第3話
『それから、僕たち、4 月に結婚しました。』
「……はっ?」
間抜けな声が漏れ、その勢いでむせた。
舞はすぐさま背中に手を添えたが、明らかに心配より“内容を知りたい”が前に出ている。
吉川は手で制し、続きを読む。
『今度の作品は京都を舞台にしたいと思ったので、最初は一人で行く予定でしたが、
美奈代が“どうしても行きたい”と言いまして……
今、安定期に入っているので、無理をさせないよう気をつけて一緒に連れていこうと思って
います。』
画面を見つめたまま、吉川は天井を仰いだ。
(……父親になったのか、あいつ)
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
喜び。
祝福。
そして――小さな痛み。
「沖田くん、優しいですね」
舞の声が、まるで針のように胸の薄い膜をつついた。
吉川はわずかに視線をそらした。
(……そうだな。俺が、持てなかった優しさだ)
再びメールに目を落とす。
『吉川刑事はお忙しいと思いますので、お仕事頑張ってください。
ウロタサチコより。』
「……ウロタサチコ?」
舞が首をひねる。
「なんで最後にペンネームなんですか?え、え? ウロタサチコって、まさか……」
「彼のペンネームだよ」
「えっ……えーーっ!?
ウロタサチコって、あの小説家の!? マジか〜!!」
「なんちゅう驚き方だよ。少しは品よく驚けないのか」
「むりです!!」
舞は両手を振って全力で否定した。
吉川は軽く頭を押さえた。
いろいろありすぎて、今日はもう頭が回らない。
(……まあいい。せっかくだし、会ってみたいな。二人とも元気そうだし)
「で、どう返事するんですか? 会うんですよね?
せっかく京都まで来るんですし、会ってあげましょうよ」
「今、それを考えてるところなんだよ。……ほら、署に戻るぞ」
舞はうなずいたが、心の中ではすでに決めていた。
(絶対ついていって、サインもらお……!)
その目の奥で、刑事らしさとは程遠い野望がぎらりと輝いていた。
夜の帳が下り始め、ひっそりとしたマンションの廊下に吉川の足音だけが響いた。
部屋に入って灯りをつけると、小さな明るさが静寂の中に浮かび上がった。
一人暮らしの部屋特有の、温度のない空気。それでも、今日はどこか柔らかい。
吉川は上着を脱ぎ、スマートフォンを取り出すと、沖田への返信を打ち始めた。
『メール見ました。美奈代さんと結婚したんだね。おめでとう。
仲は良かったけど、まさか本当に結婚するとは。
で、いつ来るんだ? 時間ができたら僕も君たちに会いたいんだ。』
送信ボタンを押すと、わずか数分で通知が返ってくる。
『返信ありがとうございます。
10 月 4 日から 13 日まで京都に滞在しています。
僕たちも会いたいと思っていますが、無理はしないでくださいね。
良かったらまたメールください。』
吉川は小さく息をつき、すぐ返事を打った。
『了解 また連絡するよ。
じゃあ、美奈代さん、気をつけて。』
送信すると、胸の奥にふわりと温かいものが広がった。
(……あいつら、本当に大人になったな)
あの横浜の事件を思い出す。
青く、真っ直ぐで、危ういほどに正義を求めて突き進んだ二人。
今は夫婦となり、命を授かり、京都へ来る。
吉川は照れくさそうに笑った。
「……彼らに、力をもらえるかもな」
その言葉は、暗い部屋に小さく溶けていった。
◆
翌朝、署に入るや否や舞が駆け寄ってきた。
「先輩、昨日メール返しました?」
「返したよ。10 月 4 日から 12 日まで滞在するってさ」
「けっこう長いですねぇ。これなら絶対どこかで会えますよ。えへへ」
「何を喜んでるんだ。誰も連れて行くとは言ってないぞ」
「絶対ついていきますから!」
舞は拳を握り、目をきらきらさせた。
その圧に吉川は肩をすくめた。
(……無理だな。あれは止められん)
◆
二人は忙しい毎日を送り、気づけば 10 月も半ばに差しかかっていた。
沖田たちが京都に来ていても、なかなか時間を作れない。
だが、滞在最終日の前日――10 月 12 日の夜――ようやく会うことがかなった。
待ち合わせ場所は、沖田夫妻が泊まるホテルのレストラン。
テーブルに着くと、軽い挨拶のあとすぐに吉川がグラスを掲げた。
「沖田悟くん、美奈代さん。結婚おめでとう。乾杯!」
カチン、と心地良い音が響く。
二人は終始、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「まさか君たちが本当に結婚するとはなぁ。仲が良いと思ったらすぐ喧嘩するし。初めて会
った時、美奈代さんに足踏みつけられてただろ、悟」
「えっ、気付いてたんですか?」
「まあ、一応刑事だからな。ははは」
沖田は耳まで真っ赤になり、照れ笑いを浮かべた。
「てっきり、お二人は付き合ってるんだと思ってましたよ。」
「そうそう、私もそう思った」
美奈代が声を弾ませると、舞も大きくうなずいた。
吉川は慌てて手を振った。
「そんなわけないだろ。こんな役立たずの、ただの――」
急に言葉が詰まり、視線が宙をさまよった。
舞がすかさず身を乗り出す。
「で、どういうことなんですか?」
吉川は答えず、やけになったように肉を口に押し込んだ。
沖田が噴き出す。
「ぷっ……なんか僕たちみたいですよね、お二人」
「ほんと、お似合いですよ」
「やめてくれよー!」
吉川が慌てた瞬間、舞の足がそっと——いや、しっかり吉川の足を踏んだ。
「痛っ! お前、何するんだ!」
「美奈代さんの真似をしてみました〜」
テーブルは一気に笑いで満ちた。
吉川以外は、ではあるが。
「今回は京都を舞台にしたくて来たんですよね?」と舞が尋ねる。
「そうなんです」と沖田はうれしそうに続けた。
「古文書や地図を調べたり、本能寺跡地を回ったり。夜はずっと書いてました」
「作文すら苦手だったのに、今では作家ですからね」と美奈代が笑う。
「人生ってわからないものです」
再び、テーブル全体に温かい笑みが広がった。
吉川はその光景を眺めながら、心の奥がじんわりと熱を帯びるのを感じた。
(……あんな事件があったとは思えない。
二人は強くなった。彼女の分まで生きているんだな)
静かにそう思った瞬間だった。
「吉川刑事は、この十年どうでした?」
沖田の問いに、吉川の表情から笑みがすっと消えた。
舞は空気を読むように声を張った。
「あのね、私という最高の後輩と出会いました〜! はははっ!」
わざと明るく言ったその瞬間、
テーブルの上で吉川の携帯が震えた。
バイブの低い音が、四人の耳を貫いた。
吉川は短く通話し、席に戻って言った。
「……悪い。事件が起きた」
沖田はまっすぐ吉川の目を見た。
「行ってください。白石さんも。一緒に事件やってるんでしょ?相棒なんですよね」
「悟くん……ありがとう」と舞が頭を下げる。
「ごめんなさいね。本当に……一言ぐらい声かければいいのに、あの人」と舞がぼやく。
「吉川さんらしいですよね」と沖田が笑った。
「うん」と美奈代がうなずいた。
吉川と舞は急ぎ足で店を後にし、
夜の京都へ――事件の現場へ――走り出した。
祭りのフィナーレを告げる灯りが、
遠くでゆらりと揺れていた。




