社畜、死す
「……あ……?」
沈んでいた意識が、深海から引き上げられるようにして、ふっと浮かび上がる。
まぶたをほどく。
開いた視界に、一面の白が映り込んだ。
「……?」
気付くと、おれは見知らぬ空間に仰向けに寝ていた。
起き上がって、見渡す。
「……どこだ、ここ?」
何もない。
果てのない地平線、その先まで、どこまでも無機質な白が続いている。
ぼうっと座り込んでいると、突如として眼前に逆さまの顔が現れた。
「目が覚めたかい?」
「うぉっ!?」
驚きのあまり飛び退いて、振り向く。
いつの間に現れたのか、そこには艶やかな黒髪をひとつに結び、書類を抱えた人物が立っていた。
顔立ちが整いすぎていて、女性か男性か判然としない。糊の効いたスーツに身を包み、そして何の冗談か、背中に純白の羽根を背負っている。
「初めまして。私の名はラディエル。ようこそ、死後の世界へ」
「は、初めまして、おれは――って、死後!?」
ラディエルと名乗った人物は、表情ひとつ変えずに頷いた。
「正確には、輪廻の狭間だが」
「リンネノハザマ……」
まだ状況が飲み込めない。
ラディエルが書類をめくりながら尋ねる。
「大成賢人くんで間違いないか?」
「は、はい」
「突然だが、きみは死んだ」
「え」
「死因は過労死だ」
「過労、死……」
ぼんやりと立ち尽くす。
思い当たる節はあった。
過剰なノルマに、サービス残業の嵐。
大声で怒鳴り散らす上司に、仕事ができないふりをしてすべておれに押し付けて帰る後輩。
始発で出社して、終電で帰る毎日。
そんな日々が十年近く続いて、固形携帯食を詰め込んでいた食事も、ついにはゼリーしか受け付けなくなった。
そして、連勤記録を更新した二十三日目の深夜、人間ってけっこう丈夫なんだななんて思いながら、アパートの階段を昇りきったところまでは覚えている。
そうすると、ここは本当に死後の世界なのか。
ラディエルは書類を閉じると、痛ましげに眉をひそめた。
「きみは、あまりいい人生を送れなかったようだな」
「そうですね」
「すまない。君が前世でこんなにも不幸だったのは、こちらの手違いだ」
「手違い……」
「そこできみには、私の管轄する別の世界に、好きな条件で転移してもらうことになった」
「転移?」
「むろん、転生でも可能だ。君が望むなら、赤子からやり直すこともできる。
年齢も環境も容姿も才能も思うがまま、新しい世界に生まれ変わってもらう」
つまり、前世が不幸だった分、望む条件で第二の人生を始められるということだろうか?
ラディエルが両手を広げる。
「このラディエルの名にかけて、今度こそ希望に満ちあふれた人生を約束しよう。さあ、なんなりと言ってくれたまえ」
そのいかにも天使然とした姿を見るうちに、小さな呟きが、唇から転がり落ちていた。
「働きたくない」
「ん?」
「もう働きたくない」
ラディエルがうなずく。
「承知した。では一生遊んで暮らせるよう、広大な領地とそれに見合った地位、豪奢な屋敷、数多の召使い、そして莫大な財産を――」
「あ、あの、そういうのじゃなくて」
形のいい眉がぴくりと跳ね上がった。
「と、いうと?」
「たいそうな身分も、金もモノもいりません。
おれはただ、健康な肉体と、新しい世界についての必要最低限の知識、そして大自然に囲まれた、庭付きの小さな一軒家があれば、それでいいです。
そこで自給自足の隠遁生活を送りたい」
「そんなものでいいのか? 富も名誉も、思いのままなのだぞ」
「もう、あくせく生きるのに疲れたんです。
第二の人生では、ゆったりのんびり生きたい。
細々とでもいいから、一生誰にもわずらわされず、一人でのんびり静かに暮らしたい。
望みはそれだけです」
するとラディエルは真剣な顔で考え込んだ。
「……のんびり静かに、か」
「だから、容姿はこのままでいいです。
名前も。年齢は……せっかくなら、少し若くしてもらってもいいですか?
新しい世界でののんびりライフを、長く楽しみたいし」
「それは、もちろん可能だが……本当にいいのか?」
そう念を押されると、何か特別なお願いをしたほうがいいのかという気になってくる。
うーん、異世界でのんびり暮らすのに必要そうなもの……
「あ、そうだ。なんか、こう、野菜が育ちやすい能力とかがあったらいいな」
思えば家庭菜園に詳しいわけでもないし、自給自足生活を送る上で、そんなスキルがあったら便利だろう。
「なるほど。少し待っていてくれ」
ラディエルはそう言って、書類をめくり始めた。
「野菜を育てるスキル……野菜……これは違うし、これも……うーむ」
どうやら、ちょうどいいスキルが見つからないらしい。
考えてみれば、異世界に転生するのに『野菜をすくすく育てるスキルがほしい』なんて願う人、あんまりいなさそうだしな。
そもそもそんなスキル自体ないのかもしれない。悪いことしたかな。
が。
「ああ、これならいけそうだな」
ラディエルが書類を閉じた。
「安心してくれ、賢人くん。ぴったりのスキルが見つかった。
このラディエルが、のんびり静かなスローライフを約束しよう」
「ありがとうございます」
ラディエルが頷くと同時に、閉じられていた翼がぶわりと広がった。
純白の羽根が舞い散る。
「それでは、転移を開始する。目を閉じて、リラックスしてくれたまえ。よい異世界ライフを」
その言葉を最後に、瞼の裏が真っ白い光に染められた。