第2話
数年前、柊部長に言われた言葉が蘇る。
『吉川。おまえ、オンオフできてんのか? いつまでも引きずってたら、肝心なときに失敗
するぞ』
(あの頃からまだ変われてないな……)
そう自嘲したそのときだった。
商店街を抜けた先に、赤い鳥居が立っていた。
吉川の足が止まる。
(……しまった。すっかり忘れていた)
ここは──妻・沙織が亡くなった、あの神社だ。
最も来たくなかった場所。
舞は吉川が固まっていることに気づき、コートの裾を軽く引いた。
「何してるんですか? スタバは目の前ですよ。ほら、もう!」
明るい声で無理やり店内に押し込んだ。
舞はカウンターに行き、吉川の分のコーヒーまで勝手に注文し、席についた。
吉川が向かいに座ると、舞は表情を引き締めた。
「先輩」
「……なんだ」
「少しだけ聞いていましたけど、この先の神社で起こったこと……話してもらえません
か?」
吉川はうんざりしたように息を吐いた。
「……気遣いとスイッチ、さっき褒めたのは間違いだったな」
「え? 何か言いました?」
舞は目の端に少し涙をため、まっすぐ吉川を見た。
「先輩が心を痛めていること、私なりに分かってるつもりです」
「分かるもんか」
冷たく言い捨てたが、舞は怯まなかった。
「でも……先輩。どれだけ抱えていても、時は戻りませんよ。
話してほしいです。少しでも先輩の心が楽になるなら」
吉川は黙ってコーヒーを飲んだ。
そして、ぽつりと言った。
「……部長に、どこまで聞いたんだ」
「……あの神社の前で、奥様が事故で亡くなられたってことだけ。
それ以上は聞いていません」
「……そうか」
吉川は、深く息を吸った。
温かいカップが震える手をわずかに静める。
(言うべきではない、と思ってきた。
だが──)
舞の真剣な目に、吉川の沈黙はゆっくりと溶けていった。
店内にはコーヒーの香りと、客たちのざわめきが満ちていた。
吉川は紙コップを指先で回しながら、ようやく口を開いた。
「……あれは、今からちょうど――」
言いかけて、ふと周囲を見回した。明るすぎる。ざわめきがうるさい。
心をさらけ出すには、この場所は少しばかり落ち着かなかった。
「やっぱり、静かな場所に行こう。車が坂の下にある」
そう言って席を立つと、舞も無言でついてきた。
◆
車に乗り込んだ吉川は、胸ポケットからタバコを取り出した。
それを見た舞が、すっと手を伸ばす。
「先輩。タバコ、やめたんじゃなかったんですか?」
吉川は苦笑して、タバコを再びポケットに戻した。
気持ちを落ち着けるための癖みたいなものだった。
少し遠くで踏切が鳴り、電車が通り過ぎる音がした。
完全な静寂ではないが、話すには都合の良いリズムだった。
「……あれは、五年前のことだ」
舞が小さく息を呑む。
「えっ? じゃあ私がここに配属される、ほんの少し前ですか?」
「ああ」
吉川はハンドルを見つめたまま、淡々と語り始めた。
「僕はずっと“真面目の権化”みたいな刑事だった。横浜にいた頃から、そう言われてた。
それは誇りでもあったが……ある事件のあとで考え方を変えた。
“白黒をつけるだけが刑事じゃない。人に寄り添うことが時に救いになる”――そう思った」
舞は黙って聞いている。姿勢はまっすぐだが、膝の上の手は固く握られていた。
「事件が終わり、京都への異動が決まった。……あの柊部長と一緒に、な」
「同じ部署に転勤なんて滅多にないですよね」
「そうだ。たまたま俺が少し昇進して、柊部長も課長から部長に上がった。
また上司と部下だよ。はは……」
笑いはすぐに途切れ、車内に沈黙が落ちた。
「俺は西陣の出身でな。彼女もそこで一人暮らしをしていた。
同じマンションで殺人事件があって、聞き込み――いや、ケアだな。そこで知り合った」
舞の目に、悲しみと理解が混じった色が落ちる。
