祈りを込めて
『ガァァアウ!』
「!?」
はっと振り向く。
ケルベロスが狂ったように左の頭を振りたくっている。その右目に、細剣が突き立っていた。
「や、やった……!」
ノアが歓喜の声を上げ――刹那、すさまじい咆哮が耳をつんざいた。
『ウオ、ォォォオオォォオオオ!』
「……!」
ケルベロスが上空へと舞い上がる。
『グルォォオオオオオ!』
赤い瞳がおれたちを睥睨する。
牙の間、黒い炎が逆巻いた。
おれはとっさに身構え――
「やめろーっ!」
悲痛な絶叫が緊張を切り裂いたと思うと、ベアトリクスが一直線に空を駆け、ケルベロスの首にしがみついた。
「ベアトリクス!?」
「あんた、何やってんのよ!?」
ローザの叫びに、ベアトリクスが吠える。
「あいつらは友達なんだっ! オレサマの、初めての友達なんだ!」
「……ッ!」
別の首が、ベアトリクスめがけて牙を剥いた。
『ガアアアアアア!』
「ベアトリクス!」
「ッ!」
魔術を放つより早く、ローザが矢のように飛び立った。
『グガァァアアアアッ!』
ベアトリクスに牙が食い込む寸前、黒い鞭がその首をからめとる。
「ローザ!?」
「……っ!」
ケルベロスは鞭をほどこうと、憤怒の唸りを上げながら頭を振りたてた。
「うわっ!」
ベアトリクスが振り落とされる。
落ちてきたベアトリクスを、すんでのところで抱き留めた。
狂ったように暴れるケルベロスを、ローザは黒い鞭で必死に抑えている。
「く……!」
「ローザ!」
悲鳴をあげるベアトリクスを、ステラに託す。
「ステラ、ベアトリクスを頼む!」
「はい!」
おれは風をまとって飛び立つと、上空のケルベロスに肉薄した。
中央の首が、ローザへと殺到し――
おれは歯を食いしばり、太い首めがけて剣を振りぬいた。
『ギャン!』
首が飛び、ローザを巻き込んで湖へ落ちていく。
「ローザ!」
水面に飲み込まれる直前、ローザがおれを見た。その瞳は、寄る辺ない子どもみたいに頼りなく揺れていて――
「ッ……!」
追おうとしたおれの耳を、咆哮が打つ。
『グオオオオオオオオオオオオオオオ!』
残ったふたつの頭、真っ赤な口蓋が開かれ、黒炎が渦巻いた。
「!」
手を合わせ、魔術を組み上げる。
おれとケルベロスが炎を放つのは同時だった。
黒炎と真紅の業火が龍のようにうねり、ぶつかり合う。
「く……!」
視界が熱に歪む。
凄まじい衝撃が巻き起こり、魔術が激しく消耗されていく。
こめかみに汗が伝った。
「パパ……!」
「ケントさん!」
アシュリーたちの声が聞こえる。
おれは奥歯をかみしめると、全身全霊で、ありったけの魔力を叩きつけた。
深紅の業火が膨れ上がる。
赤い奔流が黒炎を押し返し、ケルベロスを呑み込んだ。
『ガ、アアアアアアアア!』
おぞましい絶叫が響き渡り、やがて、炎が消える。
ケルベロスがいた空間には、何も残っていなかった。
「っは……!」
目に流れ込む流れる汗をぬぐって、湖を見遣る。
沈みゆこうとするローザの姿があった。
「ローザ!」
おれは迷わず飛び込んだ。
「パパ……!」
無我夢中で泳ぎ、ローザの腕をつかんだ。水中から引きずり上げる。
「ローザ、しっかりしろ!」
ローザは目を閉じたままぐったりしている。気を失っているようだ。
おれは冷たい身体を抱えると、岸に向かった。
「ケント!」
ノアの手を借りて、ローザを引っ張り上げる。
その口元に耳を寄せる。息をしていない。
「ローザっ!」
動かない身体に、ベアトリクスが縋りつく。
涙をためた目が、おれを見上げた。
「お、お願い、ローザを助けて……!」
「ああ」
おれはローザの横に膝をつくと、ローザの胸の真ん中に両手を置いた。体重をかけて何度も押し込む。
「ローザちゃん……!」
アシュリーたちも、冷たい手足をさすりはじめた。
リルが心配そうに吠える。
「はっ、はぁっ……!」
こめかみに汗が流れる。
マッサージを繰り返すが、青白い瞼は閉じられたまま、反応はない。
「ノア、代わってくれ!」
「う、うん!」
ノアに場所を譲り、ローザの呼吸を確かめる。やはり止まっている。
おれはローザの鼻をつまむと、顎をつかんで上向かせた。大きく息を吸い、唇を重ねる。
胸の動きを見ながら、息を吹き込む。
「っは……続けてくれ」
「わかった!」
「ローザ、ローザぁっ……!」
ベアトリクスの声が震えている。
誰もが必死だった。
祈りを込め、五度目に息を吹き込んだとき。




