第1話
江ノ島の堤防は、ゆるやかな陽光に包まれていた。
潮風が頬を撫で、波が岩をかすめる乾いた音が耳に心地よい。吉川は堤防に寝転び、青く
澄んだ空を見つめて目を細めた。
こうして潮風に吹かれていると、胸につかえていたものが少しずつ溶けていく──昔か
ら、彼にとって江ノ島はそんな場所だった。
目を閉じると、まぶたの裏に十年前の光景が浮かぶ。明るかった二人の笑顔。まっすぐで、
清々しくて、今思えば羨ましいほど眩しい存在。
……それに比べて自分は、この十年間、何を得たんだろう。
いや、失ったものが大きすぎて得たものは何も浮かばない。
胸の奥に熱いものがこみ上げ、ひと筋の涙が頬を伝った。
「コラッ!」
突然、真上から鋭い声が降ってくる。
慌てて目を開けると、逆さまに覗き込む顔が視界に飛び込んだ。
「……白石!? なんでお前がここに!」
飛び起きる吉川を見て、白石舞は全身で笑った。
「先輩こそ、何してるんですか。こんなところで寝てるなんて」
「……で、なんでここがわかった?」
「部長が言ってましたよ。『あいつ、珍しく三日も休み取って京都にいねえってよ。どうせ
江ノ島でも行ってんだろ』って。で、来てみたら、当たりでした〜。へへっ」
「へへ、じゃない。君、非番の日じゃないだろ?」
「有休取ってきました。『おまえがいても仕方ない』って言われたので。へへっ」
「へへ、じゃない。つまり、君は役立たずってことだ」
「ってことは、私と吉川先輩は二人で一人……みたいな?」
「意味がわからん!」
呆れた吉川は立ち上がり、堤防を歩き始めた。
舞は慌ててその後を追いかける。
「あっ、ちょっと待ってくださいよ先輩!」
そのとき吉川のポケットで携帯が震えた。
「はい、吉川です。……ああ、そうですか。……いえ、今日戻ります。明日、捜査会議です
よね。……はい、では」
電話を切った途端、舞が頬をふくらませた。
「え、今日帰るんですか? 今、明日でいいって言ってたの聞こえましたよ!」
「盗み聞きは犯罪だぞ。窃盗罪」
「窃盗!? 人の会話を聞いたら窃盗って……どんな法律ですか!」
舞はむくれたあと、急に猫なで声になる。
「せっかく横浜まで来たんですし〜。今日は海辺のホテルに泊まって……夜景見ながら、軽
く飲んだりしましょうよぉ〜」
「却下だ。せっかくのプライベートが台無しだ」
ぷつん、と舞の何かが切れた。
「泣いてたくせに!」
言った瞬間、しまったという顔をする。
吉川は足を止め、背中越しに低くつぶやいた。
「……君に、何がわかる」
その声には、深い穴の底に沈んだような響きがあった。
舞は返す言葉を失い、二人の間に重い沈黙が落ちた。
◇
横浜駅に着くまで、二人はほとんど口をきかなかった。
だが駅で吉川が突然言った。
「……降りるぞ」
「え? 乗り換えじゃなくて?」
「外はもう暗いだろ。……夜景でも見たいって、言ってたじゃないか」
舞は驚きで胸が熱くなった。
二人は海沿いの道を歩き、観覧車の灯りが見える場所へ出た。
「10 分だけだぞ。電車がある」
「10 分で充分です!」
舞は弾むように海を眺め、夜風に髪を揺らした。
吉川はそんな彼女の横顔を、静かに見つめる。
(……この子の、まっすぐさ。少しでも見習えたらな)
ふと、舞の視線が観覧車に向かう。
乗りたそうな気配が、全身から漏れていた。
「……乗りたいか?」
「えっ!? な、なんでわかったんですか?」
「乗りたそうにしてたじゃん。」
「今の横浜弁、出ましたね! "〜じゃん"!」
「うるさい。ほら、行くぞ」
舞は小さくガッツポーズした。
舞は吉川のこういう気遣いが好きだった。
翌朝。
静まり返った会議室に、事件の概要を映すモニターの光だけが落ちていた。
「……以上が容疑者の供述です。動機は私怨。犯人は昨夜のうちに逮捕され、自供済みです。」
淡々と進む報告に、吉川と舞はただ静かに座っていた。
