過去との対峙
白々と夜も明ける頃。
コマは外からの気配を感じ、薄く目を開けた。
気配というよりかは、においだ。懐かしくもあるが、相対したくない者の。
敷地内からではない。それは、いかに『彼』が力ある者だとしても、この土地に入り込んだりは出来ないだろう。
風上にいるのか。位置が分かるほどの場所に立つなど、酷く神経質な『彼』にはありえない。
どのようにして居場所を知ったのかは分からないが、あからさまにコマに向けて存在を主張してきている事は確かだ。
「……出て来いとでも言う気か」
そんなつもりは毛頭なかった。もう自分とは関係のない者だ。
現に、はるか昔に『彼』と離別した時、次に会う時は敵同士だと思えとさえ言われたのだ。
ここから動かなければ、侵入すら出来ない『彼』は諦めざるを得ない。
「今更、何を?」
ふと楓の部屋へと目を向け、ギリと歯を鳴らす。
狙うべきものは、彼女しかないだろう。
自分をどこかしらで見て後をつけ、光と呼ばれる彼女を発見したに違いない。
身を潜める事が得意である『彼』にとって、尾行などお手の物だっただろう。
いつからなのかは、この際問題ではない。
とにかく、楓を守りきる事が先決である。とコマは立ち上がった。
コトリと二階の一室で音が鳴る。
瞬時に総毛立ちながら、コマは一跳びに二階通路へと降り立った。
「楓!」
力加減などせず部屋の扉を後足で蹴破り、中へと転がり入る。
大きく開けた窓に手をかけたまま、驚いて振り返る楓。
コマは全身を使って窓際から引き剥がした。
「何をしている!」
「何って、コマさんの知り合いだっていう狼さんが外にいるの」
「いない! 俺に知り合いなど、存在しない。いるのは敵だけだ」
「嘘! あの狼さんは、コマさんの事よく知ってるみたいだったよ」
「まさか、許可をしてないだろうな?」
「パパもいないのに、そんな事しないよ!」
抗議の声をあげる楓に低く唸りながら、ベッドから毛布を引きずり出して身体をくるむ。
人型に変化して、窓の外を用心深く窺った。
薄闇の中、たしかに一匹の大型狼が赤い瞳を向けている。
くすんだ灰色の毛並みは、所々に黒い毛が混ざり、コマよりも一回り大きい体格をしている。大きく違う点は、左耳がなく大きく古い傷が頭に残っているという事くらいか。
「出てこい」
疲れたような低くかすれた声は、はるか昔に聞いたものと酷似している。
「そんな義務はない」
酷くのどが渇く。思わず引きつるような声になってしまったが『彼』は、構わなかったようだ。
コマの緊張が伝わったのか、楓が毛布を小さく引っ張る。
大丈夫だとうなずき、手で楓に下がるよう指示をした。
面白そうに低く笑う声が聞こえてくる。
「狼が義務を語るのか。威厳を忘れたか、イチの子よ」
「……俺は」
歯軋りをして、小さく楓を顧みる。
見守るかのように返ってくる茶色の瞳は、全てを包み込んでくれるかのように澄んでいた。
彼女なら、もしかして――
そう思いかけ、頭を振った。
『希望』など、この世のどこにもなかった。そう、どこにもだ。
「俺は、人間だ。人の子として生まれた! 貴様のせいで、この有様だ! 今更……何をしに来た!」
背後から息を呑む声が聞こえた。
信じられない事実だったのだろう。一人の人間が、一匹の獣のせいで化け物に変貌するなど、誰だって信じたくなどない。
コマは振り返らなかった。彼女の顔を見られなかった。
どうしようもなく、窓の外に目を向ければ、狼が静かにこちらを見ている。
以前にも、こんな事があった。
そう。もういつの記憶だったのか思い出せないほどの頃に――
――おぼろげにある、一番古い記憶。
部族同士の争いの中で、両親を失い、焼け出され、森へと逃げ隠れた。
冷たく暗い森の中で、死にかけていた小さな自分。
川の浅瀬に放り込まれて目を覚ませば、岸には『彼』がいた。
水がこんなにも大切な物だったと、初めて気付かされたのも、この時だった。
『彼』の隣には、大きな白く美しい狼。
つがいの彼らに、助けられたのだ。彼らが話す人の言葉を不思議に思いつつも、意思の疎通が出来る事に、安堵する。
彼は彼女をイチと呼び、彼女は彼をタイと呼んだ。
「お前は、私の息子になるの」
