名門伯爵子息に見初められたので、ずっと私を縛ってきた幼馴染に「あなたのことがこの世で一番嫌い」と告げてみた
春の陽光が差し込む応接室で、シルヴィ・ローズマリー伯爵令嬢は静かに紅茶を飲んでいた。淡いピンクのドレスに身を包んだ彼女は、まるで絵画から抜け出したような上品さを醸し出している。しかし、その美しい顔には微かな憂いの影が差していた。
「シルヴィ、今日もまた一人で紅茶か?」
扉が勢いよく開かれ、金髪の青年が大股で入ってきた。
アーサー・ウィンチェスター。侯爵家の嫡男である。幼い頃から見慣れた顔だが、シルヴィの表情は一瞬硬くなった。
「アーサー様。ノックもなしに入られるのは、いかがなものかと」
「堅いことを言うな。俺たちの仲じゃないか」
アーサーは無遠慮に向かいの椅子に腰を下ろし、足を組んだ。その傲慢な態度は昔から変わらない。
「それで、今日は何の御用でしょうか」
「用がなければ会いに来てはいけないのか? 俺はお前のことを心配しているんだぜ。もう二十歳になったというのに、まだ婚約もしていない。お前の両親も心配しているはずだ」
シルヴィは内心で溜息をついた。この話はもう何度聞いたことだろう。
「アーサー様には関係のないことです」
「ふん」とアーサーは鼻で笑った。
「関係ないこともない。一応、お前とは長い付き合いだ。この慈悲深い俺がお前を嫁にもらってやってもいい。侯爵家の夫人になれば、お前の家格も上がるというものだ」
この瞬間、シルヴィの忍耐は限界に達した。しかし、彼女は生来の品位を失うことなく、冷静に答えた。
「お心遣いはありがたく存じますが、そのようなお申し出は遠慮させていただきます」
「何だと?」
アーサーの顔が赤くなった。
「俺の申し出を断るというのか?」
「はい。私にはもっと相応しい方との縁談があるかもしれませんから」
「相応しい? 俺以上に相応しい男がどこにいるというんだ?」
シルヴィは立ち上がり、窓の外を見た。庭園には美しい薔薇が咲き誇っている。
「アーサー様、私たちは幼い頃からの知り合いですが、それ以上でも以下でもありません。どうか、これ以上私に執着なさらないでください」
アーサーは一瞬、何か言い返そうとしたが、シルヴィの毅然とした態度に気圧されたのか、ばつの悪そうな表情を浮かべた。
「ふん、馬鹿な女だな。あとで懇願しても聞いてやるかわからないぞ」
そう吐き捨てると、彼は乱暴に椅子から立ち上がり、大股で部屋を出て行った。扉が勢いよく閉まる音が響く。
シルヴィは深く息を吐いた。ようやく一人になれた安堵感と疲労感が同時に押し寄せてくる。彼女は再び椅子に座り、冷めた紅茶を見つめた。
★
「シルヴィ、今、時間いいか?」
父であるローズマリー伯爵が書斎に娘を呼んだのは、アーサーの訪問から二日後のことだった。母も同席し、二人とも嬉しそうな表情を浮かべている。
「グレイソン伯爵家から正式な婚約の申し入れがあった。相手はクライン・マクダネル・グレイソン。知っているだろう?」
シルヴィは突然の知らせに、しばらく驚きで言葉を失った。
「先日の社交会で、あなたを深く敬愛するようになられたとのことよ」
呆然とするシルヴィに、母が優しく付け加えた。
グレイソン伯爵家は確かに名門中の名門だった。そして、シルヴィも社交会で彼と会話を交わした際、その誠実で知的な人柄に好感を抱いていた。
「私も……お会いした時、とても良い印象を持ちました」
「そうか。ならこの申し入れは受けていいな?」
「はい、ぜひっ」
それから数日後、シルヴィは初めてクラインからの手紙を受け取った。
美しい文字で書かれた文面からは、彼の真摯な人柄と、シルヴィへの深い敬意が感じられた。これまで男性から受け取った手紙の中で、これほど品位と温かさを兼ね備えたものはなかった。
そして、シルヴィの婚約の知らせは社交界に広まり、アーサーの耳にも届いた。
「何だと? シルヴィが婚約?」
アーサーは手にしたティーカップを床に叩きつけ、激昂した。
陶器の破片が四方に散らばる。
「相手はグレイソン伯爵の御子息だそうです」と、執事が恐る恐る報告する。
「グレイソン……あの堅物か……」
