サイシツケ
楓がコマの足を拭いてやっている間、首をさすりながら開口一番、ネキは楓父に声をかけ、ヨレヨレの紙の束を渡した。
「そういやさ、またこの家に興味を持ってるヤツがいるんだよ」
「人間か?」
「そうだね、特に人外の気配はなかったけど。裏はまだとれてない」
渡された紙に目を細め、楓父はネキに向かって紙の束を投げつけた。
「こんなミミズがのたくっている文字など読めるか! 書き直せ」
「えぇ! これ以上キレイになんて書けないって」
慌てて紙を拾い集め、頬を膨らませながらぼやくネキ。
そのまま差し出された、先程よりも更にシワが増えた紙の束に、楓父は大きく舌打ちをする。
「楓ちゃん。もう一回だけ、この野良猫に文字を教えてあげてくれるかい?」
「一ヶ月前までは、ちゃんと出来てたけど……」
彼の手元をのぞきき込み、楓は凍りつくように動きを止めた。
楓は大きな目を細めて、ネキを見る。
なぜか胸を張り、腕を組んで褒めてもらいたそうな顔つきのネキ。
「ネキさん? これは、何?」
「何って。日本語さ! どうだい? 崩し書きって言うんだってさ」
誰に教わったかは、この際、問題ではない。
楓は強く目を閉じて、何かをやり過ごしていた。
そんな楓の頭を優しく撫でながら、楓父は申し訳なさそうに声をかける。
「楓ちゃん、二度手間になってしまって悪いね。私はこれを解読してくるから」
「ううん、いいの。頑張る」
今までの時間が全て、無駄。
そう顔に浮かべながら、楓は深くうなずいた。
それを健気な姿と受けた楓父は、強く抱きしめる。
「なんて良い子に育ってくれたんだ。楓ちゃんは、優しい子だね!」
「うん。ありがとう」
そっと楓から身を離した楓父は、ゆっくりとネキへと振り返った。
びくりと体を震わせ、叱られた小さな子供のように、ネキが肩をすくめる。
「ネキ。今度、楓ちゃんが教えた文字と違う事を書いた時は、命はないものと思え」
「い、命までかい!?」
「何か文句でもあるのか?」
渋々引き下がったネキを無視して、彼は暗い奥の自室へと消えた。
楓が置いたのだろう、コマのいつもいる場所に、バスローブが綺麗に広げられている。
小さく息を吐きながら、コマはその上で座り、いつでもネキに飛びかかれる姿勢で待機した。
「崩し書きの方が、カッコイーだろ? 書くスピードも早いしさ」
「誰にでも読める文字じゃないと、書く意味ないでしょ? 大体、ネキさんは自分で書いたアレ。読めるの?」
「……そりゃあ、読めるさ」
「本当ね? 今からパパに一枚貰ってくるから」
楓の言葉に、ネキはびくりと体を振るわせる。
それを半眼で見やり、楓は机を派手な音を立てて叩く。机に乗っていた一輪挿しが揺れ、赤いバラがくるりと回った。
「ネキさん。自分にも読めない物を、パパに渡したの?」
「……だって、教えて貰いながら書いたんだよ? 槙原様なら読めると思うじゃないさ」
「自分でも、読める文章を、書く!」
「……はい」
図体の大きな女が、小さく可憐な少女に叱りつけられていて、しかも負けている。
コマの苦笑が、ネキの耳にも届いた。
「野良犬が! 何、笑ってるんだい!」
「今、コマさんは関係ないでしょ。座って、今すぐ」
「……はい」
いつも静かなリビングが、とてもにぎやかなものとなっている。
女性の声だけが響いているせいか、華やかで明るい。ただ、内容だけは決して華やかではないが。
厳しい声が飛び交ってはいるが、いたって平和な光景に、コマはゆっくりと身を伏せた。
大きな顎を床につける寸前、異質な風が部屋に吹き荒れる、コマは毛を逆立て一足飛びに楓を庇うように飛びついた。
ネキも椅子を蹴倒して、厳しい表情で身構える。
瞬間、楓父の部屋から激しい爆音。
部屋の空気を全て吸い込むような暴風が、楓父の部屋へと向かう。
「パパ!」
コマに覆いかぶさられ、机に押し付けられている楓が、必死にコマをどかせようと身じろぐ。
「ネキ、代われ」
「嫌だね。槙原様の寵愛を受けるのは、あたしだよ!」
楓の細い首元に咬みついて動きを止めるわけにもいかず、狼の形態のまま押さえつけるのは、なかなかに難しいようだ。
ネキは、その様子を見て口の端を大きく持ち上げ、コマの耳に口を寄せた。
「イイ格好してるじゃないか。こっちはあたしに任せて、もっと楽しみなって」
「誰が、何を楽しむのだ?」
意外と近くから聞こえた男の声に、ネキは飛び上がる。
いつの間にか吹き荒れていた風は収まり、乱れた家具も元通りになっていた。
静まり返った部屋は、何事もなかったと主張している。
コマが押し付ける力を緩めると、楓は彼に駆け寄った。
「パパ、怪我はない?」
「大丈夫だよ、楓ちゃん。心配してくれて、ありがとう」
楓を抱きしめた楓父がネキへと向けた表情は、とてつもなく冷酷なものだった。
しかしゆっくりと笑顔を作り、楓から身を離す。
「楓ちゃん、部屋にいなさい」
「……うん」
奥歯を噛みしめた彼女に、楓父は片膝をついて視線を合わせ、楓の頬にそっと手を添えた。
「これは楓ちゃんのせいではないのだよ。大丈夫、安心しなさい」
「でも、私がいなかったら、絶対にこんな事起こらない」
「これは、ネキが持ち込んだ物のせいなのだよ。楓ちゃんのせいでは決してない」
小さくうなずいて、楓はコマの首輪をつかんで階段を上がった。
階上の柵越しに、楓はふと階下を見下ろした。
「パパ、ネキさんに酷い事しないでね」
「大丈夫だよ。楓ちゃん」
笑顔で手を振る楓父にうなずいて、部屋の扉を閉めた。
即座にネキへと向き直った楓父は、怯え竦んだネキの首へと右手を伸ばす。
「ネキ、お前に『仕込んだ』奴は誰だ」
「はあ? 何の話だい?」
「白を切るつもりか、洗脳されたか。どちらでも構わないが――」
楓父が指に力を入れると、瞬く間にネキの顔から血の気がひく。
その手から逃れようと、彼の腕に爪を立てようとするが、傷一つつかない。
「知らない! 仕込んだって……」
「お前に、文字を教えたのは誰だ」
「楓様だろ?」
もう少しだけ力を入れたが、ネキは『分からない』の一点張りだ。
泡を噴いて気絶した彼女を、音がしないよう静かに床に下ろす。
楓父は目についた一輪挿しからバラを取り、花びらを一枚手にした。
「さあ、自白の時間だ」
階下へおりてきたコマは、床にへばりつく形に戻っているバスローブに座る。
酷く恐ろしい表情で口を笑う形に歪ませた楓父に、見ない振りを決め込み、コマは背を向けて丸くなった。
以前、コマに酷い仕打ち――いや、シツケをした時と同じ表情だ。
関わっては、こちらにも火の粉が――いや、燃え盛る炎に放り込まれるのと、同じ事になる。
コマは力を込めて、目を閉じた。
彼は言った。ネキが持ち込んだ物のせいだ、と。
ならば、彼女には償う義務と責任がある。
例えそれが、自分の意思ではなかったのであろうとも。
背後から聞こえてくる、意識を取り戻した彼女の悲鳴に、コマは毛を逆立てて身震いをした。