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8:甘言

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「どうしたの?」


私が聞く。右方向に顎を上げて、手は繋いだままで。


「ううん、何でもないよ。」


そして彼は応える。さっきよりも強く握った手。感触を確める様に慎ちゃんは、きゅっと力を込めた。すっかり逞しくなった横顔にも、笑えばちゃんとえくぼが出来る。ただそれだけで、心が和んだ。


夕暮れ時の坂道を、私達は並んで歩いていた。特に会話をするでもなく、ただその場に流れる空気を楽しんでいた。高台から臨む海に、沈み始めた太陽。波間に吸い込まれゆく光。汐の香りを運ぶ風が、時折私のスカートと髪を揺らす。夜を前にしてオレンジ色に染まる世界は、何にも代えがたいほど美しく輝いていた。伊織さんのお店に行く時は、必ず通る道順。私はこの道をいつも独りで自転車に乗っているけれど、今日は足音が2つ。おろしたばかりのピンク色のミュールと大きなスニーカーが、止む事なく砂利を踏み鳴らしている。慎ちゃんと一緒だと思うと、そんな小さな事でもなおのこと嬉しかったりする。


そうして坂も終わりに近づいて、海なんてすっかり見えなくなった頃。セーラー服を着た女子高生が3人、向かい側から自転車を押してやって来た。楽しそうに会話をしていたのに、私達と通り過ぎる間際、静かになる。


擦れ違った時に感じた視線。ねっとりと絡みつく様な、選定の眼差し。


やがて・・・可憐にはしゃぐ声が後方から聞こえ始めた。慎ちゃんについて噂話をしている事に、私は彼女たちの気配から察した。それを裏付ける様に『かっこいい!』とか『モデルみたーい』なんて声も聞こえる。その響きはずっと鼓膜を揺らしたまま消える事が無くて、余韻を紛らわす為に私はぽりぽりと鼻先を掻いた。


「ねえ、慎ちゃん。」

「なに?」

「今すれ違った女の子達、慎ちゃんの事をカッコイイって。」

「ふーん、そう。」


前を向いたまま気の無い返事。予想外の彼の反応に、私は声のボリュームが自然と上がった。


「あらやだ、喜んだりしないの?そういうのって普通、意識したりするでしょう?同年代の、可愛らしい女の子達だったのに。」


すると慎ちゃんは私の発言を聞くや否や立ち止まり、お陰で仲良く繋いでいた手は糸電話の様にぴーんと張った。前のめりになった事で私は振り向き、動かない慎ちゃんに首を傾げた。いきなりどうしたのだろう。慎ちゃんは拗ねてる様にも、怒っている様にも見える、そんな曖昧な表情をしていた。


「だったらちーはさ。僕がかっこいいって言われて、嬉しいの?」


はい?嬉しいって、私が?慎ちゃんじゃなくてどうして私が、その質問をされるのかな。よく分からん。


「僕がちーの言う『可愛い女の子達』にかっこいいとか好きって言われて・・ちーはどう思うのさ。」


口を尖らせて尋ねてくる慎ちゃんを見て、何故だか私も口を尖らせた。もう嫌だ。イライラってね、電線みたいにすぐに繋がっちゃうんだから。移っちゃうのよ、こういうの。ムスっとしたままの慎ちゃんに、私もムスッとしたまま答える。


「慎ちゃんがかっこいいって言われるのは、もちろん嬉しいよ。何だか自慢に思えるじゃない。だって私の慎ちゃんは素敵なのよ~って、堂々と認められたって事でしょう?」


そう言うと、慎ちゃんは目を丸くして驚くと、今度は何やら呟き始め、最終的には顔に手のひらを当てそっぽを向いた。何なのよその反応。今度はどうしたの。何で機嫌を損ねたんですか。気持ちがころころ変わるお年頃?やっぱり思春期って難しいのね・・なんて思いつつ、私は伺い知ろうとじっと目を見た。