彼の脳裏に、幼い頃のシルヴィの笑顔が浮かんだ。いつも自分の隣にいた少女。当然のように自分のものになると思っていた。でも、その彼女が自分の手のひらから落ちていく。奪われていく焦燥が、アーサーを襲った。
「渡さない。シルヴィは、絶対に渡さない……」
翌日、アーサーは血相を変えてローズマリー伯爵邸を訪れた。執事の制止も聞かず、シルヴィの部屋へと向かう。
「シルヴィ!」
扉を荒々しく開けて入ってきたアーサーを見て、シルヴィは身を硬くした。彼女は刺繍をしていたが、針を持つ手が微かに震えている。
「アーサー様、何度も言ってますがお約束もなしに私の部屋に入るなんて……」
「んなことはどうでもいい、お前、俺を裏切ったな」
アーサーは部屋の中央に立ち、怒りに震えていた。
「裏切る? 一体何のことでしょうか」
「とぼけるな! グレイソンとかいう男と婚約したんだろ? 俺に何の相談もなしに!」
シルヴィは立ち上がり、冷静に答えた。
「私の結婚について、なぜあなたに相談しなければならないのですか?」
「なぜ、だと?」
アーサーの声が裏返った。
「そ、そんなのお前は俺のものだからだ! お前は俺と結婚するはずだったんだ!」
「私はあなたの所有物ではありません」
シルヴィの声には、これまでにない強い意志が込められていた。
「そして、一度たりともあなたと結婚したいと思ったことはありません」
アーサーは愕然とした。
「な、何だと?」
「これまで黙っていましたが、もう我慢の限界です」
瞳に光ったのは、悲しみではなく怒りの涙だった
「あなたがこれまで私にどんなことをしてきたか、覚えていらっしゃいますか?」
「俺が、何を?」
「七歳の時、私の大切にしていた人形を池に投げ込んだのはあなたでした」
シルヴィの声は震えていた。
「十歳の時、私がピアノの発表会で弾く予定だった楽譜を破いたのもあなた」
アーサーの顔が青ざめていく。
「十二歳の時、私が大切に育てていた薔薇の苗を引き抜いて踏みつけたのも。十四歳の時、私の初恋の相手に嘘を言って私を遠ざけたのも」
「それは俺は……お前が……」
「十六歳の時、私が友人と楽しく過ごしていると、必ず現れて台無しにした。十八歳の時、私を庇ってくれた紳士を不必要に傷つけた」
シルヴィの声は次第に大きくなっていく。
「そして今も。私が幸せになろうとすると必ず邪魔をする。私はもう、うんざりなのです」
「ま、待て、落ち着けシルヴィ。俺は、お前のことを……あ、あ、愛してるんだ!」
「愛している?」
シルヴィは冷笑した。
「私にしたことが愛ゆえだというのなら、私はあなたの愛など欲しくありません。あなたは私を愛しているのではない。ただ支配したいだけです」
アーサーは言葉を失った。
「この際なのではっきりと申し上げます。アーサー様、あなたはこの世で私が最も嫌う人物です。顔すら見たくありません」
「最も、嫌う……?」
アーサーは呟いた。
「はい、そうです。私の人生に金輪際関わらないでくれますか」
アーサーはその場に崩れ落ちた。絶望が彼の全身を包んでいる。
「シルヴィが俺を、嫌っている?」
「早く出て行ってください」
シルヴィは扉を指差した。
「二度と私の前に現れないで」
アーサーはふらつきながら立ち上がり、まるで亡霊のように部屋を出て行った。シルヴィは扉を閉めると、安堵の溜息をついた。長年の重荷が、ようやく取れた気がした。
シルヴィからの痛烈な拒絶を受けた後、アーサーは数日間自室に籠もっていた。しかし、絶望は次第に怒りと復讐心に変わっていく。
「俺をこの世で一番嫌いだと……? ふざけやがって」
彼は鏡に映る自分の顔を見つめた。
「舐めた口を聞いた罰だ。お前の幸せは俺が台無しにしてやる」
そう独り言を呟き、アーサーは陰湿な作戦に打って出た。まず、社交界の有力な夫人たちに近づき、シルヴィの悪評を流し始めた。
「シルヴィ・ローズマリーは計算高い女性ですのよ。家格目当てでグレイソン様に取り入ったのです」
「まあ、そうなのですか? あの清楚なお嬢様が……」
「見た目に騙されてはいけません。幼い頃から知っていますが、彼女は非常に野心的でした。今回の婚約も、彼女の策略に違いありません」
しかし、噂は思うように広がらなかった。シルヴィを長年知る人々は、アーサーの言葉を疑いの目で見ていた。むしろ、アーサー自身の評判が下がり始めた。
