惚れ薬パニック
「す、すみません、大丈夫ですか!?」
おれは煙が晴れるのを待たず、慌てて教頭に駆け寄った。
「…………」
いつもは怜悧な瞳が、ぼんやりとおれを見つめる。
「きょ、教頭先生……?」
桜色の唇が、小さく開き――
「オーナリー、先生……」
掠れた声で名を呼ぶなり、そっと身を寄せてきた。
「な、なななな、んな――――――っ!?」
生徒たちから黄色い悲鳴があがる。
「ちょっとあんた、なにやってんのよっ! 今すぐ離れなさいっ!」
「たいへん! きょうとうせんせーのようすがへんだよ!」
「み、みんな、見てはだめなのですーっ! 目を、目を閉じるのです――――っ!」
生徒たちの喧噪も意に介さず、教頭は潤んだ瞳でおれを見上げる。
「オーナリー先生……私、初めてお会いしたときから、あなたのこと……」
「待ちなさい! あ、あたしの方が、もっと前から好きだったんだからっ!」
「お、オレだって!」
「パパはあしゅりのパパだよーっ!」
大騒ぎする生徒をよそに、教頭はますます腕に絡み付く。
「ケント先生……今夜、私の部屋に来ていただけませんか?」
「い、いや、ちょっとそれは……」
整った顔が間近に迫ってどぎまぎする。
後ずさるおれに、教頭は甘えるようにしなだれかかった。
「どうか、私のものになって……夜ごとに大陸学に関する議論を戦わせたり、学生たちのカリキュラムを精査したりしましょう……?」
「あ、はい」
思わず頷いてしまった。
ココ先生の恋愛観っていったい……?
「たいへん! パパがきょうとうせんせいのものになっちゃうよ!」
「ちょっと、アレ、どうすれば解けるのよ!?」
「げ、解呪薬を使えば……! 錬金術の教科書に、作り方が載っているはずなのです!」
生徒たちが一斉に教科書を手に取る。
ページをめくる音が、バララララ! と嵐のように響いた。
「あった! 解呪薬! 二五八ページ!」
「材料そろってる!」
「新しい鍋、準備室から持ってくるね!」
事態が慌ただしく動き始める。
「パパ! いまおくすりつくるからね! まっててね!」
「おい、風雷花の粉、一グラム多いぞ! 正確に計れ!」
「三班! ゲッコウソウの乾燥急いで!」
みんな見たこともないほど真剣な顔をして、一丸となっている。マロニエールの指示をもとに、それぞれの役割を正確に分担し、無駄な動きが一切ない。
さっきまでほのぼのしてたのに、子どもの成長ってすごいな。
解呪薬を調合しながら、マロニエールがあわあわと謝る。
「も、申し訳ございませんケント先生、今しばしお待ちください……!」
「おれは大丈夫です。むしろ、材料をちゃんと確認しなかったおれのせいなので……」
教頭ががばっと顔を上げる。
「おれのせい!? いまおれのせいとおっしゃいました!? あなたにとって、私の存在は罰なのですか!?」
「あ、いや、おれがどうこうより、教頭先生に申し訳ないなって……」
「えっ、そんな……私のことを想って……? オーナリー先生、優しい……」
普段のクールキャラが駄々崩れだ。このままでは教頭先生の沽券どころか、教師生命に関わるのではないだろうか。
「ええと、教頭先生。薬が完成するまで、別の部屋に行ってましょうか」
「なぜですか、他人に見られたくないということですか!? そんなにも私との関係は隠しておきたい、恥ずべきものだというのですか!?」
なるほど、そうなるのか。
乙女心って繊細なんだな。
「じゃあ、このままここにいましょうか」
「え、そんな……私とあなたの蜜月が、生徒たちに見られてしまう……は、恥ずかしい……」
繊細を通り越して複雑怪奇だ。
教頭を腕に絡み付かせたまま、薬の完成を待つ。
……二の腕に指が食い込んで、けっこう痛い。コアラの飼育員って、こんな気持ちなのかな。
やがて解呪薬が完成したらしい。
「はい、パパ!」
渡された瓶を、教頭に差し出す。
「教頭先生、飲んでください」
「あの……オーナリー先生さえよろしかったら、口移しで飲ませていただけ――」
「飲んでください」
瓶を少しばかり強引に口に突っ込む。
そのまま上向かせると、教頭はおとなしく喉を鳴らした。
「は……」
切れ長の瞳が、ぼんやりとたゆたい――その頬に、みるみる朱がのぼった。
「あ、あ、あ……うああああああああああああああああ!」
絶叫を上げながらガタタターン! と立ち上がる。
「わ、私っ、私はっ、なん、何てっ、なん、なんてことを……っ!」
どうやら記憶は残っているらしい。