「いや、ごめん・・・・嬉しすぎてつい。どうぞ気にしないで続けて下さい。」

「は・・・・・・?」

「良いよちー、お願い続けて。」

「・・・・。」


意味不明の態度に無言で眉根を寄せていたら、どうぞどうぞと絶妙に目で促された。ちょっとちょっと、なにその仕種は。年下にされるような事じゃないわよね、それって。


「もう、じゃあ続けますけど?うーんとねぇ・・・ただ慎ちゃんを好きって言われたら、やっぱりちょっと寂しいよ。何だか慎ちゃんが離れてしまいそうだし。それはやっぱり本音かな。正直なところ。」


顎に手を当て、考え込むように俯いた。言葉にしてしまえばそれは、ひどく当たり前の事だ。だって慎ちゃんと私は、ただの幼馴染なだけ。私よりも4歳も年下で、しかも夏にしか会えないご近所さんで。裕福なお家のお坊ちゃまで、女の子達がつい振り向いてしまう様な男の子で。それに、それから・・。


私がしばらく悶々と考えていると


「離れないけど。」


それは呆気ないくらいに自然と、でも今までの謎めいた受け答えとは一線を画してはっきりと、少しの隙も無い完全否定をしてみせた。あまりの潔さに驚いて、足元に落としていた視線を上げる。・・・と、至極真剣な顔の慎ちゃんが立っていた。どことなく、漂う雰囲気もさっきとは違ってる。


「僕は絶対に離れない。ちーの傍にいるって、もうずっと前から決めてる。」


それは私からすれば、夢の様な言葉だった。お伽噺みたいに、それは「天上人」に望んではいけない願い。


「だからちーも、忘れないで・・・?」


気付けば目の前に立っていた。慎ちゃんの両手がそっと、私の頬を包む。首を上向きに固定され、まっすぐに刺さる視線。ええっーと。あのう、ちょっと?すごく近いんだけれども。近いですよ、慎ちゃん。ちょっと離れませんか。


「ねぇ、ちー。僕以外には誰も隣に立たせないって、ここで誓ってよ。」


頬から唇へ、嘘みたいに綺麗な指が滑っていく。女の私よりも美しい指先だ。その動きはとてもなめらかで・・・慎ちゃんがピアニストならきっと、鍵盤を流れるこの長い指は映えると思った。きっと音色も素敵だろう。


「ちー、お願い。誓ってくれるよね?」


頬を走るその運指には、どこかしら手慣れた気配を感じた。そして直感する。きっと今までにも彼は、こんな風に私以外の誰かの頬に触れている。優しい指先。温もりを吸収する柔らかな皮膚の感触。それを煽る様な慈愛に満ちた瞳に見下ろされながら、私の知らない「彼の記憶」は、確かにそこから流れてきた。感じたくは無かったのに、否応なしに頭をよぎる。


「誓ってくれなきゃ、許さない。」


この時の私はもう、殆ど慎ちゃんの言葉など耳には入っていなくて・・・女の子の柔らかさをちゃんと知っている彼の手の動きに、嫌悪感すらも感じていた。知らないものなど要らない。あの頃のままの君だけで良いの。柔らかくって優しくて美しい。穢れを知らない君が好き。傲慢な私はその想いだけを大切に抱え過ぎていて、彼の本心など端から見る気も無かったのだと思う。「分かったから、もう離れて。」そんな気持ちを込めて横柄に頷くと、それに反して距離は近まり、そして・・・・・ゼロになった。


・・・・・嘘でしょ?


彼の唇が、確かに触れていた。


恥ずかしながら白状すると、記念すべき(?)彼との最初のキスはこのようにして奪われたのでした。信じられますか?唐突に、脈絡も無く、ほんとにいきなり奪ったのです。思い返してみても・・・やっぱり年下のクセにナマイキだと思います。この時の彼の唇の感触など、これっぽっちも覚えていません。だって覚えているのは、思いっきり彼の頬を叩いた右手の痛みだけなんですから。




とうとう動き始めた年下くん。お姉さんは逃げ切れるのか・・・?

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