0話 もう一度、人生をやり直せるのなら
夜の街は、意外なほど静かだった。
自動ドアが閉まる音を背に、コンビニの袋を片手にぶら下げる。中身は、割引の弁当と、500mlのお茶。それが、今日の晩ごはん。
熊本太郎、三十八歳。派遣社員。独身。趣味、特になし。誕生日は来月だけど、祝ってくれる人間は特にいない。帰って動画サイトを見て寝るだけの毎日。まあ、そんなもんだ。
赤信号で足を止め、ぼんやりと夜空を見上げる。街灯の明かりに照らされたアスファルトの熱気が、ふわりと足元から立ち上る。
「……蒸すな、今日は」
そんな独り言を口にしたときだった。
――ビィィィーーーーーーーーー!!
鋭く、耳を裂くようなクラクションの音が、夜気を引き裂いた。
反射的に視線を向けた先――
小学校低学年くらいの女の子が、道路に飛び出していた。
そのすぐ後ろで、母親らしき女性が何かを叫んでいた。
言葉は聞き取れなかったが、声の色だけで伝わる。
クラクションに負けないほどの叫びだった。
気づいたときには、身体が動いていた。
何かを考える余裕なんてなかった。ただ、とにかく手を伸ばして、その子を突き飛ばした。
腕に伝わる、小さな身体の感触。
そして、鈍く重たい衝撃。
転がる視界。
冷たいアスファルト。
弁当の入った袋が、転がっていた。
遠くの方で、泣き声が聞こえた気がした。
思ったよりも痛みはなかった。
そのまま、すべてが遠ざかっていく。