3:雨のち晴れ、時々曇り
メニューは話数によって、随時追加します。
お気に入りのワンピースを着て、これまたお気に入りの帽子を被る。
「おにーちゃーん、伊織さんとこに行って来るねー!」
振り向いてヒラヒラと手を振る。コウ兄は声を出さずに視線だけで『気を付けてな』と言った。はい、気を付けます。それじゃあ行って来るね。
自転車をこいで自宅兼仕事場の門を出た。青々とした木立を抜けて、紫陽花の咲き乱れる広場を越える。潮風に時々飛ばされそうになる帽子を押さえながら、私は街へと続く坂道を下りて行った。
「気持ちが良いなあ。」
梅雨の合間にようやく見え始めた青空。そのすっきりとした空気は、夏の到来を予感させる。
「あ、おばちゃんこんにちは!」
坂から平坦な道へと変わり始めた頃、人やお店の活気づいた気配が増える。すれ違う顔馴染みに挨拶をしながら、さらに力を込めてペダルをこぐ。わざと遠回りしてしばらく風の心地良さを味わった後、目的地にようやく着いた。キィっとブレーキを踏んで、裏口に寄せて自転車を止める。少し乱れたスカートを直し、窓ガラスに映る自分を確認しながら、帽子を胸に抱えて髪形を整える。よし、抜かりはないはずだ。
「こんにちわー」
店のドアを開くと、いつものようにからんからんとベルが鳴った。
「いらっしゃい。」
そしていつものように、店の奥から伊織さんが現れる。
「こんにちは、伊織さん。」
「こんにちは、千紗子ちゃん。」
どうぞ、としなやかに席へと誘導され、私は素直にそこへ座る。馴染みの席のカウンター。上目遣いで伊織さんを盗み見ると、しっかりと目があってしまった。不意打ちに胸も鳴る。
「久しぶりだね。」
独特の甘い声だ。姿かたちも格好良いのに、声まで色気あるなんて卑怯極まりない。まったくもう、相変わらずなんだから伊織さんてば。眩しい笑顔をそんな惜しげも無く、簡単に見せてしまわないで。うっかり惚れてしまいそうです。
照れて紅くなった耳を、隠す様に擦る。心なしか鼓動も早まった気がしたけれど、いや、これ以上は考えない事にします。
「今日はどうする?」
「えと・・・じゃあ、ドイツで。」
「かしこまりました。」
さりげなくウィンクして、伊織さんは準備を始めた。どんな仕種もすごく優雅で、普通なら厭味ったらしく映る様な事でも、伊織さんがすれば何もかも自然だった。その紳士っぷりは、黒と白で統一されたギャルソンの衣装を着る事で、更に箔が付く。どうやらコウ兄ちゃんの話によると、この雰囲気は外国で身に付けたものらしい。それが嘘か本当かは分からない。けど少なくとも私は、ここに立っている時の伊織さんはいつだって、カッコイイなぁと思ってる。
「はい、どうぞ。」
目の前に出されたのはコーヒーと、1つのチョコレート。私はカップに少しだけ顔を近づけて、香りをかぐ。
「うわぁ・・・うん、良いね、美味しそう。」
そっとカップを持つと、目を閉じて・・・飲んだ。香ばしい香りが一気にのどから鼻を抜ける。まったくもう、悔しいなぁ。やっぱりとても美味しいじゃない。
伊織さんを見てみると、口許だけを少し上げていた。完全無欠の勝者の笑みだ、ほんっと憎たらしーなぁ。
「気に入って頂けたようで?」
「うん、すごく良いねコレ。」
「ありがとう。」
「この苦みだったら、レモンケーキが食べたくなる。」
「レモン?」
「そう、レモンよ。」
私は会話をしながら、頭の中ではレシピを練っていた。レモンを乗せた、黄色いケーキ。酸っぱくて、サッパリした、夏に食べたいレモンのケーキ!
「ふふ、次の課題が決まったかも。」
「それは良かった。完成したら、食べに行くよ。」
「うん、楽しみに待っててね。」
「待ってるよ。」
やがてお客さんがちらほらと顔を見せ始めたので、伊織さんは私の傍を離れた。持って来ていた本を開き、小一時間ほどそうして過ごした後、私はカウンターにお金を置いてお店を出た。伊織さんに会釈をしたら、またしてもウィンクされる。
こらこら違う、ドキドキしなくて良いからね心臓よ。
お風呂上がりの犬みたく首をぶんぶん振って、私はまた自転車に乗った。顔馴染みに挨拶して、立ちこぎしながら坂を上がり、紫陽花の横を通り過ぎて・・。
『ピンクよりもムラサキよりも、青いアジサイがボクはすき。ねえ、ちーは?』
不意に思い出し、私は動きを止めた。自転車を降りて、じーっと紫陽花の群生を見つめる。
『ねぇ、ちーは何色が好きなの?』
私は・・・そうだなあ・・・。
唇にそっと手を当て、
「慎ちゃんと一緒かな。」
ひっそりと紫陽花に囁いた。
結局、その後は自転車には乗らずに押しながら帰った。おかげで行きよりもゆっくりと紫陽花を見れたし、道の真ん中を横断中のカタツムリを避難させる事も出来た。
それからちょうど1週間後、梅雨明けのニュースが流れた。今年の夏がようやく始まる。