守りたいもの
耳が、重たい足音を拾った。
うなじに冷たい予感が走る。
「……!」
おれは振り返った。
そこには、黒い燕尾服を着た男が立っていた。
恰幅の良い体格に、整えられたヒゲ。そして、ぴかぴかに磨かれた金のステッキ。
レドアルド学園の校長、ゴルゾフだった。
「おやおや、大賢人さん。ご無沙汰しております」
白々しい挨拶に怖気が走る。
その手には、見覚えのある魔道書が携えられていた。
やはり、と歯がみする。
「いやはや、学園の威信を賭けた一大行事が、とんだことになりましたねぇ」
ゴルゾフは煉瓦造りの校舎を仰いだ。
「しかし、まったく、見事に再建したものだ。あのまま零落しておけばよかったものを。あの校長と同じ、本当に忌々しい学園だよ。まさに目の上のたんこぶでねぇ。そして、」
ステッキの先が、まっすぐおれに向けられた。
「君の存在は、特に目障りだ」
暗く、冷たい声だった。
「困るんだよ。堕ちた王者に返り咲いてもらってはね。老兵は潔くくたばってくれなくては……次の時代を担うのは我々だ」
おれは剣の柄に手を滑らせ――
ゴルゾフの手の中で、魔道書が怪しい光を帯びる。
「さがれ!」
生徒たちに叫ぶと同時に、黒い稲妻が空を裂いた。
魔道書から漆黒の霧が渦巻き、悪夢へと姿を変えていく。
木を飲み込み、校舎を越え、さらに天の高みへ。
現れたのは、空を覆う巨人だった。
不気味な一つ目が、ぎょろりとおれたちを捉える。
「あ、あ……」
誰かが掠れた声で呟いた。
「サイクロプス……!」
「そん、な……Sランクの魔物が……なんで……」
巨木のような足の向こうで、ゴルゾフが笑う。
「まったく、おとなしくしておけば、最小限の犠牲で済んだものを!」
耳障りな哄笑が、鼓膜を引っ掻いた。
「時代の変わり目に、犠牲はつきものだろう? 大賢人くん。申し訳ないが、次世代の礎になってくれたまえ」
『おお……おぉおぉお……』
サイクロプスがゆっくりと足を踏み出した。
中庭を覆った結界が軋み、破れ、かき消える。地鳴りのような轟音が地面を揺らす。
「……!」
声なき悲鳴が渦巻いた。
『ぉぉおおお……おぉお、ぉお……ぉ、ぉ……』
サイクロプスの握った棍棒が、ぎしぎしと獰猛に鳴く。
おれは静かに足を踏み出した。
「ケント先生……!?」
「ステラ、生徒たちを頼む」
「はい」
ステラは力強く頷いた。
巨大な影の前に歩み出るおれに、絶叫が追いすがる。
「だめ、ケント先生!」
「無理よ、あんな化け物……!」
悲鳴の中で、凜とした声が響いた。
「だいじょうぶ!」
おれをただ信じてくれる、一点の曇りもない、声。
「パパを信じて!」
ふっと唇が綻んだ。
天を覆う巨人と対峙し、剣を抜き放つ。
きらきらとおれを見つめるあの瞳がある限り、どんなデカブツだろうが、負けるわけにはいかない。
『お、お、お、お、お……』
巨人がゆっくりと腕を振り上げる。
おれは静かに腰を落とした。
剣を構え、ふー、と息を吐く。
大地にしっかりと足をつけると、巨人を見据えた。
「精霊よ!」
吠えると同時、刀身に炎が走る。
おれは渾身の力で、剣を振り抜いた。
「死にさらせええええええええええ!」
『おおおおおおおおお!』
風が渦巻く。
棍棒と剣が、正面からぶつかり――紅蓮の炎が、棍棒を切り裂いた。
「……!」
凄まじい衝撃に、息が詰まる。
炸裂した爆炎は、サイクロプスの手を裂き、腕を割り、肩まで走り抜けた。
『お、おおお、お、お……』
サイクロプスが、ぐらりと傾ぐ。
巨躯がバランスを崩し、ゆっくりと倒れてきた。