「“白黒つけるだけじゃない”という先輩の信条の、実践だったんですね」
吉川は答えず、遠くを見た。
「ある日、訪ねた時に……彼女が倒れた。貧血だった。
それが最初の出会いで、それから――結婚して、子どもも授かった」
その言葉と共に、吉川は拳をぎゅっと握った。
「でも……妊娠中、貧血が続いていてな。頻繁に電話やメールをくれていたのに、俺は……
見なかった」
「先輩……なんで、見なかったんですか?」
舞は怒りを込めて問う。
「……わからない。忙しさにかまけていた。
“どうせまた心配性の連絡だろう”って、そんな甘えがどこかにあったんだ」
「どうせ、帰りも遅かったんでしょう?」
「ああ。でも、沙織はいつも起きて待っててくれた」
その言葉に、舞の目から涙がこぼれた。
「最低ですよ、先輩。それ……最低です」
「わかってる。わかってるんだよ……」
吉川は、悔恨を吐き出すように続けた。
「彼女の母親が家に来ていた日があった。沙織が倒れたのを見て、俺を激しく怒った。
“妊娠中の女がどれほど不安か分かっているのか”――当然だ。
俺は、わかっていなかったんだ」
吉川は目を閉じ、深く息を吐いた。
「だから約束した。二人で安産祈願に行こうって。
その日は午後2時に神社で待ち合わせるはずだった。
でも仕事が押して……ついたのは3時過ぎだった」
舞は手を口元に当て、震えていた。
「神社の前にはパトカーがあって、警察官が数名いた。
“妊婦が石段から落ち、車に跳ねられた”と聞いた時……胸が凍りついた。
俺の名を告げると、警察官の顔色が真っ青になってな。
書類のコピーを見せてきた――“吉川沙織”。」
「……っ」
舞の涙が止まらなかった。
「病院に駆けつけると、沙織の母親が……俺に掴みかかろうとした。
“あなたのせいよ! 私の沙織を返して!”
……父親が必死で止めてたけどな。
外でも“人殺し”と叫んでいた」
吉川の声は震えていない。
震えを通り越した人間の声だった。
「病室には沙織がいた。眠ってるみたいだった。
医者が言った。“母子ともに助けられなかった”と」
舞は泣きじゃくりながら叫んだ。
「先輩は……やっぱり最低です!」
「ああ、最低だ。
俺は……“二人の命を奪った人間”なんだよ。
そんな俺が刑事を名乗っていいわけがない」
話し終えても、舞は声を上げて泣き続けていた。
吉川はただ、その涙を静かに受け止めていた。
「……そろそろ、署に戻ろうか。」
吉川の言葉に、舞は涙の名残をそっと拭い、静かにうなずいた。
二人を乗せた車はゆっくり動き出し、まだ夕暮れの残光が街並みに薄く広がっていた。
◆
署の駐車場へ入った瞬間、吉川のスマートフォンが甲高く震えた。
車を停め、シートベルトを外しながら画面を確認すると、差出人の名に目を細める。
──沖田悟。
思わず背だれに寄りかかり、軽く息を吐いた。
高校時代の幼馴染・佐々木美奈代とともに、横浜で未解決事件の核心に迫った、あの真っ
直ぐな高校生――いや、もう二十代後半の立派な大人だ。
懐かしい名を見つめていると、舞が横目でそっと覗き込んでいた。心配しているふりをし
つつ、完全に興味で目が輝いている。
吉川はメールを開いた。
『お久しぶりです。お元気ですか?
もう忘れられていたら…悲しいです(笑)。
あれからもう 10 年になりますね。
その節はいろいろお世話になりました。』
読みながら、吉川の胸に温いものが流れた。
清々しいほど一生懸命で、どこか危ういほど正義感が強かった少年。
自分が忘れるはずもない。
『実は今度、仕事で京都に行くことになりました。
美奈代と一緒です。』
吉川は思わず眉を上げた。
(まだくっついてたのか……いや、くっつくって次元じゃないな)
続く一文が、彼の呼吸を止めた。




