静穏なる夜明け
白々と夜が明ける頃、張り詰めた冷たい空気も、ゆっくりと和らぎはじめる。
玄関の傍らでまどろんでいたコマは、かすかな気配に覚醒し身を起こした。
威圧的にそびえる黒い扉が音もなく開く。そして黒の革靴で、石の床を颯爽と入ってくる男、だが響くはずの靴音はない。
「槙原様、お疲れ様でした」
楓を起こさないよう、静かな声で出迎えるコマに、楓父は左眉を持ち上げた。
「……お前、誰から入れ知恵を受けた?」
「楓……様です」
コマを見もせず、不機嫌を顕わにしていた楓父は、シャツの首元のボタンを外していたが、楓の名前が出た瞬間、顔がほころぶ。
「やはり楓ちゃんは、彼女に似て聡明だな」
呟き、すぐに眉間にシワを寄せた。
電気も付けず、楓父がいまだ暗い部屋を見回す。出かけた時と違いがない事を確認し、コマをにらみつけた。
「コマ。バイトは辞めろ」
「……理由を」
楓父は足首まである黒のマントを外し、振り返る事もなく一階奥の部屋の暗闇へ消えた。
楓すら立ち入りを禁じているその部屋を、コマはしばし外から眺め、辛抱強く待つ。
白いシャツと黒のスラックス姿で、バスローブを片手に戻ってきた楓父は、正面で待つコマをにらんだ。
「言ったはずだ。お前は楓ちゃんの為にのみ存在する。いかなる時も離れるな」
コマは押し黙り、楓父は黒く湿った鼻に指をつきつける。
指には構わず、楓父から目をそらさずにコマは呻いた。
「一つの場所に、留まるつもりはない」
その言葉に楓父は、さもおかしな事を言うとばかりに口の端を持ち上げる。
「人狼であるお前が、楓ちゃんの傍から離れるだと? ……お前は、離れられん」
「それは、オレが決める」
少し毛を逆立て、低い声で言うコマだが、自分が発した言葉に心が激しく動揺した。それが何故かは分からなかったが、意識的にその乱れを押さえつけ静める。
どんな相手であれ、深く関わり過ぎてはならない。と。
楓父はバスローブをコマに投げつけ、パチンと指を鳴らした。
「それを着ろ。くれてやる」
人間の姿に戻るつもりはなかったのだが、彼の鳴らした音でコマは人型に変化した。
コマは低く唸って、バスローブに腕を通し二本足で立ち上がる。
「せめて人型でいろ。この私と話をする者が、獣とは気に入らん」
肩を怒らせ、楓父はキッチンへと消えた。
氷のような石の床を物ともせず、コマも足音に注意しながらキッチンに向かう。
「お前が来て一週間になる。不逞の輩どもが、様子見だけでは限界に近くなってきたようだ」
「ふてい?」
キッチンの入り口に静かにたたずみ、コマは眉をひそめた。
コンロの火を止め、楓父が振り返る。
「楓ちゃんを狙う者だ。闇に生きるモノが、どんな目に遭おうとも欲しがる光だ」
「……白い、光」
「やはり、お前も見ていたのか」
苦々しげにコマを見据え、楓父は熱い湯気を吐き出しているポットから、ゆっくりと手を離す。
近くにある椅子に優雅に腰をおろし、嘆息した。
「お前は……そうだな、さながら光に吸い寄せられる蛾のように、彼女から離れる事は叶わない」
眉間に手をあてながら、楓父はいかにも仕方ないとばかりの口調で続ける。
「それが何故なのか。まだ幼い頃から孤独の中生きてきたお前は知らんのだろう。それはそれで良い、知らぬままでいろ」
楓父は高まる気を落ち着かせるように、カップへ湯を注ぐ。
返事をせず、コマは続きを待った。一瞬の間が、何十年の時を生きてきた事よりも長く感じる。
「楓ちゃんを狙う者は、化け物から人間まで多様だ」
「人間もか」
「そうだ。だから彼女を勝手に外へ連れ出すな」
楓父の言葉に、コマは小首をかしげた。
「ってゆーか、それを思えば家にいても変わりないのでは?」
他にどんな化け物がいるのかは知らないが、二階の窓ガラスなど、簡単に突破可能だろう。
