使命として(2)
「楓、コートをくれ」
三人の学生達が近付く気配に、コマは傍でゆっくりと歩く楓に低い声で囁いた。
楓はうなずいてカバンから黒いロングコートを出して、コマにかぶせてやる。
「コマさん、寒くなったの? それとも……」
楓が言葉を続けようとした時、男達が笑いを含んだ声をかけてきた。
振り向いた楓の茶色の瞳に、鈍く光る長い棒が映る。
「……え?」
実際は勢い良く振り下ろされたのであろうそれが、楓の目にはスローモーションに見えた。
体は硬直してしまったように動かせない。
極度の緊張の為か周囲の音が遠ざかり、悲鳴をあげる余裕もない。目を閉じるだけで精一杯だった。
しかし、来るべき衝撃は一向になく、代わりに目を閉じても感じる、光を遮って出来た暗さに、楓はそっと目をあける。
目の前には黒いロングコートの大きな背中。
それを見た時、楓は心からの安堵を覚え、今更ながらに震え出した。
「楓、もう少しだけ、目と耳を塞いでいろ」
コマの落ち着いた言葉に、返事を返そうとしたが、引きつる喉が言う事を聞かない。震える手で、目の前にあるコートを少し引っ張るに留まった。
「大丈夫だ、すぐに終わる」
優しい声に楓はコートから手を離して、震えを止めるように両手に力を込めて耳を塞ぎ、目を閉じた。
コマは振り返る事なく、彼女の気配でそれを察し、男達へも意識を向ける。
相手は三人。坊主頭、茶髪に黒。
くだらない連中の自分を見る目が、表情が。今まで出会って来た人間と変わらず同じモノで、思わず笑い出しそうになるのをコマは堪えた。
こいつらにくれてやるのは嘲笑ではなく、獣としての鉄則だ。
他人を傷つける行為は、その場で咬殺されても自業自得。
コマは心の中で呟き、血がたぎるのを感じた。獣の血が騒ぐ。
沸き起こる衝動を抑え、坊主頭の男が振り下ろした鉄の棒を強く握りしめるコマ。
押しても引いてもびくともしない事に、坊主頭の男は顔に恐怖の文字を浮かべた。そんな力のある者に、武器を取られるわけにもいかず、坊主頭の男は冷や汗を流しつつも、離す事が出来ない。
しかし、怒りを纏ったコマに、一番近いのも彼。残りの二人も助けるどころか、驚愕の表情を浮かべ、尻込みしている。
「……な、なんだよ。こいつ」
一連のコマの変身を見ていた彼らは、蒼白となり怖気づく。
「見ての通り、化け物だよ」
声を絞り出す男にむかって、人型に変化したコマは、口の端を持ち上げて低い声で言ってやった。
ついでとばかりにつかんだ棒を、男ごと二人に投げつける。
情けない悲鳴を上げ、三人は逃げる為に立ち上がろうと、ぶざまに暴れる。
コマは男を投げた直後に一足飛びに間を詰め、坊主頭と茶髪の後頭部をつかみ、酷い音を立てて頭をぶつけ合わせて、三人同時に昏倒させた。
金色の目を細めて立ち上がり、黒髪の近くに転がっている果物ナイフを目にした。
拾い上げ、つまらなそうに鼻を鳴らしたが、ふと面白いことを思いついたように口の端を持ち上げる。
坊主頭以外、二人の髪を虎刈りにし、ズボンのベルトを切り、上着の背中を真っ二つにする。ついでにズボンのボタン、そしてファスナー部分も切り取っておく。
コマは満足そうにうなずき、ナイフをコートのポケットに入れた。
「楓、もう大丈夫だ。家に戻ろう」
硬直したように立っている楓に優しく触れると、楓は震えながら目をあけ、コマにすがる。
そんな楓をやんわりと押し戻し、視線を合わせる為に身を屈めた。
「家に、戻るぞ」
「……コマさん、怪我してない?」
「人間にオレは傷付けられないから、安心しろ」
楓に背を向け、ボタンを外しながら獣の姿に変貌を遂げるコマ。
黒いコートを地面に落とし、楓にくわえて渡す。
「ナイフがポケットにある。気をつけてくれ」
そんなコマの言葉に、楓が目を丸くした。
「本当に、怪我しなかった?」
「大丈夫だ。人間の、しかも子供の力でなど、オレには傷一つつかない」