「大の男が、女性への逆恨みで中傷とは見苦しい」
「侯爵家の嫡男ともあろうお方が」
シルヴィは、周囲の人々からの同情と支持を集めていた。舞踏会やティーパーティーでも、彼女は以前にも増して堂々と振る舞い、その品位と知性を示した。
「シルヴィ様、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとうございます。とても良い方とのご縁をいただけて幸せです」
彼女の穏やかで誠実な態度は、アーサーの中傷とは正反対だった。人々は次第に、どちらが真実を語っているかを理解し始めた。
「あの噂は根も葉もないことだったのね」
「やはりウィンチェスター侯爵の嫉妬だったのでしょう」
アーサーの社交界での立場は日に日に悪化していった。かつて彼を持ち上げていた人々も、今では冷たい視線を送っている。
「もう我慢ならん」
アーサーは歯ぎしりした。
「直接話をつけてやる」
しかし、数日が過ぎても、アーサーはローズマリー伯爵邸を訪れることができずにいた。昼間に堂々と訪問する勇気が出ない。シルヴィの冷たい視線を思い出すたびに、足がすくんでしまうのだ。
「俺が怖気づいているというのか?」
自分の弱さに腹を立てながらも、アーサーは毎晩酒を飲んでは、シルヴィのことを考えていた。幼い頃の記憶が次々と蘇る。いつも自分の隣にいた少女。自分だけを見つめていた美しい瞳。
「あの頃は確かに、俺を見ていた……」
しかし、今のシルヴィの目には、自分への嫌悪しか映っていない。その現実を受け入れることができずにいた。
「くそっ」
その夜、月明かりが薄く差し込む中、アーサーはローズマリー伯爵邸の庭園に立っていた。正面玄関から堂々と訪問する自信はない。彼は庭園の裏口から、そっと屋敷に入った。
使用人たちは皆眠りについており、廊下は静寂に包まれている。アーサーは足音を殺しながら、応接室へと向かった。
応接室の扉をそっと開けると、そこにシルヴィの姿があった。深夜にも関わらず、彼女は窓辺に立ち、月光を浴びながら何かを考えているようだった。手には一通の手紙が握られている。
アーサーはしばらく、その横顔を見つめていた。月光に照らされたシルヴィは、まるで女神のように美しい。この美しい人が、自分を憎んでいるという事実が、胸を締め付ける。
「シルヴィ」
彼の声は、思ったよりも小さく震えていた。
振り返ったシルヴィの顔に、一瞬驚きが走った。しかし、すぐに冷静さを取り戻す。
「アーサー様……なぜこのような夜中に。それに、どうやって中に」
「話がある」
アーサーは一歩前に出た。
「大切な話だ」
シルヴィは彼を見つめていた。その視線には、もはや恐怖も怒りもない。ただ、疲れた諦めのような色が浮かんでいる。
「もうお話しすることは何もないはずです」
「そんなことはない」
アーサーの声が大きくなった。しかし、すぐに我に返り、声を落とす。
「まだだ、まだ間に合う」
「何がでしょうか」
「俺を選べ、シルヴィ」
アーサーは必死に言葉を紡いだ。
「グレイソンとの婚約なんて破棄して、俺と結婚してくれ」
シルヴィは静かに首を振った。
「それは不可能です」
「なぜだ? 家格なら侯爵家の方が上だろう? 財力だって」
「それは結婚の理由にはなりません」
「じゃあ何だ? 愛か?」
アーサーは自嘲的に笑った。
「お前はグレイソンを愛しているのか? まだ数回しか会っていない男を?」
シルヴィは少しの間、黙っていた。そして、静かに答えた。
「クライン様は、私を一人の人間として尊重してくださいます。私の意見を聞き、私の気持ちを大切にしてくださる」
「俺だって」
「あなたは違います」
シルヴィの声は、穏やかだが断固としていた。
「あなたは私を所有物としか見ていない」
アーサーは言葉に詰まった。否定しようとしたが、言葉が出てこない。
沈黙が続いた。アーサーは必死に言葉を探していた。何か、彼女の心を動かす言葉を。やがて彼は絞り出すように言った。
「俺は昔から、お前のことを──」
「あなたが私にしてきたこと、私は全て覚えています」
アーサーの顔が青ざめた。
「子供の頃から、あなたは私を支配しようとしていました。私が他の誰かと仲良くするのを許さず、私の大切なものを壊し、私の意志を無視し続けた」