現にそれを行う事は、コマにとっても楽な仕事だ。
それを聞いて、楓父は蔑むようににコマを見て、鼻で笑う。
「この家は、奴らには触れる事すら出来ない。出来るのは鈍感な人間くらいのもの。だからこそ闇の者どもは、人間を取り込む」
「……人間に、扉を開けさせて中に入り込もうとするのか」
再び思案するコマに、楓父は呆れた声を投げつける。
「中になど入れるものか! 人間が敷地外に連れ出せば話は別だがな」
「では、なぜオレは家の中に入れる? 化け物に違いないでしょう」
椅子に座っていたはずの彼が、いつの間にかコマの目の前に立ち、革靴でコマの素足を容赦なく踏みつける。
低い声を立てて痛みに堪えるコマを冷たく見下ろし、楓父は更に力を加えた。
「お前は、この私に何度質問したら気が済むのだ? 彼女は大切だ、お前はただ身を挺して守り通せば、それで良い。わかったか?」
「……しかし」
「人間以外が万が一にも敷地に入る事があれば、拒否をしろ。それだけでいい、分かったか」
どのように? などとは聞けなかった。楓父の眼差しがすでに、自分で考えろと物語っている。
コマは、小さく唸りながらもうなずいた。
つまらぬ事をしたと足を解放してやり、楓父は顔をしかめて出過ぎた紅茶を流しに捨てた。
「細かい事を知りたければ、自分で調べるといい」
コマを見る事なく、静かな空気に声を乗せ、楓父は言葉を続ける。
「ただし、それを知った上で、お前が態度を変えるような事があれば。私がお前を灰にする。楓ちゃんが何を言おうともだ。覚えておけ」
「……はい、分かりました」
本当は何も分かってはいないが、野生の、化け物としての本能が逆らうなと警告を発している。コマはうなずくしかなかった。
分かった事は三つ。
巧妙に隠していたが、楓父は人間ではないニオイを、わざとコマに分かるようにしてきた事。
これはいつでも灰に出来るという、彼とコマの能力差を歴然とさせる為。
そして彼らを敵に回すべきではない。という事を本能に叩き込む為。
シツケは早いうちに叩き込めとはよく言うが。コマもとりあえずは従う事となった。
紅茶をあきらめた楓父はまた暗い奥の部屋に消え、コマは獣の姿に戻る。
玄関まで移動して、楓父が帰宅した時のようにぐるりと見回す。
コマは、初めてここに連れてこられた時、妙な感覚に襲われた事を思い出していた。
この家の敷地に近付くほど、頭がしびれ、全身に伸しかかる重みが気持ち悪かった。
自然と足が鈍り、近付く事がためらわれ、頭を何度も振った。
感覚をはっきりさせようとした時に、楓の声が意識をクリアにさせた。
「大丈夫よ。私のお客様だから、おいで」
枷が外れたように、重みも気持ち悪さもなくなった事を。
夜が明けていく。窓から溢れてくるオレンジ色の光に、コマは目を細めた。
まだ鳥は鳴かない。
バスローブを床に敷き、その上に丸くなり鼻から息を吐き出した。
「……おいで、か。なるほどな」
簡単な事だ。と心の中に留め、騒ぎ出した鳥達の声に耳を澄ます。
まだ楓は起きてはこないだろう。
カゴの中で安全に温かく囲われている鳥。外で危険と抗いながら自由を謳歌している鳥。
どちらが正しいなどコマには分からない。どちらを取るかは本人の考え次第だからだ。
思い悩む事はないはずなのに、コマは理不尽に揺れる。
孤独の中、いつも何かに追われて生きてきた自分は、自由であったとは思わない。
しかし陽の光の下を、そして月明かりの下を、季節を感じて歩く道は嫌いではなかった。
「楓の決める事だ。オレはそれに従えばいい」
鼻をバスローブのシワの間に潜り込ませ、コマは目を閉じた。
ゆっくりと光の色が変化していく。まどろみの中、コマはもう始まりの夢を見る事はなかった。