そもそも彼と会ったのは…
ここのところ、胃の調子が悪い。
夏の暑さで胃腸が弱っていたところに、暑気払いと称して職場の仲間と飲みに行ったのがまずかった。
放っておいては治りそうもなかったので、職場から三軒隣の建物の二階にあるクリニックに行くことにした。
職場の男性の先輩は、若いけど腕がいいからお薦めだと言う。
独身の女性の先輩は、お薦めだけど勧めたくないと言う。
何でですか、と訊いてみれば
「イケメンなので女性には勧めたくないのよ!」と宣った。
それでも、仕事中に中抜けして行くには都合のいい場所だ。
先輩には申し訳ないが、行ってみることにした。
私の今の職場は建築設計事務所。
三か月ほど前から勤めている。
所長も先輩方もはっきりモノを言うし、さっぱりしていて働きやすい。
特に建築設計の技能があるわけではない。
私の仕事は言われるままの資料整理や使いっ走りだ。
ただ、二十代半ばも過ぎている女性としては体力があるので、現場での伝令役として重宝されている。
暇があれば、現場の作業も手伝う。
事務所は、建物の二階と三階を使っている。
一階は本屋。
目の前の通りは商店街なので、一階が店舗として使われているものがほとんどだ。
三軒隣の一階はカフェ。
二階まで階段を上がって診療所の扉を開けた。
扉に付けられたベルがカランカランと音をたてる。
受け付けはなく、衝立とベンチがひとつ。
奥から男性の声が聞こえた。
「どうぞ、お入りください」
衝立の向こうには、机が一つと椅子が二脚。
ドクターキャビネットと書類棚、診察用の狭い寝台があった。
机での書き物を終えた医師が振り返った。
肩より長いストレートヘアを後ろでゆるく縛り、眼鏡をかけた理知的な雰囲気のイケメンだった。
柔らかな微笑みで患者に安心感を与えるタイプ。
ここの診療科目は主に内科。あとはちょっとした外科、だそうだ。
いわゆる町のお医者さんである。
患者の状態を知るためにはカウンセリングが重要と聞いたことがある。
ドクターのスマイルは患者の心に切り込むメスだ、とかなんとか。
「こんにちは。初めての方ですね。
私は医師のトーマスです。今日はどうされましたか?」
症状を説明して、いくつか問診を受けた。
「とりあえず三日分の胃の薬を出します。
症状が悪化するようなら、すぐに来てください。
そうでなければ薬を飲み終えた頃に、もう一度来てください」
「…お名前は、ジェシカさんですね。
こちら処方箋になります。お大事に」
その場で支払いをしてクリニックを出た。
クリニックのある建物の斜め向かいには薬屋がある。
店内にはハーブティーやポプリなども豊富に扱われていた。
店主はパッチワークのドレスの上にエプロンをした中年の女性。
年上の方に失礼かもしれないが、どことなく可愛らしい人だ。
処方箋を受け取ると「しばらくお待ちくださいね」と奥に入っていく。
ポプリのいい香りに癒されていると、戻ってきた店主がハーブティーのカップを差し出した。
「身体が温まるお茶です」
お礼を言って受け取った。
ベンチに座ってお茶を頂くと、ポプリの香りと相まって何だか森の中にいるみたいな気がした。
あんまり気持ちよくなったので、そのお茶とお薦めポプリもついでに買った。
職場に戻って皆にもハーブティーをふるまうと大好評だった。
次の診察日。
呼ばれて診察室に入り、椅子に腰かけた。
「その後いかがですか?」と訊かれ、先生の顔を見て思わず言っていた。
「先生こそ、どうかなさいましたか?」
医師の顔はゲッソリとやつれ、クマがひどい。
「あ、すみません。お見苦しいものを…」
いや、元がイケメンなので見苦しいと言うほどでは。
これ、言ってもいいのかな? と思いつつ…
「…どこか、具合でも悪いのですか?」
気まずい沈黙が降りた。
うん、言っちゃいけなかったよね。
素人が医師に対して、具合を訊くなんて非常識でしかない。
「すみません、素人がプロの心配をするなんて…」
「…………」
「出来れば忘れてください」
無理かな?
