真実の追究
楓父が戻ってくるまでの間、楓はコマが本当に怪我をしていないか、確認していた。
顔を両手で挟んで上を向かせ、アゴから胸、前足も一本ずつ持ち上げては手で触って調べる。
背中をなで、後ろ足も前足と同様にコマに協力してもらう。
しかし腹を確認しようとすると、コマは頑として断った。
どんなに心配だから、確認するだけだから。と楓が言っても、首を横に振り伏せたまま動かない。
「どうしてなの?」
と聞いても、コマは困った目で楓を見つめ、口の端を苦笑するように持ち上げた。
「どうしてもだ」
「怪我、してるのね?」
「いや、していない」
埒が明かない。と、楓は小さく息を吐き出した。
「心配なの」
「大丈夫だ」
押しても引いても転がってくれないコマ。
なかなか引き下がろうとしない楓に、コマは深く息を吐き、言葉を続けた。
「ってゆーか、楓は背中に怪我をしたら、背中をつけて寝られるのか?」
「……寝られないと、思うけど」
楓の言葉に、コマはうなずく。
それでもまだ釈然としていない楓に、コマは言葉を付け加えた。
「そうだろう? 怪我をしていれば、オレだって伏せのままではいられないさ」
そっと立ち上がり、腹をつけていた床を、鼻で指し示す。
血の痕跡はない。楓はやっとうなずいて、黒い扉を見つめた。
「パパは、平気かな」
「槙原様を傷つけられる奴は、そうそういないだろう」
その言葉に、楓は勢いよくコマへと振り返り、怒りの表情で指を突きつける。
「パパだって、生きてるの! 生きてる者は誰だって傷つくんだから、滅多な事、言わないで」
「そうか、悪かった」
コマは座ったまま、楓を見つめる。力強く鼻を指さしたが、楓は表情を歪ませてコマの首にすがり、抱きしめた。
「そうだよ。生きてる者は、誰だって傷つくの。今の人達の事だって、何でかは分からないけど、私のせいだって分かってる。でも、パパは私に何も教えてくれない」
楓が話すのを、コマは身動き一つせず、静かに聞いている。
コマの表情は、楓からは見えない。もちろん、コマにとっても同じことだが。
「コマさんが、私を助けてくれる理由って何?」
「……分からない」
楓が体を離し、コマを正面から見据える。
コマも目をそらさなかった。
「パパに口止めされてるの? 理由も言っちゃダメなの?」
「いや、そうじゃない。何と言っていいのか……感覚的な物だ。楓だからこそ、助けなければと思う。今まで生きてきた中で、他の人間には少しも思わなかった事だ」
コマは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「だが、どうして楓なのかと聞かれても、分からないとしか言えない」
楓の身が危険だと思えば、獣の血がたぎる。それも暴走しかねないほどに。
そんな力の奔流が、どうして生まれるのか、コマ自身が動揺している部分もあった。
楓は瞳をかげらせて、うつむく。
結局は、誰も教えてくれない。分かっている事は、楓父やコマが傷付くかもしれない状況に、全て自分が関わっているという事実だけ。
「楓?」
いつまでも顔を上げない楓に、コマは訝しげな声を出した。
「ありがとう、聞かせてくれて」
楓が顔を上げ、表情のない顔で、ただ口を動かす。
コマは息を呑んだ。出会った頃の表情が、コマの頭をよぎった。
無表情で、喜怒哀楽を示す事のなかった少女。
ここ一週間で、その姿は劇的な変化を遂げていた。獣の姿のコマ相手に、怒ったり笑ったり。最初は、顔の筋肉がないのかと思うほど、表情を表さなかった。恐ろしいほどに能面な顔。
コマが言葉を発するよりも先に、黒い扉が開かれた。
「ただいま、楓ちゃん!」
