来訪者
黒い扉が開かれ、すぐ横に座っていたコマは、中から頭を出した楓を静かに見つめる。
その視線をまっすぐに見つめ返し、彼女はいつもと変わらぬ笑顔を向けた。
コマは楓の様子を伺うが、愁いも怒りも彼女からは感じられない。むしろ柔らかくなった印象に、楓父との話し合いは、うまくいったのだろうと納得する。
「楓、オレは……」
「いいの。でも、一つだけ聞かせて?」
一変して固い表情で聞いてくる楓に、コマはうなずいた。
口を一文字に結んでから、楓も小さくうなずく。
「コマさんは、私を食べたいと思う?」
「……は?」
何を言われたのか、何度も繰り返し考えるが、質問の意図がつかめないコマ。
だが彼女が真剣に聞いてきたという事だけは分かる。
「楓を食べる意味が分からない」
「もし、意味があったら?」
更にたたみかけてきた楓に、コマは目を丸くする。しばらく視線を交わした後、小さく息を吐いた。
「オレは、楓を食べたいなどとは思わない。ってゆーか、楓はオレを食べたいのか?」
「え? だって、食べる理由がないし」
「理由があったら? オレを食べなくてはならない理由があれば、どうだ?」
考えもしなかったのだろう。驚きととまどいに、茶色の瞳が小さく揺らぐ。
目をそらさないコマに、楓も小さく息を吐いた。
「そっか……私も食べたくないよ。ごめんね? 変な事聞いて」
そっとコマの頭に手を置いて、嬉しそうに微笑した。
「寒い中、待たせちゃったね」
「大丈夫だ。オレには毛皮がある」
「じゃあタオル持ってくるから。コマさんは玄関で待っててね」
楓が大きく扉を開け、中に入ろうとしたコマの鋭い嗅覚が、人外の匂いを捉えた。
鼻で楓を家の中に押し込め、コマは全身を使い、外から扉を閉める。
中から騒ぐ声が聞こえたが、開けられない所を見ると、楓父が彼女を抑えてくれているのだろう。
コマは扉を背に、どんな角度から攻撃を仕掛けられてもいいように姿勢を低くした。
「あんた、誰だい? 見ない顔だね」
頭上からハスキーな女の声が聞こえ、コマは見上げるよりも早く、その場から跳び退いた。
家が振動で揺れるほどの轟音に、コマは瞬時に振り返り、砂埃の真ん中からゆらりと立ち上がる金髪の女に唸り声を上げる。
「出て行け!」
猫科特有のツリ目を大きく見開いた金髪女は顔を歪め、悲鳴をあげて門外に跳びすさった。
肩を怒らせた金髪女は、すらりとした長い足に履いているロングブーツの高いヒールを、苛立たしげに塀に打ち付けた。
黒のハイネックに、首回りにファーの付いている茶色の皮ジャケットを上からはおり、ショートパンツを身につけた、グラマラス迫力美人。そんな金髪女が獰猛な大型獣の唸り声を上げ、怒りに満ちた声で叫んだ。
「よくも、よくもこのあたしを追い出してくれたね! お前こそ、そこを出な!」
「何を……」
コマはここに来た当初の――いや、それ以上の重圧で全身を引きちぎられる激痛に堪えながら、彼女と同じく門外へ逃げた。
それでも家が真近にあるせいか、気持ちの悪さは否めない。
「さぁて、骨までしゃぶってやるから。覚悟しなよ」
「手加減してやるつもりはないが、立ち去れば追わない」
獲物を前に、舌なめずりをする金髪女は、コマの言葉に嘲笑した。
鋭い爪をコマに向け、牙を見せるように口の端を持ち上げた。
「甘いねぇ、あんた。獲物なんて狩って当然だろ? さぁ、あたしの糧になりな!」
「やめて!」
楓の声が響き渡る。
コマと金髪女は、楓を見る事なく、同時に叫んだ。
『楓! 出てくるな!』
そして、お互い訝しげに眉をひそめる。
二人の言葉など聞かず、駆け寄ろうとした楓の肩を楓父が抑えた。
そんな彼が、酷く冷淡な声をかけてくる。
「お前達は、楓ちゃんを呼び捨てにしたあげく、外に出すつもりか?」
「だけどさ、こいつが……」
「今、私は何と言った?」
「……わかったよ」