シルヴィの声には、深い疲労が込められていた。
「そして今も同じです。私の幸せよりも、あなたの欲求を優先している」
アーサーは震えていた。反論しようとしたが、言葉が見つからない。彼女の言葉は、全て真実だった。
「せめて……」
やがて、アーサーは震え声で言った。声は今までにないほど弱々しい。
「せめて最後に、抱きしめさせてくれ」
シルヴィの表情が、僅かに変わった。
「お前を愛しているのは俺だけだ。本当に、心から愛しているのは──」
「やめてください」
シルヴィの声は、氷のように冷たかった。
「愛などという言葉で飾らないでください」
彼女はゆっくりと立ち上がった。そして、アーサーに背を向ける。
「あなたの手に触れられるくらいなら私は凍った湖に身を投げます」
アーサーは差し伸べかけた手は空しく宙に浮いたまま震えていた。
シルヴィの発言には重みがあって、冗談で言っているわけではないとわかった。
アーサーは下唇を強く噛み締める。
「少しは私の気持ちを分かってくださいますか」
シルヴィは振り返らずに言った。
「あなたに対する私の嫌悪は、それほど深いのです」
アーサーの膝がガクリと折れた。彼はその場に崩れ落ちる。
「シルヴィ。俺は、俺はただ……」
彼の声は、もはや嗚咽に近かった。
「俺はお前なしでどうやって生きていけば……」
「知りません」
シルヴィは扉に向かって歩き始めた。
「私はもう、あなたの人生に関わりたくありません」
「待ってくれ! シルヴィ! 頼む!」
しかし、シルヴィは立ち止まらなかった。扉の前で、最後の言葉を告げる。
「私は幸せになります」
彼女の声には、確固たる意志が込められていた。
「あなたのいない世界で、私は新しい人生を始めるのです」
「シルヴィ……!」
扉が静かに閉まった。アーサーは一人、暗い応接室に取り残された。彼の嗚咽だけが、静寂を破っていた。
翌朝、シルヴィは侍女に起こされた。
「お嬢様、グレイソン様からお手紙と花束が届いております」
「まあ……」
手紙を開くと、美しい文字でこう書かれていた。
『昨夜は月が美しく、自然とあなたのことを思い出しておりました。
あなたの微笑みを守り、幸せにできる日を心待ちにしています。
一日も早く、あなたを正式に妻として迎えたいと願っています。
心からの愛を込めて クライン』
シルヴィは手紙を胸に抱きしめた。昨夜の出来事が、まるで悪夢だったかのように感じられる。
窓の外では、庭の薔薇が朝日を浴びて美しく咲いている。
花束の中には、純白の薔薇が入っていた。それは、彼女の新しい門出を祝福しているかのように、美しく輝いていた。
★
六月の薔薇が最も美しく咲く季節、シルヴィの結婚式が執り行われた。教会は白い薔薇とカスミソウで飾られ、純白のウエディングドレスに身を包んだ花嫁は、まるで天使のように美しかった。
「愛するシルヴィ。あなたと出会えたことを神に感謝します」
「私もです、クライン様」
シルヴィの瞳には幸せの涙が光っていた。
式の最中、教会の外の木陰に一つの人影があった。アーサーだった。彼は遠くから結婚式の様子を見つめ、肩を落としている。
式が終わり、新夫婦が教会の階段を降りてくる時、シルヴィは一瞬アーサーの姿を認めた。しかし、彼女はもう同情することはなかった。彼女は夫の腕を取り、明るい未来へと歩みを進めた。
「後悔はありませんか?」と、クラインが優しく尋ねた。
「全くありません」
シルヴィは微笑んだ。
「私は今、心から幸せです」
馬車が走り去った後、アーサーは一人その場に立ち尽くしていた。
「シルヴィはずっと俺の隣にいるはずだった……」
しかし、それはもう叶わぬ夢だった。自らの傲慢さと愚かさが招いた結果に、彼は一生苦しむことになるだろう。幼い頃のシルヴィの笑顔、自分に向けられていた信頼の眼差し。それを全て自分の高慢な身勝手で壊してしまった。
「もし、もしあの時……」
しかし、もうどんな「もし」も手遅れだった。
一方、馬車の中でシルヴィは窓から外を眺めていた。夕日に染まる景色が美しい。
薔薇の花びらが風に舞い散る中、馬車は夕暮れの街道を走り続けていった。彼女の新しい人生に、もう影を落とすものは何もない。