「おかえりなさい、パパ」
満面の笑顔で楓父が飛び込み、正面にいた楓を抱きしめる。
いつものように、されるがままになっている楓。
しかしコマの様子に、楓父は抱きしめる力を弱め、眉をひそめた。
「どうしたんだい? 楓ちゃん、まさか怪我でもしたのかい?」
楓は首を横に振って、両手で楓父の胸を押す。
「パパ、教えてほしいの。どうしてパパとコマさんが、危ない目に遭わなきゃいけないの?」
怒りも愁いも感じられない、暗い瞳を二人に向ける。
楓父は、楓を少しだけ自分から離し、茶色の瞳と視線を合わせた。
「楓ちゃん、私達からしてみれば、あんな事は危ない内に入らないんだよ」
「危ないよ! 前から思ってた。私の周りにばかり、あんな事が起こるの」
楓は静かな声で言い、その表情は複雑さを増している。
次の言葉を待ちながら、楓父は視線を外さない。
行き着いた楓の表情は、やはり無表情に近いものだった。
「私がいなければ、あんな事起きないの。パパやコマさんだって、わざわざ私なんかを守る事ない」
「違うよ、楓ちゃん。コマはどうだか知らないが、あれは私の仕事なんだ。楓ちゃんを巻き込んでしまって、悪かったね。怖かったろう?」
「そう。そうやってごまかすの」
楓の顔には、はっきりと怒りの表情が浮かんでいた。
「初めて外に出た時に襲ってきた、ドロドロした黒いのが言った言葉、覚えてるの」
茶色の瞳は、まっすぐ突き刺すように楓父を見つめている。
「聞き取りにくかったけど覚えてる。すぐに灰になったけど、確かに言ってた。『光がここにいた。この小娘を食えば、格が上がるぞ』って、どういう事なの? パパ、教えてよ」
光溢れる玄関口に、重く張り詰めた雰囲気が覆う。
「……わかった、コマは外に出ていろ」
「いいの、コマさん。ここにいて」
楓父の言葉に、立ち上がるコマ。それを楓が止める。
さすがに眉間にシワを寄せ、楓父が扉を開けた。コマは楓父に従い、足を向けた。
「ダメだ。コマは知らない方がいい話だ」
「そうやって、今度はコマさんを排除するの? 私にしたように」
楓が首輪をつかんだ為、コマは彼女を引きずるわけにもいかず、立ち止まる。
自分の手を振りほどいて出て行くかと思っていた楓は、コマを見て、また顔を上げた。
「コマさんを追い出したって、後から私が言うもん」
「そうか、ならばいてもいなくても、変わりないだろう? 話を聞いてから、コマに言うか決めればいい」
いつもの甘やかす声ではなく、有無を言わせない厳しい声で、再度告げられる。
「コマ、外に出ろ。しばらく誰も寄せるな」
コマはゆっくりと歩を進め、楓も逆らえずに首輪から手を離し、間違った事を言ってないと示す為に胸を張った。
扉が閉められ、静まり返った玄関口で、二人は見つめ合う。
一向に目をそらさない楓に、彼は小さく息を吐いた。
楓がここまで自分を主張するのは、初めての事だ。殻に閉じこもり、何も見ず興味すら示さなかった彼女が今、楓父に立ち向かっている事実。
不満ながらも、コマの存在が大きい事は、承知せざるを得ない。
それでも彼女の変化の喜びを微笑に乗せ、傍に寄り、片膝をついて彼女の左手を取った。
突然かしずいた楓父に、楓は驚きを隠せない。
「パパ?」
おそるおそる顔をのぞき込んでくる楓に、彼は、静かに口を開いた。
「楓ちゃんが心から知りたい。そう思っていたら話そうと思っていたのだよ。まだ早い気もするが、話してあげよう。その後の事は……好きにしたらいい」
オニキスの様な黒い瞳に見つめられ、楓はただうなずく。
黒い瞳が愁いを帯び、楓父はそれを隠そうとするかのようにしばらく目を閉じ、次に開いた時には、真剣な強い眼差しに変わっていた。




