第04話【元旦那、カーディス視点】
夜の帳が落ち、書斎には淡いランプの灯りが揺れていた。
カーディス・フォン・グレンデルは、酒瓶を片手に椅子へと無造作に腰を下ろし、ため息をついた。
酔いの残る頭が鈍く痛み、机の上に散らばる書類が視界の端でぼやける。
日々の退屈な政務報告、財務の帳簿、どれも彼には無意味な紙切れに過ぎなかった。
酒さえあれば、女さえいれば、それで十分だと信じて疑わなかった。
だが、その夜。何気なく紙束を押しのけた指先が、一枚の紙を引き出してしまった。
無造作に視界に映った文字列に、目が引き寄せられる。
──《離婚届》
それは、確かにエリナの整った筆跡。
思わず指が止まり、視線が紙に吸い寄せられる――署名欄には、確固たる意志を滲ませた彼女の名前が、淡いインクでしっかりと記されていた。
脳裏が白くなる。しばしの間、理解が追いつかず、ただ紙を眺めるばかりだった。
「……は? これは……何の冗談だ?」
かすれた声が漏れ、手にしたグラスが揺れ、中の酒が机に滴り落ちた。
息が荒くなる。思わず紙を何度も見直し、署名の一文字一文字を指先でなぞる。
そのたびに、胸の奥がじくりと痛んだ。だが、次の瞬間には苦笑がこぼれる。
「……まさか、あのエリナが……? そんなこと、あるはずがない」
あんなに大人しく、従順で、文句一つ言わなかった女が。
地味で、取り柄もなく、俺がいなければ何もできないと思っていた女が──自分を捨てて出て行く?
そんな馬鹿な話があるか、と心の中で笑い飛ばそうとした。
だが、その笑いは喉の奥で詰まり、思わず目を伏せた瞬間、ふと蘇る光景があった。
夜遅くまで机に向かい、帳簿を広げていた後ろ姿。
肩にかかる髪が揺れ、疲れを滲ませた横顔。
それでも諦めずにペンを走らせ、膝の上に積まれた書類を整理していた彼女の手元。
「……あれも、これも……」
声が掠れ、酒瓶が指先から滑り落ち、鈍い音を立てて床に転がった。
酒の香りが広がり、胸の奥でじわじわと焦りが芽生える。
だが、それを直視する勇気はまだ持てなかった。
「……戻ってくるさ。どうせ、俺が呼べばすぐに……俺の事、愛しているんだから……きっと――」
その言葉が、やけに空虚に響く。
胸の奥が冷たく、重く沈んでいく感覚。紙を握る手が、じわりと汗ばんだ。
▽
離婚届を見つけた夜から数日が経った。
しかし、カーディスの胸の奥に渦巻く苛立ちは、一向に収まる気配を見せなかった。
それどころか、日を追うごとに苛立ちは膨れ上がり、焦燥感と不安が喉元を締め付けるように広がっていった。
朝、目を覚ますと、隣にあるはずの温もりがないことに気づき、無意識に手を伸ばしても、そこには冷たく乾いたシーツしかない。
エリナの柔らかな髪の香りも、静かに寝息を立てていた気配も、何一つ残されていない。
普段なら香ばしいパンと紅茶の香りが漂うはずの朝食の気配もなく、館はしんと静まり返っている。
まるで時間そのものが凍りついたような錯覚さえ覚えた。
書斎へ向かうと、机の上には散乱した書類の山。
未処理の帳簿が雑然と積まれ、報告書には赤字で『確認要』と殴り書きされた箇所がいくつも残っている。
そんな光景を目にしても、カーディスは真正面から向き合おうとせず、胸の奥でざわめく不快感を見ないふりしていた。
だが、視線の端に未整理の箱が見え、それが今までエリナが一人で抱えていた重荷であることを思い知らされ、無意識に舌打ちが漏れる。
「おい! メイドはどこだ! 執事は何をしている!」
怒鳴り声が館中に響き渡り、壁に反響して返ってくる。
その声はかすれ、苛立ちに満ちていた。
しかし、返事はない。
使用人たちは目を合わせず、ただ視線を伏せて足早に立ち去るばかり。
誰一人、カーディスの命令に耳を傾けようとしないその空気が、苛立ちをさらに煽った。
廊下を歩く侍女を捕まえ、「エリナ様はどこだ」と問い詰めれば、怯えた顔で「存じません」と繰り返し、小さく身をすくめて距離を取る。
胸の奥にチリチリとした苛立ちが湧き上がり、思わず机の上のペン立てを払い落とした。
インクが床に広がり、黒い染みがじわりと広がっていく。
その様子が妙に胸に引っかかり、ますます苛立ちが募るばかりだった。
「……なんなんだ、あの女……!」
苛立ちはエリナだけでなく、全てのものに向けられていた。
使用人たちの無言の態度も、領主会議の招集状も、財務報告の数字も、すべてが敵意を持って自分を責め立てているように見える。
だが、心の奥底で分かっていた。
自分が何もしてこなかったことを。
女遊びに耽り、酒に溺れ、名ばかりの肩書きに安住していたことを。
あの日々を支えていたのは、他ならぬエリナだったということを。
「俺がやる必要なんてない……エリナが、勝手にやってただけだろう……」
絞り出すような呟きが、やけに空虚に響いた。
壁に吸い込まれるようにその言葉が消え、残されたのは静寂と、胸の奥でじくじくと疼く痛みだけだった。
『旦那様』
エリナの声が、聞こえたような気がしたが――そこには彼女の姿はない。
思い返せば、エリナはいつも黙々と机に向かい、細やかな文字で帳簿に数字を記し、指先にインクを滲ませながらも一心不乱に働いていた。
自分が夜会で女を侍らせている間も、館の灯りが消えるのは遅く、ふと窓の外を見上げれば、彼女の部屋の窓にだけ灯りが残っていた。
疲れているはずなのに、決して弱音を吐かなかった彼女の姿。
声をかければ微笑んで
『お疲れ様です、旦那様』
――そのように言ってくれた、あの小さな声が耳に蘇る。
(あの時、俺は何をしていた?)
心に刺さるような問いが浮かび上がり、喉の奥が詰まる感覚に襲われる。
だが、カーディスはそれを振り払うように頭を振り、酒瓶を強く握りしめた。
だが、その手は汗ばんで震えていた。
「……俺が呼べば、あいつは戻ってくる……そうだ、あんな女……俺の言葉ひとつで……!」
無理やり自分に言い聞かせるように吐き出した声は、かすれて震え、虚勢の薄い膜を張るばかりだった。
胸の奥で何かが軋む音がした。その音は、決して聞きたくない後悔の足音だった。
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