人心への回帰
扉を閉め切った中では、今までいた空間とは異彩を放っていた。
空気が押し潰してくる錯覚に陥りそうなほど重く、漆黒の闇で覆われている。
正面には、赤く光る相貌が浮かび上がり、こちらの様子を探るように瞬く。
「統治を怠り、引きこもるとは。ジャロック卿らしくない」
闇に生きる者として、黒一色で塗り潰されたような空間は、何の問題もなかった。
他の一族はともかくとして、光に護られた彼にとっては、ただの空間でしかない。
ジョイスは躊躇なく一歩を踏み出し、腕にかけていたマントが蝙蝠へと変化し、無数に飛び立つ。
「今度は、貴様か」
腹の底から響くような低音に、蝙蝠が長身の彼を護るように取巻いた瞬間、白い光が目前で弾ける。 盾となった蝙蝠は霧散しながら、だが減るスピードよりも速く数を増す。
ジョイスは、小さな同胞達の隙間から溢れてくるわずかな光に照らされ、口の端を大きく持ち上げた。
瞳はすでに赤く、楽しげな表情の中には、残忍な色をも織り交ぜられている。
「私と分からぬほど、夢に取り込まれたか!」
「……ジョイス、なのか? 敵味方が分からぬ今、誰をも信用する事は出来ぬ」
嘲笑と共に言葉を飛ばせば、苦痛に呻く声が返った。
攻撃的な光は幻だったかのように消え失せたが、目前に浮かぶ紅玉のような瞳は、警戒するように光続ける。
ジョイスはゆっくりと歩を進め、取り囲むように踊っていた蝙蝠は姿を消し、彼の肩に寄り添うマントへと姿を変えた。
「敵味方? そんな無駄な事を考えるから、身動きが取れなくなるのだ。いらない者を切り捨てられないのか? そんな甘さはなかったろう」
「……昔の話さ」
酷くしゃがれたその声は、決して弱々しいものではないが、苦虫を噛み潰した響きを宿していた。
ひょいと肩を竦め、マントを直しながら苦笑した。
目の前にいる白髪の男は、彫りの深いその顔を渋面に歪めている。
大人が座れないような、小さな椅子の背もたれに長い年月を彷彿とさせるシワだらけの骨ばった手を置いて、固くその目を閉じた。
「アンドレア」
その名前を口にすれば、乱れた白髪を揺らし、鋭い視線で抗議を表す。
だがジョイスは屈する事なく、楽しげに続けた。
「やはりな。だが断ち切れぬほど、溺れたか。アレが我が物となった時を、忘れたというのか!」
「後悔をしている。我に心が映った事を」
「あんたが、心を語るようになるとはね。だが、だからこそ。光と通じ、心を分かち合えたからこそ! この力を手に入れられたのではないのか!」
「我には、必要のなかった物だ。お前は違うとでも言うのか?」
静かに染み入る声は、ジョイスに苛立ちを与えた。
庚との日々は、間違いもあったろう。いや、吸血鬼と人間だ。間違いは掃き捨てるほどあった。だが、光を欲した事などなかった。
光を奪うとは、単に彼らを喰らえばいいというわけではない。
互いに想い合い、心が通ったその時に初めて彼らの血で光を与えられるのだ。
それを知る事は、光を手にした者にしか伝えられない。だからこそ、決して忘れてはならない物があるのだ。
「後悔を、していると言ったな。アンドレアの最後の意志は、そんなくだらない一言で消されてしまうものだと言うのか! 私は彼女を愛している、今でもだ。だからこそ最後の意志を尊重し続ける」
「人間ごときの戯言を……」
「そのゴトキと、心が通じ合えたのだろう? 我々には、それを全うする責任がある」
そう、義務ではなく、責任だ。
ジャロックは目を伏せ、眉間のシワが更に深く刻まれる。内側から囁く者は、屈強な肢体を持ち、どれだけ同族を統べていようが、彼の中で大きく居座っている。
もう酷い事するの、やめてよ。
ぼくとここにいよう? ずっと、二人で。
二人でいれば、他の事なんてどうだっていいよね?
小さな子供の声は、彼にすがりつき、嬉しそうに『ダディ』と呼んだ。
切り捨てられない。幻覚であれ、彼をもう一度消す事が出来ない。
こんなにも自分は弱かっただろうか。
「何を囁かれている。それは本当に大切な者が言う言葉なのか? 考えろ、ジャロック」
「貴様に言われずとも、分かっている」
「分かっていないから、こんな体たらくでいるのだろう?」
煮え切らないジャロックに、ジョイスは聞こえるように舌打ちする。
「永年生き続けている奴らと、同じ道は辿れないのだ。何も考えられずに、ただ血をすすっているだけになった同族共のようにはな」
古くなった小さな椅子に乗せられた手が、握り潰すのではないかというほどに背もたれを掴んだ。分かっていたはずだ。彼は、すでに死んだ。
弄ばれていようが、彼を見て触れられた事だけで、幸せだった。
「アンドレアと交わした、最後の言葉を思い出せ」
厳しい面持ちで、考え込むようにうつむいて。ジャロックは奥歯を強く噛みしめた。
ほのかな光が、椅子ごと彼を包み込み、数秒の後に消える。
小さな木の椅子も消し炭となり、年老いた手が離された瞬間、灰となって崩れ落ちた。
それを同じく厳しい眼差しで見届け、黒い短髪の上にシルクハットを乗せる。
「我々は、奴らとは違ってしまった。永く生きるほど、人の心が強くなるのか。面白い事案だ」
「……我等は、人の心を忘れるのだな」
「そうだろう。吸血族となり、生き血を口にしたその時から、我々は心を失っていく」
だからといって、誰しもに光を与えてやる事は出来ない。
光を取り込むという事は、大切な者を失うという事だからだ。
ジョイスは、戻ってきた城主に挨拶する事もなく、身を翻す。
「ジョイス、手間を取らせた」
「まったくだ。新たな私の光に、ちょっかいを出してくる輩は、強制送還させよう。始末はまかせる」
この城にいた時からのジョイスを知っているジャロックは、さすがに苦笑した。
「お前たる言葉とは思えんな」
「当たり前だ。大切な楓ちゃんに、凄惨極める現場など見せられるものか!」
「承知した」
いつぞやに見た威厳のある顔立ちに戻った彼が立ち上がるのを横目に、ジョイスは小さくうなずいた。
彼が戻ったのだ。汚れ、朽ちかけた城は、すぐに元に戻るだろう。
居心地の悪い、厳しい規律に満ちた空間へと。
ジョイスは小さく鼻を鳴らし、呪の解けた扉を大きく開けた。
「戻ってくるつもりはないか」
「あるわけがない」
背後にかけられた声にそう答え、その身を無数の蝙蝠に変え、城外へと飛び立った。
時間の概念がないこの空間に、外界ではどれほどの時が過ぎてしまったのか。
可愛いく小さな楓に、コマが何かするとも思えないが、信用は出来ない。いや、それ以前に食事の心配の方が大きかった。
芋虫や野鳥などを与えてやしないか、そればかりが問題である。
逸る心と同じくらいの速度で、蝙蝠は森の暗闇へと姿を消した。