追憶
「私は、本当の父親ではないのだよ」
楓父が最初に発したのは、この言葉だった。
白いソファに楓を浅く腰掛けさせ、楓父はまた片膝をつき、両手で楓の手を優しく包み込む。
楓は彼から一度目をそらし、少しためらってから、楓父に再度目を向けた。
「じゃあ、私は誰の子供なの? 私も――コマさんみたいに、人間じゃないの?」
「楓ちゃんは人間だよ。私が大切に想っていた女性の、ね」
「事故で亡くなったママは、人間?」
うなずく彼に、楓は静かに話の先を待つ。
楓父は目を伏せて、思案するように口を閉ざしていたが、やがてゆっくりと楓から手を離した。
「楓ちゃんの本当のパパとママは、人間なのだよ。だが――私は、違うのだ。コマと同じ種族ではないが、人間ではない」
ああ、やっぱり。という呟きを楓が洩らし、楓父は苦笑する。
気付かないはずがなかったのだ。彼女は、人間ではない者達をも等しく照らす光。
漠然とではあるだろうが、楓の中で『何かが違う』という事くらいは、感じ取れていたのだろう。
だからこそ。
彼を父親だと思っていたからこそ、楓は自分が人間ではないのではないかという疑問をぶつけてきたのだ。
楓は混乱して喚くわけでもなく、泣き叫ぶ事もなく、波紋すら立たない水面の様な瞳は、ただ彼を見据えていた。
「じゃあ、あなたは誰?」
「私は……いや、私の名は、彼女と共に消えた。今では誰でもないが、元は吸血鬼と呼ばれる種族だった」
「……だった? 今は違うの?」
姿勢を崩す事なく、楓父――いや、元吸血鬼は顔を曇らせた。
白いソファの上で、身じろぎ一つせず、楓は静かに先を待っている。
ほんの数秒の事が、長く重い。
彼は、重い口が開くのか確かめるように、ゆっくりと唇を動かした。
「楓ちゃんのママは、我々みたいな者達に、絶大なる力を与えられる『光』だった」
苦しそうな彼に、楓は自分の隣に座れるように、左に寄った。
しかし、彼は小さく横に首を振り、話を続ける。
「私はコマのように、彼女を護っていた。人間は儚い生き物だが、私には彼女が大切だった。ただの『光』として見ていた彼女を、私は深く愛してしまった。
だが、彼女の光を絶やさず、後世へと続けさせる為には、彼女は同族の者と命を育まなければならない。純粋で、彼女を受け入れられる、心の強さを持ち合わせた男を探すのも、私の仕事の内だった」
思い出しながら、スローテンポで語る彼は無表情だったが、黒く深い色の瞳は当時の状況を見ているかのように揺らいでいた。
更に紡ぐ言葉にも、感情を排している。
「彼女を突き放したのも、私だ。私は慣習から抜け出す事が出来なかった。彼女は徹――楓ちゃんの本当のパパと結婚し、命を育てた。その矢先に、襲われたのだ。
私は彼女を護るべく戦ったが、一つの油断によって、車は橋の下へ転落した。彼女を助け出した時、もう、長くはないと見て取れる彼女から、光に包まれている楓ちゃんを受け取った」
彼は眉間にシワを寄せ、楓から視線を外す。
そして声の調子を変える事なく、しっかりとした眼差しで楓を見つめ直した。
「どこまで聞きたい?」
強いその言葉の勢いに、楓は一瞬、息を呑む。
しかし、彼女はもう決めた事、と小さくうなずいた。
「……全部。細かい所まで、全部」
「そうか。ならば、先に言っておくよ? 楓ちゃんが今後、私をどう思おうとも、私は貴女から離れる事はない」
楓は、目の前にいる彼に、人ではないそれを見た。
心が震える。聞いてはいけないのではないかと、波紋が広がる。だが楓は、しっかりとうなずいていた。
彼は自分の中の何かを吐き出すように、深く息を吐き出し、話し始める。
「ハンドルをきったのは、彼女だった。操られた徹に襲われ、楓ちゃんを光で防護して……それでも最期の時に、彼女は私に向かって、笑いかけた。
――酷い言葉で傷つけ、突き放したはずの私を、彼女は許してくれていたんだ」
そして。と言った後の言葉が、続かない。
楓の背中に、ひやりとした感覚が伝う。膝に置いた手を、いつの間にか握り締めていた。
「……そして。彼女は、私に言った。
『私を、あなただけのものにしてほしい』と。最初に言った通り、彼女は『光』。我々の力を上げるには『光』を糧として、喰らう事。彼女はそれを望み、私は受け取った」
「じゃあ、ママを……」
「そうだ。私は彼女の血を奪い、事切れた彼女は吸血族の遺伝子が入り込んだ事で、灰となって散った」
彼は苦しそうな表情で、痛みを押さえるかのように胸に手をあて、白いシャツを強くつかんだ。
楓も息苦しさに喘ぎながら、震える声を押し出す。
「だって、吸血鬼が血を吸ったら、ママも吸血鬼になるんじゃないの? 本にあったよ? あれは嘘?」
「私も、それを望んだ。彼女には、どんな形であれ生きていて欲しかったからね。命の灯が残っているうちに、私の全てを傷口から流し込んだ。人間を吸血族にするのは、禁忌なのだが、その時の私には関係なかったのだ。
だが、彼女は消えた。『光』だったから、吸血化しなかったのかは、分からない」
ひたと彼女を見つめ、最後にと付け加える。
「楓ちゃんは彼女の血を継いだ、我々の『光』なのだ。私には楓ちゃんを護り、後世へと繋げる義務がある」
彼は、終わりだとばかりに口を閉じた。
何から言えばいいのか、何と言ったらいいのか、楓には判断がつかない。
静かに立ち上がった彼に、楓は小さく肩をすくめてしまった。
それを見逃さなかった彼だが、何も言わず目を伏せ背を向ける。
一階にある、奥の暗い部屋へと足を踏み出すと、楓は小さいがしっかりした声で呼び止めた。
「パパ!」
「……まだ、私をパパと呼んでくれるのかい?」
抑揚のない声が、楓の心に深く刺さる。
感情のないそれに、とてつもない絶望を感じ、楓は一瞬言葉をつまらせた。
しかし振り払うように頭を振って、楓は自分を奮い立たせる。
「だってパパは、パパだもの。私の家族は、パパとコマさんだけ」
彼がゆっくりと楓の方へと振り返った。
静かに彼と対峙する楓も、ソファから立ち上がった。
「私は彼女を喰い、力を得た。どんなモノよりも強い力を」
「私を護る為に?」
「違う、私の為にだ。彼女と生きたかったが為だけに、私は――」
楓は動け、動けと足を叱咤する。
きつく目を閉じた彼の胴に細い腕を回して、楓は強く抱きしめた。
「あなたはパパだよ。ここにいて? 私のそばにいて。お願い、ママの為でいいから」
「――楓ちゃん、ずっと黙っていて悪かったね」
「ううん。だってきっと、パパが一番苦しい思いをしていたんだもん。ごめんね? 私、気付かなくて。あなたの子供じゃなくて。ごめんなさい」
顔を上げずに、それでも抱きしめてくれるのを、楓は待った。
いつもみたいにとはいかないが、震える手が楓の頭に、優しく触れる。
「大好きだからね、パパ」
「ありがとう、楓ちゃん」
部屋には、ただ静寂が横たわっている。
ひやりと感じた空気も、今では温かい。
楓が冬特有の冷えた空気にくしゃみをして、二人が我に返るまで、親子である事を噛みしめ、確かめ合うかのように、ただ静かに抱きしめ合っていた。