事件があまりに早く片づいてしまったため、二人の出番はほとんどなかった。
「ふうん……」
柊部長が湯気を立てるコーヒーを手に、吉川のほうをちらりと見た。
「で、吉川。昨日“帰ってこい”とは言ったが……なんで白石、おまえまでいるんだ?」
吉川は一瞬だけ肩を震わせた。
白石がばつの悪そうに視線を泳がせる。
「あ、……わ、私が連絡しました。」
吉川がとっさに応える
「ほう?」
柊部長は意味ありげに鼻を鳴らした。
「てっきり白石が、おまえを追いかけて江ノ島まで行ったのかと思っていたがな?」
「ぶっ!!」
舞は手に持っていた紙コップをひっくり返し、熱いコーヒーを柊部長の机に豪快にぶちま
けた。
「あちちちちっ!! なにしてんだ白石っ!」
「す、すいません!!」
舞は真っ赤になって拭き始める。その動揺ぶりに、吉川は思わず天を仰いだ。
――やめろよ……余計な誤解を招くだろ……
椅子に座り直した柊部長は、ふうっとため息をついた。
「……まあ、残念だなあ。そうなってくれても良いんだがな」
「……は?」
吉川は眉を跳ね上げた。
「吉川。お前が元気になるならな。なあ、白石?」
舞は固まったまま、「……は、はいっ……?」と小さな声を漏らした。
吉川は慌てて手を振る。
「部長! そんなこと、あるわけないでしょう! 横浜時代から、俺がどうだったかご存じで
すよね?」
「知ってるよ。おまえは真面目だ。真面目すぎるくらいにな」
柊部長は苦笑しながら椅子にもたれた。
「だが、その真面目さが……裏目に出ることもある。それが“今”なんじゃないか?」
その言葉に、吉川は口をつぐむしかなかった。
舞が小声で聞いた。
「あれ? 部長も横浜にいたんですか?」
吉川は立ち上がり、その質問から逃げるように言った。
「……竹田の事件の裏取りに行ってきます。ほら、行くぞ、白石」
強引に舞の腕を引いて会議室を出る。
車に乗り込むと、吉川はエンジンをかける前にハンドルに視線を落とした。
「白石」
「はい」
「……刑事の“男女の相棒”ってのはな。組織の中でも一番、神経質に見られるんだ。
少しでも噂になると、どちらかが異動になる。場合によっては、刑事を降ろされる」
舞の表情が固まった。
「それは……嫌です。わたし、先輩と捜査がしたいです」
「だったら、軽率な真似はするな」
舞は唇を噛みしめて、小さくうなずいた。
「……はい
吉川から見えないところで、彼女の拳はぎゅっと握られていた。
――本当は、“一緒にいたい”って言いたい。
――でも言ったら、きっと……相棒を解消されてしまう。
舞はしばらく黙って、前を向き直った。
その横顔を、吉川は一度だけちらりと見た。
(……しばらく、おとなしくしてろよ)
心の中でだけ、そうつぶやいた。
数日後。
竹田地区での聞き込みを終え、吉川と舞は商店街へ抜ける細い道を歩いていた。
「今日はかなり歩いたな」
「そうですよ。竹田からここまで、何キロあると思ってるんですか?」
「うーん……四キロぐらい?」
「簡単に言いますけど、足パンパンなんですから!」
「歩くのも刑事の大事な仕事だ」
舞はむくれながら吉川の背中を追った。
その様子に吉川は少しだけ気まずくなった。
「……スタバ、行くか?」
「えっ、ほんとですか? やったー! 何飲もうかなあ?」
子どもか、と吉川は心の中でため息をついた。
だが、この子は文句を言いながらも、聞き込みのときは驚くほど頼りになる。
子どもを連れた主婦には、自然に笑顔で話しかけて距離を縮める。
子どもがぐずれば、保育士資格持ちの舞はちょこんとしゃがみ、あやしてくれる。
そして情報が引き出しやすくなる──。
(こういう気遣いは、刑事補佐としてはむしろ重要なんだよな)
さらに舞は、切り替えがうまい。
普段はのほほんとしているようでいて、スイッチが入ると一気に鋭くなる。
(……オンオフができる。俺には今、それが一番欠けてる)