悲鳴が巻き起こる。
恐慌の中、おれは地面に手を突いた。
「とどめだ!」
大地が揺れ、轟音が轟く。
地面から盛り上がった土が、巨大な錐となって、狙い違わず巨人の心臓を貫いた。
『お……ぉ、おぉ……ぉぉ……―――――』
天を覆っていた巨躯が、泥人形のように崩れていく。
やがてそれは、黒い灰となって溶け消えた。
「あ、あ……」
中庭を、水を打ったような静寂が支配し――歓声が弾ける。
「やったぁ!」
「すごい、すごい!」
「う、うそ、うそみたい……サイクロプスを……うそ……」
ノアが、仰向けに倒れているゴルゾフに駆け寄る。
「生きてる!」
ゴルゾフは熱波を浴びたのか、髪からぷすぷすと煙を上げて気絶していた。その傍らには、黒焦げになった魔術書が投げ出されている。
どうやら一件落着だ。
額の汗を拭う。
と、
「ケントくん!」
「校長先生」
振り返ると、校長を先頭に、体育館にいた観客たちが走ってくるところだった。
校長は思いっきり加速したかと思うと、勢いよくおれに抱きついてきた。
「うわっ!?」
「ケントくん……! よくぞ、よくぞ未来の冒険者たちを守ってくれた……!」
その声は、涙に潤んでいた。
「ありがとう、ありがとう! きみは我が校の英雄だ! 救世主だ!」
「そんな、大袈裟な」
のしかかってくる全体重を支えながら苦笑する。
ふと裾を引っぱられて、視線を落とした。
「アシュリー?」
泥で汚れたその顔には、最高の笑顔が弾けていて。
「パパ、ありがとう!」
気付くと、教師や生徒たちが、おれを囲んでいた。
「先生、ありがとーっ!」
「あのね、すごく怖かったけど、ケント先生の声を聞いたら、勇気がでたよ!」
「マジで鬼かっこよかったんですケド!」
「大賢人、見たか!? 授業で習ったこと、実践できたぞ!」
集まった生徒たちを見渡す。
「……そうか」
胸に温かいものが溢れて、笑みがこぼれる。
この笑顔を守れたのだとしたら、これ以上の喜びはない。
「楽しかったねー!」
キャンプファイアーを囲んで、アシュリーがはしゃいだ声を上げる。
「そうだな」
「まさかサイクロプスがでてくるなんて、驚きましたねぇ」
「ケントって、できないことないの? 水鏡なんて、初めてみたよ」
「ぱぱ、かっこよかった……」
賑やかなおしゃべりに耳を傾けながら、おれは、銀砂を撒いたような星空を見上げた。
今日一日で、いろんなことがあった。
……いや、今日だけじゃない。
この世界にきて、アシュリーたちと出会って、教師になって。
初めてのことばかりで、不安もあったけど……――
「ねえ、パパ」
「ん?」
おれを見上げて、アシュリーが笑った。
「やっぱりパパは、世界一のパパだね!」
四対の双眸が、おれを見つめている。
その瞳には、揺るぐことのない信頼の光がたゆたっていた。
――すごいな、と思う。
アシュリーたちのまなざしは、いつだって純粋で、健やかで、希望に溢れていて。
どんな時でも、こんなおれを信じてくれる。まっすぐに、伸びやかに。
「…………」
心に、温かな光が灯る。
なぜ、おれがこの世界に転生したのか、分からないけれど。
もし許されるのなら、これからも、未来を担う子どもたちを、見守り、導いていきたい。
――この子たちが生きていくこの世界を、守りたい。
こんなに強い願いを抱くのは、初めてで――そして、そう思わせてくれたのは、紛れもなくこの子たちで。
「ありがとう」
口の中で小さく呟く。
返ってきた柔らかな笑顔に、笑い返した。