金髪女が不満を口にしたが、爪を人のソレと同じものに戻した。彼女なりに停戦の意思を示したのだろう。
いまだ臨戦態勢を解かないコマを、つまらなそうに青い瞳を細め、眺めてきた。
そして、もう一度コマに向けて声をかけてくる。
「それで? あんた誰よ」
「何故、名乗る必要がある」
「コマさんよ。私がこの間、拾ってきたの」
「楓!」
慌ててコマが楓を諫めると、楓父がいつの間にかコマの傍らに立ち、ゲンコツを落としてきた。
石頭をしているコマだが痛いものは痛い。目を細めて、痛みに耐えるコマを哀れむ瞳で見やりつつ、金髪女は楓父にノドを鳴らして擦り寄る。
「あたしがあんたに頼まれた仕事をちゃんとこなしてる間に、なんでこんな野良犬引っ張り込んでるのさ」
「お前とて、野良猫だろう。楓ちゃんに救われたのなら、責務を果たすのは当然だ」
楓父が右手で彼女の顔をつかみ、引き離す。
離された手をつかむのに失敗した金髪女は、つれない彼に猫目を光らせた。
「ちぇっ、相変わらずだねぇ」
「おかえりなさい、ネキさん。コマさんは新しい仲間だから、仲良くしてね?」
「はぁ? こいつとかい?」
門の中から声をかけ、にこやかにうなずいてくる楓に、ネキと呼ばれた金髪女は目を丸くした。
「二人とも、寒いでしょ? 早く中に入って」
「わかった」
「へぇ? 楓様、印象が変わったね。あんたのせいかい?」
敷地に踏み込みながら、ネキは面白そうにコマの頭やら背中やらをつつく。
時折、爪を立ててくる彼女を牽制するように牙を向けるが、返事をするでもなく押し黙る。
「ふん、まぁいいさ。あたしの狙いは、あの人だけだし」
「人外が興味を持つのは、楓様なんじゃないのか?」
「あの娘は、あたしのタイプじゃないのさ。それじゃ、やっぱりあんたも楓様狙いのクズかい?」
「違う」
振り返る事もなく即答するコマに、ネキは吹き出した。
「何が違うんだい? あんただって人外じゃないか」
「オレは、オレだ。見境なしに襲うバカと同じにするな」
「へぇ? あたしと似たような話するヤツなんて、初めて見たよ」
コマに興味が出たのか、更につつく回数を増やしてくるネキ。
無視を決め込んで歩みを早めると、楓が複雑な表情でコマとネキの掛け合いを扉の前から眺めている。
「コマさん、もうネキさんと仲良くなったんだね」
「仲良くなどない」
「そう? 楽しそうだけど? 良かったね、仲間が出来て」
楓が発した棘のある言葉に、コマは少しうろたえた。
仲が良いとは、どこを見て言うのだ。そう反論したかったが、無言で扉を開けられ、中に入るようにうながされると、言う機会を失ってしまった。
「初々しいねぇ。めんどくさいけど」
ネキは笑い、楓父の元にヒールの音を響かせる事なく駆け寄った。
足拭きマットの上で座り込んだコマが、気付かれないように嘆息したというのに、楓にくすりと笑われた。
「待ってて、タオル持ってくるから」
「すまない」
「いいの。私が飼い主なんだから」
その言葉を聞きつけたネキは、またしても盛大に吹き出した。
楓が不思議そうに首をかしげ、ネキに声をかける。
「何? 何かおかしかったかな。ネキさん」
「楓ちゃんが、おかしな事言うわけないじゃないか。大丈夫だよ。ネキの頭がおかしいのだ」
「そう?」
反対側に首をかしげた後、洗面所へと消える楓。
楓父が笑顔で対応し、彼の細い指で即座に首を後ろをつかまれたネキは、蒼白になって硬直している。
ネキは助けを乞うまなざしをコマに送った。しかしコマは目をそらす。
「精神的な恐怖と、肉体的な苦痛。どっちがいい」
「ごめんなさい、どっちもイヤです」
「……私は、どちらがいいのか聞いている」
タオルとブラシセットを抱え戻ってきた楓が、彼に向かって声をかけた。
「パパ。仲良しだよ?」
「……分かっているよ、楓ちゃん」
首を解放されたネキが、おそるおそる振り向くと、笑顔の彼の目は、雄弁に物語っていた。
『次はない』と。