川は咳払いをして、話を戻した。
「そして、岡崎が殺害される数か月前。
北条水道局に出入りしていた業者の社員が、一人自殺している」
「……まさか」
「クリーン水道の社員だ」
室内に、重い沈黙が落ちた。
「じゃあ……受付で言い争っていた人って」
「その関係者だ」
舞が声を上げた。
「怪しいじゃないですか!」
だが、吉川はすぐには頷かなかった。
――社員が自殺した。
だからといって、人は本当に殺しまで犯すのか。
考え込む吉川に、濱嶋一課長が口を開いた。
「とにかく、今回の事件における最重要人物であることは間違いない」
「……そうですね」
吉川は静かに答えた。