ためらいながらも、楓はコートからナイフを取り出し、コートに挟み込んでカバンにしまう。
倒れたまま動かない、地肌が見えたり見えなかったりする頭になった三人組を放って、ゆっくりと元来た道に引き返しながら、コマは楓の足を気遣い、楓はコマを気遣いながら歩いた。
「楓ちゃん!」
案の定、門の前で待っていた楓父が顔を輝かせ、出迎える。
一本道だ。コマの悪漢退治は、さほど遠くないこの門前からは見えていたはずだ。
「コマ」
やはり来たかと耳を下げ、頭を低くしながら、楓父を伺う。
楓を抱きしめ目を細めた彼は、それでも抑揚なく、
「もう少し痛めつけてやれなかったのか? まあ、仕方がないか。お前の力で殴れば昏倒では済まんからな」
「……出来るだけの手加減はしました」
「ふん、もう少し力加減を覚えておけ」
弱り声を出すコマに、楓父は不服そうに言葉を投げつけた。
楓が小さく震えながら、楓父の胸の中で呟く。
「コマさんが、怪我しちゃうかと思って、怖かったの」
楓父は、その言葉に複雑な表情を浮かべ、ただ楓の頭を優しくなでた。
そっと身を離し、楓にコマの首輪を握らせて、家の中に入るよう促してくる。
「パパは?」
「大丈夫だよ、後片付けをしてくるから。安心しなさい」
優しく笑い、コマと楓が家の中に消えた事を確認すると、楓父は厳しい瞳で、三人へとゆっくり歩を進めた。
手を伸ばして、届くかどうかの位置まで来た時、楓父が三人に向けて声をかけた。
「出て来い」
男達は、ぴくりとも動かない。
静かだが、圧倒的な怒りを表して、もう一度だけ呼びかける。
「私を、これ以上怒らせるな。人間共もろとも消し炭にされたいか」
「……しょうがないわねぇ。もう、バレちゃったの?」
三人の口から黒い霧が吐き出され、一つにまとまり、長くうねった黒髪の女性が霧の中から現れた。
赤いルージュをひいたように赤く染まった唇を、大きく左右に持ち上げ、不自然に蠢く闇と同じ色の髪を、左手で優雅に後ろへ流す。
黒の霧を吸った者を、夢の世界に引きずり込み操る彼女――夢霧は、つまらなそうに小さく息を吐いた。
「あの狼クン、甘ちゃんねぇ。あたしだったら生かしておくだなんて、そんな勿体ない事、絶対しないわ」
腰をくねらせて楓父に歩み寄る夢霧。
いつの間にか、静かに黒い霧が彼を包んでいた。
「ねえ? 少しでいいの。小娘の血を、あたしに頂戴な。そしたら大人しく帰ってあ・げ・る」
艶やかな微笑を浮かべ、夢霧は右手の人差し指で楓父の顎に触れる。
楓父の胸に体を擦り寄せ、甘い言葉を吐く。
見下すように眺めていた楓父は、夢霧の瞳を見つめながら彼女の右手をつかみ、その甲に口づけた。
「消えろ」
楓父は口の端を持ち上げ、手を離す。
恍惚の表情を浮かべていた夢霧は、顔色を変え楓父から飛び退いた。
右手が崩れていく。その恐るべき速度に絶望の悲鳴を上げた。
「あたしに、何をしたの! いや、いやよ!」
彼女自身は儚く弱い。それ故に、道具がなければ自分の腕を犠牲にする事も出来ない。
「何故あたしの霧が効かないの! 闇も人も関係ない……はず――」
左手を頬にやり、驚愕の表情を作った灰の像。
楓父は微動だにせず、楽しむ表情を崩さず灰の像を見つめ、すぐにでも笑い出しそうな声で像に向かって囁いた。
「貴様ごときに、私が教えるとでも思うのかね?」
その言葉が引き金となり、灰は崩れ、風に吹き散らされた。
リズムを踏むかのような足取りで来た道を戻り、家の敷地に踏み込む。
「どんな者であれ、負の感情ほど気持ちの良いモノはないな」
すこぶる機嫌の良い声で、家に入る前に楓父は呟き、口の端を持ち上げた。
玄関扉に手をかけて、ふと顔を上げ誰に言うでもなく、付け足しておく。
「楓ちゃん以外だが」
一つうなずいてから、扉を開けた。心配そうに玄関で待っているだろう楓に向けての笑顔を、先に作っておきながら。