ベアトリクス、再来
台所に、あまいにおいが漂う。
「さいごのマフィン、やけたよ~!」
「ねえ、このお皿って、もう洗っていいの?」
昼過ぎから取り掛かったお菓子づくりは、いよいよ終盤に入っていた。
「よいしょ、よいしょ」
皿いっぱいに並べたマフィンを運ぼうとしていたアシュリーが、つまづく。
「あっ!」
「おっ、と」
片手で皿を受け止め、もう一方の腕でアシュリーを支える。
アシュリーは目をぱちくりさせて、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、パパ!」
焼きたてのマフィンを並べて冷まし、かわいい紙袋に包む。
「いい色に焼けましたねぇ」
「おいしそう……」
穏やかな時が流れる。
おれはふと、黒毛玉の姿がないことに気づいた。
「あれ? リルはどこ行ったんだ?」
「え? さっきまでそこでうろうろしてたけど」
まったりとした空気を引き裂いたのは、甲高い悲鳴だった。
「˝み˝ぃぃい˝い˝い˝いいい˝い˝い!」
「なんだ!?」
手を止めて、一斉に飛び出す。
庭に出たおれたちが見たのは、全力疾走する少女と、それを追いかけているリルの姿だった。
「わん! わんわん!」
「にゃあああああ! くるなぁぁぁあああああ!」
「あれは……」
少女は泣きながら走ってきたかと思うと、おれのうしろに隠れた。
「わうわう!」
「ひいえええええええええ!」
「りる、だめ……」
元気に吠えるリルを、フィオが抱き上げる。
おれは、背中にしがみついて震えている少女を振り返った。
「久しぶりだな。べ、べ、ベリ、ベト……ベトリクアス」
「ベアトリクスだっ!」
少女が牙をむいて叫ぶ。
小さな角に黒い翼、鞭のようにしなるしっぽ。このベアトリクスという名前の少女は、見た目は小さいが、れっきとした魔族だ。ある事件をきっかけに、ちょくちょく遊びにくるようになった。
「今日はどうしたんだ?」
尋ねると、ベアトリクスははっと跳び退った。
「べ、別に遊びにきたわけじゃないからなっ! 今日こそ、キョーアクな大賢者の住処をめちゃめちゃにしてやろうと思って来たら、こいつが急にとびかかってきてっ……!」
「わん!」
「にゃあああああああああ!」
怯えまくるベアトリクスを見て、フィオが小首をかしげる。
「こわい?」
「こ、ここここここわくなんかねーしっ!」
フィオがそっとリルを差し出す。
リルはしっぽを振りながら、ベアトリクスの顔を舐めまわした。
ベアトリクスの黒いしっぽがぴーん! と天を向く。
「ぴいいいいいいいいいいいいいい! や、やめろーっ! 悪魔の犬めーっ!」
「おまえも悪魔だろう」
「悪魔じゃない、魔族だ!」
ベアトリクスは必死に押しのけようするが、リルはベアトリクスに向かって身を乗り出し、何か探すようにふんふんと鼻を鳴らしている。
「? 何か探してるみたいだね」
ベアトリクスがはっと鞄に手を入れた。
「あ、も、もしかして、これ……」
葉っぱの包みを取り出す。
ほどくと、中からは淡い金色をした果物が出てきた。
「わー、なにこれー!」
「きれい……」
「なんの実だろう、初めて見たよ」
「これ、どうしたんだ?」
「えと、その……この前、シオニギリ、つくってもらったから……」
この前、ベアトリクスと初めて会ったとき、おにぎりとみそ汁をごちそうしたのだ。
おれにとっては前世ぶりの、アシュリーたちにとっては初めての和食だった。
もちろん、ベアトリクスも初めてだったろう。
「お、恩を着せられっぱなしじゃ、気に食わないからなっ! 特別に、魔界の果物をもってきてやったんだぞ!」
「とてもおいしそうですね」
「ありがとうな、ベアトリクス」
「ふ、ふん」
ベアトリクスはぷいと顔を逸らしたが、その頬は嬉しそうに染まっていた。
「みんなでたべよー!」
庭の切り株に座って、果物を一斉に頬張る。
「ど、どうだ……?」
ベアトリクスが不安そうに尋ねる。
アシュリーは目をいっぱいに見開き、
「おいしー!」
「そ、そっか……!」
ベアトリクスがぱっと目を輝かせて、自分も果物にかぶりつく。
弾力のある果肉がはじけ、果汁がジュワリと広がった。甘くてみずみずしい。
「とってもフルーティーですね」
「なんていう果物なの?」
「ワプコルルペソだ!」
「……わ……わぷぷる……ぺ……」
「ふふん、こんなのも覚えられねーのかよ。ワコルプルペソだ」
「さっきと変わってないか?」
ベアトリクスの足元をうろついていたリルが、「くぅ~ん」と鼻を鳴らす。
「し、仕方ないな。おまえにもやるよ」
ベアトリクスが果肉をちぎって、おそるおそるリルの前に置く。
リルは嬉しそうに食べ始めた。
よほど気に入ったのか、あっという間にたいらげて、お礼のつもりかベアトリクスの顔を舐め回す。
「わう、わう!」
「ひいっ! く、くすぐった、ひっ! やめ、うぶぶぶぶ……!」
ベアトリクスはなすすべもなく硬直している。
「犬が苦手なのか?」
「あ、う、ケルベロスが……」
「ケルベロス?」
「あ、ディムタールさまの飼ってる犬なんだけど」
ディムタール。ベアトリクスの上司で、たしか、四天王の一人だといっていた。
「ディムタールさまの飼ってるケルベロスが、いっつも吠えてくるんだ。だから……」
「そうなんだ! でも、リルはこわくないよー!」
アシュリーはリルを抱き上げると、ベアトリクスに突き出した。
「ほら、なでなでしてみて!」
「わん!」
「ぅ、ぁぅ」
ベアトリクスは怯えていたが、やがておずおずと子犬の頭に手を伸ばした。
黒い耳がぴるっと動いて、手を引っ込める。
「ひいっ!」
一度はおじけづいたものの、覚悟を決めたらしく、そっと頭に触れた。
目が輝く。
「……ふわふわだ」
「わん!」
「ねっ、こわくないでしょ?」
「う、うん」
ベアトリクスは口元を緩めながらリルをなでていたが、はっと我に返って眉を吊り上げた。
「べ、別にもとから怖くなんかないぞ! オレサマの手にかかれば、こんな子犬ごときうぶぶぶ、うぶ、うぶぶぶぶ」
舐め回されてべちゃべちゃになった口元を、フィオが横から拭いている。
強がる姿がかわいくて思わず笑った、その時。
「ふうん。ずいぶん楽しそうね」
頭上から冷たい声が降ってきた。