変化する者、しない者(1)
彼は、深い眠りに落ちた。
それを確認したかのように、無数の蝙蝠が寄せ集まり、人型となる。うごめいていた蝙蝠が姿を消すと同時に現れた長い銀髪を持った男は、薄茶色の瞳をジョイスに向けて、くつくつと笑った。
部屋に踏み込んだ事が罠なのではない、城へ踏み入れた時からすでに仕組まれていたのだ。
部屋には、一切の家具は置かれていない。くだらない生物に成り下がった同胞など、どうして取巻きにしておくものか。敷き詰められたどす黒く染まった絨毯の上を軽やかに進む。
「光を取り込んだ奴ってさ」
直立したまま目を閉じているジョイスの顔をのぞき込む。端整な顔を傷つけてやろうか、という衝動もなくはない。
「それが一番の弱みになるんだぜ?」
息がかかりそうなほど近付き、微動だにしない彼に肩をすくめた。
仕事は終わったとばかりに彼から背を向け指を鳴らせば、壊れた形跡のない扉が静かに開き、一人の青年がジョイスの手を取り、案内をするようにそっと引っ張る。
夢幻に沈む彼は、導かれる方へと足を向けた。
「イレインに、捕獲したって連絡しなきゃなー」
口笛を吹きそうなほど機嫌良く、彼らとは反対方向となる部屋の奥へと足を踏み出す。
しかし、何かに絡み取られたようにそれ以上進めなかった。
動いたら死ぬ。そんな想いに囚われ、背筋が寒くなる。振り向く事も出来ない。
「首謀者は、あの小娘か」
真後ろからかけられた、心地良いほど聞き慣れた低い声に、コートニーは目を見開いた。
たんなる恐怖感からではない。背中に死を背負っているも同然だった。
「そんな……」
かすれたソレではあったが、それでも声が出せた事は奇跡に近い。
静かに話されるほど、恐れは増していた。
自分の力は、通用しなかったのだ。夢幻から抜け出す為には、愛する者をその手にかける事でしかない。
自然とその細身に震えが走った。
「コートニー」
その声が、男を縛る。震えは更に大きくなった。
「コートニー」
元々、青白い顔をしている彼の顔色は、もはや白に近い。
鋭くとがる牙をむき出しにして、コートニーは引きつるように笑った。
泣いているかにも思えるそれは、やがて嘲笑にも聞こえる高く激しいものに変わる。
振り返ったコートニーの目の前にいる男は、部屋に入って来た時の短髪ではなく、腰まである美しい黒髪をなびかせていた。
出会った頃から、見知ったその姿。
「帰って、来たんだね。また前みたいに、一緒に恐怖をばら撒きに行こうよ!」
「コートニー。貴様はしてはならない事をしたのだ」
「夢の中で殺した奴の事を言っているのなら、お門違いだろ? 自分の手で殺せたんだから、それは未練を断ち切れたって事じゃないか」
手を伸ばせば、すぐ届くその位置に憧れの彼がいる。
髪が元に戻ったという事は、その強悪な心も戻っているのだろう。昔のように。
コートニーは嬉々として、声をあげた。
「だからさ、俺達の方にノッてよ。さすがにジャロックの爺さんを殺すだけの力がなくってさー、困ってたんだよねー」
人さし指を立てくるりと回し、だからさ。ともう一度繋げる。
「あんたなら出来るだろ? 簡単にさ」
「ああ、簡単だ」
ジョイスはその響くような甘い声で、淡々とそう答えた。
その言葉を受け、コートニーは目を輝かせる。
だが、ゆっくりと持ち上げられた右手に、表情が強張った。薄茶色の瞳は逸らす事が出来ず、彼の行う緩慢な仕草を見続ける。
「力は、効かないって。さっきので分かってるだろ?」
震える声を、かろうじて絞り出し、銀色の長い髪を小さく揺らした。
無表情のままのジョイスは、その瞳を赤く染める。
「幻覚ならば、うろたえる必要もあるまい?」
「うろたえてなんてないさ」
「ならば好きにさせてもらおう」
「……あんた、変わったな。前置きするなんて、人間なんかに構ってるからかよ。そんなんじゃなかっただろ!」
そうだ。そんな男じゃなかったはずだ。とコートニーは悔しそうに歯を噛みしめた。灰となる恐怖とジョイスの変わり様に、葛藤を隠せない。
「やっぱり光がいるからいけないんだ。あんたが駄目になる」
「……言いたい事は、それだけか」
「山ほどあるさ! なんだよ、昔の気迫がないじゃないか! いるだけで周りが見えないほどのあの悪意はどこいったんだよ、光を渡せよ。あいつの存在が、あんたを駄目にする!」
「貴様が滅びれば、何の問題もあるまい。存在すべきは彼女であり、貴様ではない」
風通しが悪く、薄暗い一室であるというのに、ジョイスの周囲に気流が発生する。
白く柔らかい光が彼を包み、黒髪を弄ぶように吹き巻き始めた。
コートニーは恐怖よりも、その光に魅了された。目を見開き、その風に誘われるように銀髪がジョイスの方へと引き寄せられる。
「俺がいなくなったら、爺さんにかけた術が解けないぞ!」
自分に出来た事ならば、おそらくジャロック卿とて簡単なはずだ。それが何を手間取っているのか。もちろん、分からないではなかったが、舌打ちをしたい気分だった。
こんな小者など、本来ならば相手にするべくもないのだが、赤い瞳に何度も映る厄介なモノに、長い事苛立ちを覚えていたのだ。
楓が、徐々に自分から離れていってしまっている事実に。
こいつさえ、いなくなれば。と何度思った事だろう。
だが、楓が彼を気に入り、想いを寄せているというのに、平気で危ない目に遭わせようとする男。
それを見せつけられ続け、彼女の為に消す事さえ容易ではなくなってしまった銀髪の男。
「悪い虫は、やはり最初に潰さねばならん」
「はぁ?」
「迅速に、確実にだ」
「な、何の話を……!」
剣呑な光に染まった赤い瞳が、目の前にいる銀髪の男を捕らえる。
闇を撒き散らしていた頃とは違う彼にとまどいながら、コートニーは自らを無数の蝙蝠へと姿を変えようとした。
――瞬間、部屋の中に光が溢れる。
日中の陽差しのような、鋭く白い光。
「いやだ! 俺は、まだ――!」
光と風の本流に、コートニーの姿が掻き消える。
その光が収まり、暗闇が色濃く辺りを覆った。正面にあったはずの石壁は消滅し、小さな破片が音を立てて落ちてくる。
ぽっかりと口をあけた向こう側には、鬱蒼とした木々がのぞいていた。
その場に佇むジョイスは、何の感慨も憂いも見せる事なく、シルクハットとマントを取り上げた。
それを被るわけでもなく振り返り、扉を蹴り飛ばす。
八つ当たりが足りなかったかのように。