10話 朝靄の一歩。労働も、悪くない
まだ陽が昇りきらないうちに、マルトは鶏の鳴き声で目を覚ました。
部屋の中は薄暗く、外の空気がわずかに冷たい風となって、わずかな隙間から吹き込んでくる。
あたりは静かだった。
村人の声もまだ聞こえない。
ただ、遠くで誰かが斧を振るう音が、コーン、コーンと規則正しく響いていた。
(あれは……ガルドさんか)
マルトは静かに体を起こし、ラナに借りた作業着に着替えた。
昨日の夕食の余韻がまだ心に残っていたが、今日はもう“村の一員としての朝”が始まっている。
食卓には、ラナが用意してくれた黒パンと干し果実が並んでいた。
「勝手に持っていって」と昨晩言われたとおりに、それを布に包み、口に運ぶ。
「……よし」
深く息を吸って、戸を開けると、朝靄に包まれた村の風景が広がっていた。森の手前、小屋の裏手にガルドはいた。
すでに何本もの薪が積み上がっており、その横に太い丸太がいくつも転がっている。
マルトが近づくと、ガルドはちらりと一瞥しただけで、何も言わず斧をふるい続けた。
コーン、と乾いた音が森の静けさに溶けていく。
それが何度か繰り返されたあと、ガルドは斧を置き、丸太の束を指さした。
「それを……運んでくれ。納屋まで」
短く、それだけを言うと、また自分の作業に戻る。
(よし、やるか)
マルトは深呼吸し、丸太に両腕を回した。
だが――
「うっ……!?」
思った以上に重い。
肩に担ぐことすらできず、ズルズルと引きずるような形になる。
(これを何往復もするのか……?)
額に汗がにじむ。納屋までは歩いて数分の距離。森の土道はごつごつしていて、足もとがおぼつかない。
一度、途中で手を滑らせて薪を落としてしまい、土埃が舞った。
それでも、ガルドは何も言わなかった。見てもいないようだった。
何往復かするうちに、マルトはふと思いついた。
(……そうだ、強化魔法)
使えるといっても、派手な魔法じゃない。
力をほんの少し底上げするだけの、地味でささやかな“強化”――けれど。
マルトは胸の内で小さく呟いた。
「《強化》……腕、肩、背中」
ほんの数秒、体がじんわりと温かくなる感覚が走る。
再び薪に手をかけると――先ほどよりも、わずかに軽く感じた。
(よし……いける)
今度は、丸太をしっかりと担いで運ぶ。
一度も落とさずに納屋までたどり着いた。
数本目の薪を運び終えたころ、ふと視線を感じて振り返ると、ガルドがこちらを見ていた。
何も言わず、ただ、頷いた――ほんのわずかに。
そのあと、少し間を置いて、口を開いた。
「……魔法は使えるんだな」
マルトは息を呑んだ。
確認するような低い声。
いつから気づいていたのか――。
「……はい。少しだけ、体を軽くする魔法です。力仕事のときに、ほんの……補助程度のやつで」
ガルドはしばらく黙っていた。
「いい魔法だ」
「それに、ただ力があるだけじゃ、こうは運べない。
……力の入れどころと抜きどころを知ってる。理屈で考えて動くやつだ」
マルトは一瞬きょとんとしたが、すぐに少し照れくさそうに笑った。
「前の世界で、そういうのばっかり考えてましたから……たぶん、癖です」
ガルドは目を細めるように薪を見つめ、低くうなずいた。
「……手先も器用なんだな。見ているとわかる。やり慣れてないはずなのに、丸太を崩さないように運んでる」
それだけ言うと、またいつものように斧を振るう音が森に響いた。
マルトは胸の奥が少し温かくなるのを感じながら、黙って次の丸太に手をかけた。
森の静けさの中で、マルトはふと思った。
――こういう時間の積み重ねが、信頼ってやつになるのかもしれない。
朝靄は少しずつ晴れていき、作業場にも柔らかな光が差し込み始めていた。
朝日が顔を出しきるまで、二人はことば少なに作業を続けた。




