変化する者、しない者(2)
吹き飛んだ扉の向こうには小さな蝙蝠が跳ね回り、すぐに人影へと姿を変えた。
一番初めに出迎えた、黒いフードを目深にかぶった女がジョイスの前に立ちふさがる。
「お待ちくださいと、申し上げたはずですが」
「私は綺麗好きでね。汚れた物を一掃しただけだが、何か問題でもあったかね?」
「でしたら、城内全てお願いしたく存じます」
「誰がやるか」
そう言い放ち、顔の横に垂れた一房の黒髪に気づく。舌打ちをして、自らの長い黒髪に一瞥をくれれば、瞬時に短髪へと姿を変えた。
女は少し呆れながらも、彼を導く為、先へと歩き出す。
「長い髪がお似合いですのに」
「心して聞くがいい。男は短髪こそ似合うもの、これが楓ちゃんの言葉だ。リディアの好みなど必要ない」
「人間の娘に、それほど感化されてしまわれるとは……おかしなものですね」
おそらく楓本人も覚えてはいないだろうその一言が、ジョイスの中で大きく腰を据えている事に、リディアと呼ばれた女は小さく肩を竦めただけだった。
「グレッグは何をしているのか。この城がこんな有様で、大人しくしている奴ではないだろう」
「アレは、変わりました」
声が沈むでもなく、淡々と言葉を返してくる彼女の表情は後ろを歩いている為、窺い知る事は出来ない。もちろん、正面で対峙していたとしても、分からないだろうが。
グレッグとリディア。この二人は遥か昔から鉄面皮であった。ジョイスの目付けとして二人が付きまとった時など、さすがに心が病むかと思ったほどだった。と、それを口に出せば、仲も良ろしく「それはない」と口を揃えてきていたが。
どれだけ年月が過ぎようとも、いつも二人でいる姿が当然だった。似た者同士、気が合っていたのだろう。
だからこそ、グレッグがリディアの隣にいないという事実が信じられない。
粘つく通路に辟易しながらも、この城を、ジャロック卿を慕っていた者が一人消えた事に端整な顔が歪む。
一族の中において、広く深く世の理を知ろうとしたせいで異質だと蔑まれてきた自分ならともかく、グレッグがそんな考えを持つとは思えない。彼の存在意義は、この城であり、ジャロック卿を崇拝する事であったはずだ。
そして、リディアと共に在る事ではなかったのか。
「解せんな。あれは変わらぬ男だ」
「……永く在り続ければ、変わるものでしょう」
「私が人間世界へと降りた時を数えても、そう永くはないだろう」
「ジョイス様が仰ったのではありませんか。全てのモノは、滅びる為にあるのだ、と。それがこの時と重なっただけなのですよ」
確かにジョイスが言った言葉なのだろう。他種族との関わりを避けている一族連中が言うセリフでは在り得ないからだ。
だが、心という物は、そんな言葉で括られる物ではない事を、ジョイスは知っている。人間だけが持ち合わせている物ではないという事を、庚や楓によって、随分考えを改めさせられた。
「リディア」
「私の心を、操ろうとなさらないでくださいね」
「そんな事をしても、何も変わらないだろう」
声の調子を変えない布をかぶった後ろ頭を眺めつつ、ジョイスは頭の隅に引っかかりを感じる。かなり古い時に、同じ思いをした事はなかったか。
「リディア」
もう一度、声をかけてみると、彼女は立ち止まった。
瞬間的にジョイスは身構え、総毛立つ。
ことさらゆっくりと振り返ってきたリディアは、見えている部分の口元が酷く大きく、笑う形に歪められていた。だが、これは無理に作った笑顔ではない。滅多に見る事が出来ない、彼女の怒りだった。
「何をするべきか、私には分かっております。ジョイス様は黙って、なすべき事をなさいませ」
「ああ、分かっている。言っておきたい事があるのだが」
「まだ、何か?」
「私の名はジョイスではない。槙原徹だ、間違えるな」
「人間ごっこも、大変ね」
呆れたように小さく肩を竦めれば、かぶっていたフードが小さくずれる。
ジョイスは、それを見逃さなかった。
「お前、その顔をどうしたのだ」
言われ、無表情のまま細い指でフードを引き下げる。即座に背を向け、大きなストライドで先へ行く。
しかし、それを引き止めたのは、低く鋭い声で発した次の言葉。
「グレッグか」
「……あなたは、いつもそんな所ばかり鋭くていらっしゃる」
凛とした声には彼女の心を表すように揺らぎが生じていた。だが、一つの扉の前で足を止め、振り返った。
「ジャロック卿は、こちらにおいでです。おそらくあなたにしか開けられませんから、後はお好きになさって下さい」
「ああ、好きにさせてもらおう」
歩を進め、彼女のフードを剥ぎ取る。一瞬の事で、逆らう間もなかった彼女は、さすがに無表情ではいられなかったのか、小さく眉が顰められた。
艶やかな黒髪は高く結い上げられ、切れ長で印象的な瞳が、白く美しい肌によく映えている。だが、右耳から頬にかけて大きく歪み、赤黒い焼け跡が広がっていた。
ジョイスが大きく骨ばった左手で、彼女の頬に触れる前に、リディアは口を開いた。発せられた言葉は、厳しく冷たい。
「治さなくて結構よ」
「吸血族は、厳しく美しくあれと唱えていたのはお前だろう」
「治癒は、必要ないわ」
「厳しさを取る、か。いいだろう、リディアらしい」
手を下げ、彼女の前をゆっくりと横切る。
追いかけるように視線がついて来ている事には気づいていた。だが、声をかけてくる事はない。
グレッグとの間に、何があったかなどと聞いた所で、返ってくる言葉も決まっているだろう。言わないという事は、知るべきに値しないという事だ。
永い年月を通し、この種族において自らをさらけ出す事はない。お互いに干渉し合わないという暗黙の了解が根底にある。
扉の目の前に立てば、明らかに何かしらの呪がかけられている事が知れる。
その扉だけは染み一つなく、装飾を施された真鍮製のノブにも塵一つついていない。
躊躇なく手をかければ、音もなく扉が開かれる。
罠だろうが、気にかけずに踏み込めば、自然と扉は閉められた。
リディアが同じように手をかけるが、びくともしないその木の板に、両手の平を押しつけた。
「ジョイス。私は……」
手を扉に押しつけたまま、握りしめる。爪が手の平に食い込むほど力を入れ、しばらく何かに耐える表情を浮かべた。
しかしすぐに力を緩めると同時に手を離す。
右頬にそっと手をやり、固い声で自らに言い聞かせるように呟いた。
「忘れてはならない。これは、戒め。本当に大切な人を苦しめた、私の罰」
その表情は、普段のそれと変わらない物に変じている。
厳しさを漂わせ、リディアは身を翻し、その場を後にした。