覚悟
楓父がどこかへと出かけ、二日目の夜を迎えていた。
誰かが尋ねてくるわけでもなく、食事の用意以外では穏やかに時が流れていると思っていた。
真夜中であるというのに、リビングを人工的な光が昼間のように照らしている。
唇を真一文字に結び、白いソファに座らされている楓は、苛立ちと焦りに落ち着きがない。
コマは、毛皮のついた身体で通せんぼするように立ち、顔だけを彼女に向けていた。
その状態で、まだ三分も過ぎてはいないのに、楓は立ち上がる事なくコマをにらむ。
「コマさん」
「駄目だ」
目の前の彼女から視線を逸らす事なく否定すると、柔らかそうな頬がみるみるうちに膨れ上がった。その様子に、思わず低い声で笑ってしまう。
「な、何がおかしいの!」
「……なんでもない」
オレンジ色のコートを羽織り、ピンク色のマフラーとミトンの手袋をきちんとはめている彼女は、ただ寒かったからというだけでこのような格好をしているわけではなかった。
コマは、白く消える息を大きく吐き出すと、さすがに楓は首をすくめる。
楓父もいないこの時に、しかも真夜中に外に出るなどという事が良くない事なのはわかっているからだろう。
少しだけ申し訳なさそうにコマを見つめ、口を開いた。
「コマさん、私が行かなくちゃいけないの」
「駄目だと、何度言わせる」
「こんな事してる間に、ネキさんが……ろされちゃうかもしれないのに?」
言いにくそうに眉をひそめ、強くコマに問いかけても彼は首を横に振るだけだった。
コートを握りしめ、悔しそうに下唇を噛む。
「アレは自分で出て行ったんだ。前にも言ったろう? 俺達は……」
「自分の身は、自分で守る? コマさんは、あんな映像を見てないから簡単に言えるんだ! あ、あんな……ネキさん……」
思い出したのか、手の色が白く変わるほど握りしめた。こんな痛みは、小さい事だと言い聞かせるように。
どちらにしても、彼女に傷をつけるわけにもいかず、コマが重い口を開いた。
「えいぞうって、何だ。何を見た」
「映像って言うのはね、ほらテレビとか。知らない場所の事が映るでしょ? あんな感じ」
分かったとうなずけば、楓は大きな瞳をくもらせてコマから視線を外す。
少し考えるようにして、小さな声で話し出した。
「部屋に入ったら、窓の外にネキさんがいたの。いたって言うか、空に、映ってた」
目を閉じて、その時の様子を洩らさず伝えようと思い出しながら。
「血が、出てた。痣だらけで、大きな鎖で縛られてて。大きな男の人に殴られて。次に時計が映って、十二を指してた。黒い車が迎えにくるの」
「それに、乗れという事か」
「そう、だと思う。女の子が最後に静かにしてって言うみたいに口に手を当てて」
その少女の真似をするように、楓が左手の人さし指を立て、口に当てた。
「下を向いたネキさんの髪の毛を、男の人がつかんだら、ネキさんの口が『くるな』って動いた。そしたら女の子の口は『おいで』って。それで、ネキさんを指差したから」
「楓が行かなかったら、ネキがどうにかなるって思ったわけか」
「うん。私の、せいだから。私が行けば、ネキさんは酷い事されないでしょ?」
「いや。それを言うなら、もう……」
考えたくもない事だったのだろう、コマが次の言葉を声に乗せる前に、大きな口というか鼻を押さえ込まれた。
茶色の瞳は、はっきりとした怒りが浮かんでいる。
「私が行くの。行けばネキさんが助かるんだから」
楓の力で抑え込まれた所で、口が開けないわけではない。コマはその小さな手を噛まないように気をつけながら、小さく口を開けた。
「それで、楓に何かあったら?」
「何もないよ、きっと……でも、私がいなくなれば皆が傷つかなくていいかもね」
「良いわけあるか!」
コマの強い口調に、ショートボブがふわりと揺れる。丸くなった目は、すぐに優しく微笑んだ。
色々と思う事があって、抱きつく事はなんとか我慢が出来たが、楓は嬉しそうに銀色の固い毛皮を何度もなでる。
それを複雑な顔でコマは眺め、歯噛みした。
こんなにも短い時間しか生きていないというのに、平気で自分を犠牲にしようとする楓。どうしてどんな手を使ってでも生きる為に戦おうとしないのか、コマにはそれが不思議でならなかった。
大切な者を守る為に出向くのは、分からないでもない。
だが、彼女はただの人間なのだ。話の通りであれば、ネキが何の抵抗も出来ずに殴られている。
そんな場所に彼女が出向けば、待っているのは分かりきっている事でしかない。
「コマさんは、優しいね」
「ってゆーか、楓はもう少し考えた方がいい」
「……その言い方は、ちょっと失礼な気がするけど。考えても変わらない。私が出来る事をしたいだけ」
「ネキは来るなと言ったのだろう?」
「女の子は、おいでって言ったよ。コマさんは、ここにいてね? パパが帰ってきたら、説明してくれる人が必要だから」
その柔らかくも恐ろしい言葉に、コマは目眩を覚えた。
残ってどうするというのか。いや、どうなるのかは目に見えて分かる。
「そろそろ十二時。行って来るね」
「駄目だと言っているだろう!」
「もう! またそこからだと、話が進まないから!」
「進むわけあるか! 俺が行くならまだしも、楓に行かせる事は、俺の死を意味するのと同等なんだぞ!」
「……いくらパパでも、そんな事しないよ」
「いや、する」
絶対だ。と付け加えれば、彼女は困ったようにコマの耳をつかんだ。
「大丈夫だよ。ネキさん連れて、すぐ帰るから」
「俺が行く」
「それは駄目だよ。私においでって言ったんだから」
少女が見せた指を口に当てたポーズは、誰にも内緒でと言っているようにも見えたから。コマさんが姿を見せたら、ネキさんが大変な事になるかもしれない。
お互いまたしても膠着状態に陥った。
今、この時に槙原様が帰ってきたら。と何度切望した事か。コマはそう思いながら、駄目だと繰り返すしかなかった。
無情にも、柱時計が静かな音を奏で始める。
外に、車の止まる音がコマの耳に届いた。
「ほら、もう時間がきちゃった。私行くね! 戸締りお願いね」
「行かせない。ネキは自業自得なんだ」
「私は、もしこれがコマさんでも絶対に行くよ。パパが駄目だって言って閉じ込められたとしても。窓を割ってでも、家を壊してでも行くんだから」
「……俺達からしてみれば、迷惑な話だ」
傷つくかもしれないと思ったが、そう口にする。
だが、楓は楽しそうに笑った。
「そうだろうね!」
決意は固いのだろう。
小さな彼女は気がついているのだろうか、白く薄い光が彼女を包んでいる事に。
決して屋外に出すわけにはいかなかった。コマの感覚を盗んで出て行けるとも思ってはいなかった。
もし行かせる事なく済み、次の日の朝にでも虎女の首が転がっていたら?
楓は悔やみ続ける事になるだろう。人は強い反面、壊れる事もたやすいのだ。
「俺がついて行くなら、出かけてもいい」
「本当!」
やはり一人では心細かったのだろう。獣の自分達を平気な顔で殴りつける事が出来る化け物の中に、分かっていて踏み込む事は相当な覚悟が必要なのだ。
輝きを増した彼女に、コマは苦笑した。
「俺の言う事は、絶対に聞く事。それが条件だ」
「うん。いつもの通りだね。分かってる、約束」
「もし破ったら……」
コマは真剣に見返してくる彼女に、厳しく目を向けた。
「楓の手で、俺を殺せ」