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闇夜からの誘い

 衝撃的な言葉に、楓は一瞬声を出せず、目を大きく見開いた。

 だが、その恐ろしい提案をした彼は、ひどく真剣で。


「コマさん……わがまま言ったから、怒ってるの?」


 気まずい空気の中、心なしか楓の声も強張ってしまう。

 しかし、コマは金色の瞳で楓を捕らえたまま、違うと答えた。

 その声は、あからさまに低いわけでもなく、冷たく突き放す物でもない。ただ淡々と質問に答えたにすぎなかったが、楓は落ち着かない様子で小さく身をよじらせた。


「この状況で、楓を外に出す事はするべきじゃないとは分かっている。だが、俺が虎女を助けに行って、万が一……そう万が一にも捕まって、別の迎えが来たら楓はついて行くだろう?」

「行く、かもしれないけど……コマさんでも、捕まっちゃうの?」

「その気はないが、何があるかは分からない」


 マフラーをしているのにも係わらず、首元がヒヤリとしたように感じて、楓はマフラーを口元まで引き寄せた。


「私が、皆の邪魔をしてる?」

「……邪魔、とは?」

「だから……」


 マフラーで口元を隠したまま、楓は一度、強く奥歯を噛みしめ、それから小さく口を開いた。


「私って、足手まといだよね」

「ってゆーか、人間相手じゃないから仕方ないだろう」

「コマさんだって、人間でしょう!?」


 思わず叫んで、我に返った。

 正面に座る銀色の大きな獣は、複雑な表情でいたが、目を逸らす事はない。

 そして、見てみろといわんばかりに、太く大きな右前足を持ち上げる。


「これが、人間か?」

「元は人間なんでしょ? だったら人間だよ。何の問題もないよ」

「問題は、ないのか」

「そうだよ」


 大きく、力強くうなずく楓に、やはりコマは苦笑するしかなかった。


 車のライトが催促するように点滅し、薄暗い部屋までそれが届く。

 ピンク色のミトンをはめた手を握りしめて、楓が顔を上げた。


「行かなきゃ」

「いいか、約束だぞ」

「うん、分かってる」


 さすがに緊張した顔で、楓はコマの首輪をつかむ。

 彼女の左側に寄り添いながら、コマは小さく舌打ちしたい気持ちを抑えてゆっくりと歩を進めた。


 黒い扉を開けば、冷たい風が行く手を遮るかのように二人に吹き付ける。

 外界との境界に見える、道路と庭の間にある柵に、楓は初めて安堵感を覚えた。

 物言わぬ柵に、守られている。そう思えるほど、待ち構えているセダンの黒い車からは、異質な雰囲気が感じ取れたからだ。


「……楓、やはり槙原様を待った方が良さそうだ」


 聞きなれた、だが緊張したコマの声に、楓が視線を落とす。

 この異様な空気に銀色の毛皮は逆立ち、唸り声を我慢しているのか鼻にはシワを寄せ、牙をむき出している。

 こんな顔をするコマを見たのも、初めてだった。

 楓は、震える指先で首輪をつかみ直し、怖くないと自分に言い聞かせる。しかし、根が生えたように、足が動かない。


「楓、家で待っているといい」


 毛は逆立てたまま、コマは険しい表情を幾分和らげて、楓の顔をのぞきこんだ。

 その心配してくれている顔を見て、いつの間にか体中に入っていた力が抜けていく。


「大丈夫だよ、大丈夫。行こう! コマさん」

「ってゆーか、今からそんな事では、先が思いやられるぞ」

「もう大丈夫! 助けるの。私が皆を助けるの」


 決意の表情をして、小さな少女は一つうなずいた。

 コマはそんな楓を家に閉じ込めておきたかった。だが、いつかは同じ状況が――いや、もっと酷い状況があるだろう。

 何も出来ず、何も見ずに過ごした所で、生き延びる事は難しいのではないか。


「コマさん?」

「何でもない。行くぞ」

「うん」


 今度は動きの悪い足も前に出た。力強く横を歩くコマを見て、自然と気持ちが大きくなった楓は、怖い気持ちよりも彼と共にいるという現実に、心が満たされ勇気が湧いた。

 自分に何が出来るかは、分からない。確実にコマ達の邪魔をしてしまうだろう事だけは、はっきりと見えるほどだ。

 しかし楓は、自分にも何かが出来るはずだと疑わず、先に乗り込んだコマに続く。

 黒い革張りの座席は、体重をかければ悲鳴を上げるように小さく鳴いた。

 誰かが話しかけてくるわけでもなく、その場にいるのは二人だけ。居たたまれない静寂に、楓が座席の上で身じろげば、ドアが静かに閉められる。

 広い足元にいるコマの毛並みを確かめるように、楓は手を伸ばし、コマは床に尾を軽く叩きつけて大丈夫だと返した。

 楓は、開くわけがないとは分かっていながらも、ドアに手を伸ばしたが、やはり動かない。一つため息を吐き、外を眺めようとするが、黒く塗られたような窓からは、一切の物を見る事が出来ずに、座席に座っているしかなかった。