文字通り頭を抱えて悶絶する教頭をなだめる。
「あの、教頭先生。大丈夫ですから、薬のせいだって、みんな分かってます。ちゃんと忘れますから。な、みんな?」
尋ねると、子どもたちは温かい目でうなずいた。
なんていい子たちなんだ。
しかし、教頭は「ああ……ああああ~……」と手負いの獣のような呻きを漏らすばかり。
「ええと……マロニエール先生、あと、お願いします」
おれは廃人になりかけている教頭を連れて、錬金棟を出た。
「……申し訳ございませんでした」
「いえ。こちらこそ、巻き込んでしまって、すみませんでした」
錬金棟を出て、あてもなく中庭を歩く。
教頭は悄然と肩を落とし、縮こまっている。
「本当に、とんだご迷惑を……」
「いえ、迷惑だなんて、思ってませんよ。教頭先生の可愛い一面も知れましたし」
「っ……!」
教頭は耳まで赤くして固まってしまった。
しまった、こんな仕事のできる女性に、可愛いは失礼だったかな。
慌てて別の話題を探す。
「あと、えっと、あの……ありがとうございます」
「?」
教頭が不思議そうにおれを見る。
いい機会だから、ちゃんと告げなくては。
「おれのことはもちろん、ベアトリクスやローザのこと……目をつむっていただいて」
「……この学園の、新たな可能性になればと、そう思っただけです」
教頭は軽く息を吐くと、めがねを押し上げた。
「私こそ、今回のことは、お礼を申し上げましょう。この先、ご自分の裁量に限界を感じた時には、まずは私の元にくることです」
首を傾げていると、教頭は怒ったように眉を吊り上げた。
「何か困ったことがあれば、いつでも相談しろといっているのです!」
そういってそっぽを向いた教頭のうなじは、赤く染まっていて。
おれは思わず笑った。
「ありがとうございます」
「まあ、そんなことが」
礼拝堂の、小さなキッチン。
リルの毛並みをブラシで梳きながら、惚れ薬騒動を報告すると、ステラは喉を鳴らして笑った。
「それは大変でしたね」
「まあ結果的に、生徒たちが作った解呪薬も銀星祭に出せることになったし。一石二鳥だよ」
テーブルの上にある小さな瓶を、ステラが覗き込む。
「これが、その惚れ薬というわけですね」
「ああ」
ステラは調合の心得がある。
マロニエールから、配合や成分を詳しく調べてもらってほしいと依頼を受け、液体を瓶に詰めて持って帰ってきたのだ。
「エーテルを作るはずが、洞窟で採取したリョリョクソウの中にホンワカソウが混じっていて、惚れ薬になってしまった、と……」
ステラは首を傾げる。
「でも、変ですね。ホンワカソウは陽を好むので、洞窟には生息していないはずですが……」
「そうなのか?」
「はい。たしか、この本に……」
ステラが植物学の本を引っ張り出してきて、調べはじめる。
おれは天井を見上げて考え込んだ。
事前の調査で、洞窟に生えているリョリョクソウを確認したが、特に気になる点は見つからなかった。見落とした可能性ももちろんあるが……
もし、生徒たちの作った薬があのまま銀星祭で出回っていたら、大変なことになっていた。魔物が出てきた箱といい、いったい――
と、ノックの音がして、ノアが顔を出した。
「ケントいる?」
「あら、ノア、いらっしゃい」
「どうした?」
「あのね、今日の大陸学の授業で、分からないことがあったんだけど……」
と、テーブルに置いてある瓶を手に取る。
「なに、これ?」
「あっ!」
止める前に、ノアはきゅぽんと蓋を開けて、においをかいだ。
「いいにおいだね。香水?」
「ちょ、待っ、ノア、目を閉じて、そのまま動かないで……!」
「?」
ノアは怪訝そうにおれを見やり――なんの変化もない。
「あれ?」
効果が切れたのか?
呆けていると、本に目を落としたステラが「あら」と声を上げた。
「ホンワカソウで作った惚れ薬は、最初から好意を抱いている相手には、効果がないそうですよ」
「あ、そうなのか」
「え!? 惚れ薬なの、これ!?」
なるほどなぁ。ん、待てよ? じゃあノアが効かなかったのは……
視線をやると、ノアは勢いよく手を振り回した。
「こ、ここここ好意って、あれでしょ!? 家族愛、的な! 敬愛的な、そういうのも含めてってことでしょ!? ね!? ね!?」
「うーん、どうでしょうねぇ?」
「もー、ステラっ!」
二人を見ながら、「そうかぁ」と頬が緩んでしまう。
家族愛でも敬愛でも、嬉しいことだ。
じゃれ合うノアたちを見上げて、リルが楽しそうに吠えた。




