彼女は哲学者になりたい
「死にたいな・・。トラパーで、エポケーで、アパシーだ・・。」
それが彼女の口癖だった。机に突っ伏して横を向いてそうつぶやく。
彼女の解説によると、それはただの無気力状態というもの以上を含むらしい。僕にはただ怠惰な自分を肯定しているだけなように思えるのだが。
「わかってないな。」
ぼさぼさの前髪を右側だけ耳にかけながら上体を起こす。
「自分を超えて色んな考え方のパターンが頭の中で議論を始めて何も判断できなくなって、無関心を装うことでしか最早自分を保つことができないという逆説的な現代のSNS的気分状況を言い表しているのに。」
また始まった。いつもこの調子だ。
「いいかい。人間も刺激に対して反応するだけの生物機械なんだ。私たちは自分が自分であると思っているけれども、それは誰かにそう思わされた自分であることに気づいていないんだ。人格っていうのは、刺激に対して反応するときの、考え方と感じ方のパターンの束のことでしかないんだ。君はこう反論するかもしれない。そのパターンを習得するにあたり、生来保有する志向性、欲望といってもいいだろう、その自由意志によって、少なくとも原初的にはパターンを選択するための志向性が働いた、とね。でもね、その志向性だって後から考えられたものにすぎないし、実際のところは生物学的な神経構造の個体差でしかないじゃないか。物理的な神経構造の異なりが、感じ方と考え方のパターンを原初的に形成する際に個体差を作り出し、一度形成されたパターンに整合的になるよう刺激と反応のパターンが蓄積されていく、というだけで十分だ。意志だとか欲望なんて物理現象は存在せず、フィクションとして作られたものを読み込んでいるだけなんだ。」
マショーの音楽が流れる教室の中で、空虚な言葉が飛び交う。
「わかったわかった、さぼってるんじゃないんだな。だがな、今はとりあえず、この問題を解け。」
「今、生きているということ以上の問題があるとでもー。」
「あーはいはい、もう哲学ごっこは終わりね。とりあえず、今、ここ、君、の問題は、まだ2学期だってのに、もう留年寸前ってことね。必要なのは実体より単位、物自体より単位です。フィクションの中でしか生きていくことができないのなら、よりよくフィクションを生きればいいじゃないか。死ぬまでの人生、楽しく生きないと。」
ふぁぁああ、という大きな欠伸が出る。
「君は本当に、全く、分かっていないな。君は、ほんとに、自分は死ぬことができる、とでも思っているのかい。自分、などというものが、固有の意味で存在していて、そして死ぬ、なんてことを、本気で信じているのかい。人は結局のところ、可能的存在でしかないんだ。存在してもいいし、しなくてもいい。世界、絶対的全体性としての、だよ、その世界にとっては、君という個体の存在なんてものは、存在しても、存在しなくても、どちらでも構わない、矛盾しない、ということなんだ。つまり、私が存在していたかどうか、ということを必然的に証明するなんて、できやしなし、存在していないものが死ぬことはできない。それを、わざわざ必然的存在としての実存、かけがえのない私、などといって、高邁な勘違いを喧伝するから、そこに憧憬が生まれて、苦痛と退屈の振り子は絶えることがないんだってば。商売としては無限ループを生み出せるから優秀だけど。」
彼女がこうも虚無的なのはその育ちが理由だろう。ごく普通の中流家庭に生まれ普通の生活ができるように育てられてきた。それはとても幸福なことに思えるのだが、思春期に差し掛かり芽生えた自意識にとって、この「普通」ほど邪魔なものはない。身の回りの全てに普通しかない彼女がこの自意識を処理する方法といえば、世界と自分を否定すること以外にはないのだろう。その最強の武器が虚無主義である。
「わかった、わかった。その可能的存在が可能的知性をフル回転させて生み出したところの数学という学問を学ぼうではないか。とりあえず因数分解してみよう、な。」
ようやく問題集に目を通しフラフラした目つきでノートにシャーペンを走らせ始めた。といってもぐるぐる円を描いているだけなのだが。
「・・・無理だ。できない。その試みは全て無駄だ。」
1分もたたない内にペンを投げ捨ててのけ反る。
「な、なんで。」
「つまり、たし算、とか、かけ算、といったもの、二項演算の成り立つ系がどうの、という知識が不足しているので、その正しさについての確証が持てない。限定的な知性の中でさらに特別優秀に作られてもいない私の知性では理解できない世界だからもうどうしようもない。だからもうこれ以上生きていても意味がないのだし、死にたいから安楽死させてほしい。安楽死がダメならせめてLSDを配布すべきだ。これは社会権だよ。自殺するより社会的費用が安くすむと思う。」
「またそうやって暴論を・・いや、そりゃ高校生活の一番最初の段階の授業に躓いちゃったのはお気の毒だけども、まだまだ始まったばっかりだし、これから挽回だってできるし、死にたいとか、ちょっと大袈裟すぎるでしょうに。」
すると彼女の目つきが変わり、一瞬の沈黙の後、すうっと大きく息を吸い込んで言った。
「・・・君は『死にたい』って言葉の意味を未だに理解してくれないんだね。もう一回、とーっても分かりやすく言うよ。死ぬためには少なくとも一度は存在していなければならないって、さっき言ったよね。存在するとは、必然的存在であり絶対的全体性ということだけど、可能的存在は、その限定的な理性からして絶対的全体性を認知する能力がそもそもない。私たちの理性は同一化能力であり、同一化能力は反照を含むから。つまり可能的存在にとっての存在とは相互認知でしかなくて、これを意味の場に現象すると言い換える人もいるけど、あと、えと、つまりね、いいかい、死ぬことができるためには、少なくとも一度くらいは存在できてなければいけないんだ、少なくとも、一度くらいは相互的に・・そうすれば、可能的には、、死ぬことだって・・。」
じっと真っすぐに見つめて語る彼女の瞳は真剣そのものだ。どうしてこう、よく分かりもしない概念を次から次へと並べてくるんだか。
「そうだな。その通り。能力に合った手順ってものがあるよな。因数分解にも解き方ってのがあってだな、群だ体だとか、そのへんが全く理解できない程度の知性能力でも、その手順を踏めばあら不思議、すらっと問題が解けてしまう、っていう便利ツールがあるんだよ。たすき掛け、っつってだな。」
「はあぁぁ・・。」
ついにため息が出て突っ伏してしまった。彼女はこうなってしまうと、もう何を言っても聞いてはくれない。あともう一歩だったと思うのだけど。
「また明日にするか。」と言って帰り支度を始めた。
学校を出て帰り道、終始無言の彼女が、俯き気味にぽつっと「哲学者になりたかったな。」とつぶやいた。
「これからでも、なればいいじゃないか。」と返したら、はにかんだような変な笑い顔を返してきた。
時は流れ、今はもう、彼女とは会えなくなってしまった。
暴走した自意識にとって、「普通」から逸脱するための手段は、人を殺すか、自分を殺す以外にない。
鈍い僕の感性は、こうなってしまってから、ようやく気付いたものだ。
僕があの時、彼女に教えるべきだったのは、因数分解じゃなかった。
時を遡ることができないことくらい分かっている。ただもう一度、彼女の「死にたいな。」を聞くことができれば。
今度こそは。