 ――どれほどの時が経ったろう。

 夜はなお深くなり、霧が立ち込める。

 いつしかコマの鼻に、潮を感じた。

 そのしばらく後に、車はやはり静かに停車し、来た時の反対にドアが開かれた。


「着いた、みたいだね」


 コマが座席を土足で上がり向きを変え、外をのぞこうとした楓を横面で押し戻す。


「あ! コマさん今、土足で椅子に上がったね? 足拭いてないのに、駄目だよ!」

「………………」


 頬をふくらませ、少し厳しい顔をした楓を横目に、コマはただ小さく肩をすくめた。謝罪の言葉を言わないコマに、楓が眉をひそめる。大きな首輪を彼の後ろから力一杯引っ張るが、びくともしない。

 銀色の獣は、振り返る事もせずに外の様子を窺う為、夜目を利かせ、鼻も探るように動かした。


 地面は土ではなく、きちんと舗装されていた。波の音が止めどなく聞こえ、潮の香りが酷く近い。整然と建ち並ぶ倉庫の群れは、眠りについているかのように静かに鎮座している。所々にある外灯は、寒さが引き立つほどの寂しさをまとっていた。

 見える範囲の倉庫の窓には一切の光がなく、何者かがいる様子には見えず、人間のにおいは近辺にしない。

 だが、コマの鼻は人のそれとは違うにおいを捉えていた。

 車に残っていた、微かなモノと同じにおいを。


「コマさん?」


 顔をしかめ緊張を表した雰囲気が、後ろ姿からでも感じ取れたのだろう。楓の声は幾分固くなっていた。

 人狼だと相手側に知られていないなど、まずないだろうが、コマは普通の犬を装う為に声を出さず、楓に小さくうなずいて見せる。

 何か意味があるのだろうと気付いた楓も、首輪を握り直し、奥歯を噛みしめてうなずいた。


 コマが先に車から降り、周囲に意識を張り巡らせる。

 こんな緊張は、いつ振りだろうか。その思いがふと頭に浮かんだが、楓が片足を地面に下ろす前に、掻き消した。

 余計な事は考えず、この小さな少女を出来るだけ無傷で返さねばならない。

 それだけがコマの使命であるとばかりに、自らの持つ全ての感覚を鋭く研ぎ澄ませる。


『進め』


 少年の高い声が、辺りに冷たく響いた。

 思わず身を低くして牙を剥き出せば、楓が小さく首輪を引く。気負い過ぎれば、ネキさんを見つける前に疲れきってしまうかもしれない。

 そんな思いと、もう一つ。コマが楓を置いて、声の元へと走って行ってしまいそうな気がしたのだ。

 コマは金色の瞳を細めたまま、小さく楓を振り返り、不安げな彼女に大丈夫だとうなずいた。楓は目眩がしそうなほどのストレスの中、声を絞り出す。


「……行こう」


 口を結び、緊張を隠せないまま、二人は慎重に歩を進めた。

 小さな石を踏む音と、波が砕ける音だけが大きく響く。すぐにコマの鼻が、火のにおいをはっきりと捉え、緊張が増した。

 こちらに気付かせるために、火をつけたのだろう。だが、どこかの倉庫が燃えているような、大きなにおいではなかった。大量のろうが溶けているにおいも感じたからだ。

 そして、すぐに奥まった場所にある古びた倉庫の窓から、場を占める凍てつくほどの緊迫感とは程遠い、柔らかく暖かい色を映し、二人を呼び寄せるようにその光が揺らめいている。

 倉庫から数メートルの所で足を止めた楓に、コマも無理に引っ張る事もせず、彼女のそばで足を止めた。

 恐怖のあまり、動けなくなったのかと窺えば、彼女の顔は強い怒りに染まっていた。

 冷たい空気から、ノドと肺を守るかのようにマフラーを口にあて、大きく息を吸い込み、楓本人が驚くほどの、ついぞ聞いた事のない大声をあげた。


「ネキさんを、ここに連れて来て!」


 思いもよらない行動に、コマは大きく目を見開く。

 確かに、建物の中に罠だと分かっていて入って行くのは気が引けていた。だが、外よりも狭い空間の方が彼女を護りやすいのではとも考えていた。

 考えあぐねていた矢先に、楓の一声だ。思わず声を上げるところだった。


『いいから、中に入れ。大事な子猫の首がなくなるよ?』


 最初に聞いた、つまらなそうな声ではない。どこか楽しげな少年の声は容赦なく、楓達は建物の中に踏み込むしかなかった。



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