9話 夫婦と少年の部屋
夕食を終え、ミナが満腹そうにあくびをした。
ラナが寝室に連れていき、やさしく毛布をかける。
やがて家の中が静かになった。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、部屋には三人分の温もりだけが残っている。
ラナは、ランプの芯を少し回して明かりを強くした。
「……静かね。ミナが寝ると、こんなに」
マルトは小さく笑った。
「そうですね。彼女、ほんとうに元気いっぱいです」
「ふふ、でしょ。……あの子は、強いのよ」
しばらく沈黙が続いたあと、ラナがふと楽しみを思い出したように言った。
「マルトくん、お酒飲む?」
マルトが少し驚いたように目を見開いた。
「子どもがお酒飲んでいいんですか?」
日本にいたときの感覚が反射的に出てしまう。
「マルトくん、いくつ?」
「え、あ……たぶん……十六です」
鏡で見た自分の顔立ちや体格を思い出しながら、少し曖昧に答える。
「なら、問題なし。十五で成人だから、飲んでいいのよ」
「じゃあ、少しいただきます」
「お、いけるクチかい?」
ラナが小瓶を持ってくる。琥珀色の液体が小さな木の盃に注がれる。
マルトは盃を手に取り、少し口をつけた。
喉に熱が通る感覚。けして強い酒ではないが、素朴な甘みと香ばしさが広がった。
「……けっこう、おいしいです」
「それ、私が町の薬屋で働いてた頃にお店の人がつくってた酒を真似たの。薬草入りで、あったまるのよ」
「ラナさん、お酒……強いんですか?」
「強いというか、好きなのよ。町にいたころは、仕事帰りによく飲んでたの」
にこっと笑いながら言うラナ。その横で、ガルドがわずかに眉をひそめる。
「……そういう奴を強いというんだ。初対面でいきなり肩を組んできたな」
「だって、まさか村の人が町に来てるなんて思わなかったんだもの。珍しかったのよ」
「……俺は、飲めない」
「そうそう、それが可笑しくてね。“このガタイで下戸!?”って、思わず笑ったのを覚えてるわ」
ラナの笑い声に、ガルドは少しだけ顔をそらしたが、目尻がかすかにゆるんでいた。
「……へえ」
マルトは、少しの驚きと二人のやり取りを楽しむ気持ちが混ざったような声をもらした。
少しお酒を飲みながら、ふと思った。
そういえば、村と町での関わりはあまりないのだろうか――そこで、気になって口を開く。
「村の人と町の人って、あんまり行き来がないんですか?」
「そうね。村に来てからは、ほとんど行かなくなったわ。この人も、大工の仕事ばっかり」
「昔は俺が村で作った作物や細工物を、町まで売りに行っていた。……そのときに夕飯を食ってたら、そこの酔っ払いに絡まれたわけだ」
「まだ、酔ってないわよ。ね?マルトくん」
「あ、はい……」
三人で静かに笑ったあと、小さな盃がまた傾けられる。
お酒の入ったラナがふと懐かしむように尋ねる。
「……ねえ、ガルド。最初にあなたと会ったの、もう何年前になるのかしら」
「十……五年……くらいか」
「そんなに経つのね。ここの暮らしも、長くなったわね。もうすぐ私の人生の半分かぁ」
ラナの声が少しだけ沈んだ。
そして、ひと呼吸置いて、ぽつりと続ける。
「あの空いてる部屋、あなたが泊まってる場所――あれ、もともとは息子が使ってたの」
マルトは思わず動きを止めた。
「……そう、だったんですね」
「ええ。生きていたら、あなたと同じくらいだったわ。……あの子は、ね」
ラナは火を見つめながら、静かに語る。
「数年前、この村を……魔物の群れが襲ったの。その中にとても凶悪な奴がいたの。しかも、ただの獣じゃない。異様に賢くて、執念深くて……」
そこで言葉が途切れる。
かわって、ガルドが低く呟いた。
「化け物だった。人を狙って殺す。……うちの子も、そのとき……」
「数年ごとに凶悪な魔物が現れる。あのときは、運よく気づくのが早かったから、町から冒険者を呼ぶことができた。……それでも」
ラナ少し声を震わせながら漏らした。
「殺されたのは、あの子だけじゃなかったわ。冒険者の人も、村の人も……何人も」
囲炉裏の音だけが部屋を満たす。
マルトは、何も言えなかった。
火を見つめるしかなかった。
あたたかなはずの光が、どこか胸に刺さるようだった。
しばらくして、ラナがやさしく笑った。
「だからね、今夜からあの部屋、遠慮しないで使って。あの子も……寂しくないと思うから」
ガルドも、火を見つめたまま頷いた。
「……きっと、そう思うだろうな」
マルトは、胸の奥に言葉にならない何かが込み上げてくるのを感じながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……大切なお部屋を、貸してくださって」