12:そして、もう1人。
メニューは話数によって、随時追加します。
慎ちゃんが帰って来てから、1週間ぐらい経った。
日中は仕事があるので殆ど顔を合わせないけれど、互いの家で夕ご飯を食べたり、休日にはお出掛けしたりしながら、出来る限りは一緒に過ごしていた。待ち望んでいた楽しい日々。大好きな人が近くに居る幸せ。その想いをしっかりと噛み締めながら、私は飽きることなく慎ちゃんと同じ時間を共有していた。
そんな風に年甲斐も無く浮かれていたから、きっとバチが当たったんだろう。
閉店間際の店の中。私はその日、慎ちゃんと花火をしよう!なんて暢気に考えていた。コウ兄も既に食材チェックの為に奥に引っ込んでいて、フロアには私一人。店内の片付けに取り組むかたわら、時計とにらめっこをしていた。
あと15分で閉店。
待ち遠しさにそわそわする中、私達を波乱へと陥れる全ては・・・・・・・そのドアベルの響きから始まった。祝福を告げる6時の鐘よりも先だったのが、不幸の原因に違いない。
ああ・・。神様ってどうしてこんなにも意地悪なのだろう?安寧を望む人の前にも、必ずや試練をお与えになる。それも並大抵のやつじゃなくって、全身がぐらつくようなハードな試練を。要らないですから。越えられませんよそんな高い壁。直接そう訴えかけた所で、本当に安寧を叶えて下さるのだろうか。
チリリンっとベルが鳴ってドアが開いた時、私はがっくりと肩を落とした。ギリギリの時間には来ないで~!!なんて正直なところ思いつつ、文句を喉の奥に無理やり閉じ込める。必殺技の愛想笑いを張り付けた。抜かりはない、そう確信してから振り向いた。
「申し訳ありません、お店はもう・・・」
締める時間なんです。 言うはずだった常套句は、来店したお客さんを見た瞬間に消えた。
「ちぃ。」
しばらく聞いていなかった声なのに、どうしてか耳には簡単に馴染んだ。終わらせたと思っていたのに、本当は心の奥底でずっと、ずっと引っ掛かっていた声。かさぶたになっては引っ掻いて血を滲ませ、いつまで経っても消えない痕を残した。その繰り返しが、私と彼の思い出。センチメンタルとは程遠く・・・生々しい痛みを伴った現実。ぐっと締めつけられる心と、そらしたいのにそらせない瞳。頭をもたげて迫ってくる、私の初恋だ。
「久しぶり、ちぃ。」
もう嫌だ。どうして私はいつもこう・・。
もともと長い彼の『コンパス』が、一歩ずつこちらへと針を落とす。コツ、コツと革靴が鳴って、身動きの取れない私をどんどん追い詰めていく。どうしようもなく焦っていた。逃げなきゃいけないと分かっていた。このままじゃ籠の鳥になる。羽をもがれて捕まってしまう。流される、取り込まれる。それが手に取る様に分かっているのに、彼が近づくのを待っている自分もちゃんと居て、いい加減うんざりする。どうして今更。疑問を後押しするかの様に、靴下の中に隠された鎖も、ざらりと揺れた。
「お客様!」
その空気から救ってくれたのは、お兄ちゃんだった。いつの間にこっちへ来たのか、腕を組んで鋭く彼を睨んでいる。ただならぬ気配を察知したのは、きっと本能だろう。
「閉店です、お帰り下さい。」
お兄ちゃんはカウンターから、らしくもなく冷たい声音を吐き出した。
「聞こえませんでしたか?閉店だと申し上げたんですが。」
喧嘩腰の口調。けれどもそれは当然だ。コウ兄はこの人を、ずっといい様には思っていなかった。普段温厚なお兄ちゃんが、この人の前ではいつだって仏頂面で会話をしていたし、わざと私から遠ざける様な事も平気でやった。どうしてよりによってアイツなのかと、直接否定された事もあったほどだ。
重苦しい沈黙の後、彼が言った。
「構いませんよ?お店は締めて頂いて結構です。」
ちっとも変わらない不遜な笑み。確かにコウ兄に対して言ってるはずなのに、肝心のコウ兄には目もくれない。ただひたすらに、私だけを見下ろしてくる。その痛いぐらいの視線に囚われるだけで苦しいのに、今まで見た事無い、スーツにネクタイというすっかり大人の男然とした彼の格好に、私の脈は当然ながら早まっていた。傍から見ても分かる仕立ての良いスーツ。育ちの良さが滲み出ている、整った容姿。きっと今でも、モテるんだろう。もう関係は無いはずなのに、彼の前に立つと自然とあの頃の卑屈さが蘇ってくる。私を見てほくそ笑む、沢山の女性の影も。
「食事に来たわけじゃない。」
近付いてきた彼は私の頭に手を置くと、後頭部を優しく撫で、すーっと首筋へと下ろしていった。大きな掌がうなじに触れ、冷たい手が甘い痺れをもたらす。あっ・・と声が漏れそうになるのを、唇を噛んで必死に耐えた。私をよく知る、このいやらしい手が憎い。
「こちらの従業員さんに、用事があるんだ。」
もう一方の手で私の腕を引っ張ったかと思うと、そのまま抱えるように肩に手を回し、駆けだした。抵抗する間も与えないほどに強引に、店を飛び出す。コウ兄が呼び止める声は完全に無視して、店の前に停まっている車の助手席に私を押し込んだ。バタンっとドアが閉じられ、彼もすぐさま運転席に座り、エンジンを掛ける。
「行くよ、ちぃ。」
それを合図にアクセルを踏むと、体がぐっと後ろに引っ張られる様に加速した。颯爽と流れていく景色。この地に似つかわしくない轟音が風を切る。
ああ、何てついてない日だろう。私はただ慎ちゃんと、穏やかに過ごせればそれで良いのに。そう言えば今日の占い、最悪だったもん。ほんとに当たっちゃったよ。だって確か年上の人に振り回されるって、テレビでお姉さんが言ってた気がするし・・・・・・。
緊張と諦念の狭間をグラつきながら、車窓の風景をただ見つめた。そうでもしないと、自分が保てなくなりそうだった。だって私は、あの頃から少しも成長していないもの。
「黙って無いで、何か喋りなさい。」
ほらね、例えば彼が私を甘やかすだけで・・・・
「声が聞きたいんだよ。聞かせて、ちぃ。」
息すらまともに出来なくなってしまうのだから。