「…嬉しいです」
「え?」
「私の顔色を見ても、医師だからと心配してくれる方はあまりいなくて」
「ご家族は?」
「父は外科医なんですが『まだ死にそうもないから大丈夫!』とか、普通に言う人なんで…」
「それは、ちょっとひどくないですか?」
「でも、紛争地帯の最前線でメスを振り回しているような医者ですから、一理あるんです」
うん? そんなもんかしら?
「お母様は?」
「母は…ここの斜め向かいで薬屋をしています」
パッチワークドレスのマダムは、先生のお母様だったのか。
「処方薬も普通に作れるのですが、私に対しては『ゆっくり治そうね』と薄いハーブティーを日に何度も飲ませようとするんです」
うーん、両極端?
「まあ、私のメンタルが弱いのがいけないんですけどね。
そのせいか、外科医にはなれなかったし…」
医師 = エリート = 人生順風満帆、というわけではないらしい。
乗り掛かった舟だ。
「それで、顔色が悪い原因は何ですか?」
医師はしばしの逡巡の後、重い口を開いた。
「実は…最近、失恋しまして」
イケメン = 振られない、わけではないようだ。当たり前か。
「医大の同期に誘われた合コンで知り合った相手なんですが、どうも最重要条件がお金持ち、だったらしく…」
イケメンの先生は、男性と付き合い慣れた女の子にちょいと遊ばれたようですな。
「それは、お気の毒でしたね」
私がそう言うと、医師は伏せていた視線を上げた。
彼の表情がわずかに驚いたように見えたので、
「どうかなさいました?」と訊いた。
「…いや、なんかカウンセリング受けてるような感じで。
なんだか、少し気が軽くなりました」
それはようございました。
「すみません、診察の最中でした」
ちょっと焦った様子の医師に、私は微笑んでしまった。
胃の調子はすっかり良くなったことを伝えると
「では、今回は薬は出しません。
また調子が悪くなったらいらしてください」
会計を済ませ、お礼を言って帰ろうとすると思いがけず大きな声がした。
「あ、しまった!」
振り返って「なにか?」と訊けば
「次の予約が取れない」と言う。
それはそうだ。
そもそも私は患者なのだから、治ればもう来ない。
首を傾げていると
「いえ、もう少し、話を聞いてもらえたらな、と思いまして…」
ちょっと考えていた彼は
「何か、他に調子の悪いところはないですか?」
などと訊いてくる。
職業上の問題行為になったりしないのかな?
どう答えるべきか考えていると、扉のベルがカランカランと鳴った。
軽やかな足音は、迷わず診察室に入って来る。
「…あら? なにやら事件でも?」
のんびりとした口調で、やや物騒なことを言うのは彼の母親だと紹介された薬屋店主。
手にした水筒には、きっと彼のためのハーブティーが入っているのだろう。
短い説明で事態を把握した彼の母上は、にっこり笑って言った。
「話を聞いてもらうなら、クリニックじゃなくてもいいでしょ?
時間の都合がつくときにカフェにでも行ったら?」
彼は名案だ、と感心していた。
ベルがカラカラ鳴って、次の患者が来た。
連絡先はカルテにあるので、薬屋店主とクリニックを出る。
「お茶を一杯いかが?」と誘われ、薬屋にお邪魔することになった。
ホッとする味のハーブティーをいただいた。
このリラックス効果は、あの医師には効いてないのかな…
「単刀直入に訊くわね。恋人はいらっしゃるの?」
今はおりません、と答えると
「じゃあ、変な誤解をされる心配はなさそうね。
よければ、あの子の話を聞いてあげてもらえますか?」
と言われた。
「あの子は小さい時から父親に憧れていて。
前線で活躍する外科医になりたかったようだけど、優しすぎて無理だったの。
少し話を聞いてくれて、息抜きさせてくれるような友達もいなくて…」
カフェではスイーツも好きに注文して、支払いは息子に任せておけ、と仰る。
ならば、というわけではないが改めてお引き受けします、と返事をした。
薬屋を出る時『試供品よ』と言いながら紙袋いっぱいのハーブティーを渡された。
ここのハーブティーは店主手作りなので、少々お高い。
嬉しさのあまり、心を込めて彼の話を聞かねば、と思った。
恥ずかしながら、賄賂には弱いほうかも…