そうイチは言い、次第に自分の傍から離れなくなっていった。
生きていく為には、彼らについていくしかなかったし、親しくしてくれるのに離れる理由などない。
深い森の中で教わった事は、棘を避ける歩き方。昼間でも暗い森に口を開けている深い溝の避け方。そして、一番強烈だったのは、大きな芋虫の食べ方だった。今では何の違和感も吐き気もないが。
幼かった自分に寄り添うイチには、子供がいたそうだ。
それが人間に殺された。それなのに自分を拾った事に、タイは辟易し、自分と関わりを持とうとはしない。
その事も幸いしてなのか、イチは自分に傾倒していく。
そして、彼女は自分に秘密を明かした。人間にも変身出来る事、狼でも人間でもない事を。
だが、自分にはそれすらも関係なかった。
必要最低限しか命を奪わない彼らと、何の糧ともしないのに平気で殺す人間と、どちらにつくかと問われれば、彼らに決まっていたから。
しかし、人間である幼い自分が日に日に成長していくのに、イチは気の焦りを感じたのだろう。
彼女たちよりも、遥かに短い生命の現実に。
ある冷たい夜。
木々が激しく震えるほどの咆哮に、飛び起きた。
深く闇をもたらす森の中でさえ、差し込む強く白い光。満月の夜。
獣の姿だが、二本足で立っている白く美しい彼女は、荘厳ささえも感じられる金色の瞳を光らせて、熱い息を吹きかけてくる。
その場にタイがいたかどうかなど、分からなかった。
剥きだしになった大きな牙が、目前に迫り、右肩に走る激痛の中で意識を失った。
目を覚ませば、血まみれのタイが酷く疲れた顔で少し離れた場所から見つめている。
イチの姿が見えない事が、その時の自分には救いでもあった。
タイは何も言わず、自分も何も聞けなかった。
しかし、その時から自分は人ならざる者になってしまったのだ。
変化は疑惑を生み、年月が経つごとに怒りや憎しみへと変わる。
タイは育てる気などなく、自分は彼にただ必死についていくしかなかった。
長い年月の間に森が少しずつ減っていき、その端を狼の形で歩く機会も増えれば、人間と触れ合う事も多くなる。
人間が、とても恋しいのだと痛感もした。
その時から、人の姿でいる事が増えたが、タイは何も言わず顔をしかめるだけ。
自分が愚かだったのだ。
親しくなった人間の子供に、いつかのイチのように秘密を明かせば、人間は自分を追った。
見世物にする為、そして従わなければ平気で殺そうする。
そんな人間の性質を知っていたはずなのに、それでも人間を信じたくて、親しくしてくれた彼に助けを求めようと逃げ込めば、悲鳴をあげられ、鎌を振り上げてきた。
その時の目の前が暗くなるほどの絶望と、湧き上がってきた怒りに声を上げた事までは覚えている。
しかし次の瞬間には、崩れた家屋に広がる血の海の真ん中に、自分は立っていた。
血まみれになった自分の下には、血肉の塊がどす黒い海に沈み、むせ返る臭いに息が出来ない。
目の端に映る、見知った顔。生きてはいないと見て取れるソレに近付く事も出来ず、ただ逃げた。
自分は人間の傍にいられる者ではなかった。
力の差がありすぎるのだ。
だが、それでも人間を見かければ、胸がしめつけられ、叫びたくなるほどの思いが湧き上がる。
しかし、傷つけたくない思いから人間とは極力関わらないようにしているのに、人間は自分たちを追いつめてくる。
獣の縄張りなど関係なく、平気で場を踏み荒らし、鉛玉を打ち込んでくるのだ。
油断し、追い詰められたタイが容赦なく彼らに牙を向ければ、自分が間に入り、とにかく逃げた。
そんな人間贔屓が気に入らなかったのだろう。
「増え過ぎた獣は、狩り減らさねば悪影響しか及ぼさない。現実を見ろ、森はなくなり、獲物は減った。それは誰のせいだ? 獲物が人間に代わった所で、何が悪い」
彼とて、半分は人間で。
おそらく自分よりも遥か昔は、人間であったはずなのに。
タイは横暴で身勝手な人間に、牙を剥き始めていた。
それでも、人間と共に歩める道を選びたいと言えば、タイがはっきりとした敵意を自分に向ける。
「イチの子と思い、我慢していたが……限界だ、目の前から消えろ。次に会った時、お前は敵だ」
手酷い怪我を負わされながら、彼から必死で逃げた――
――そのタイが、自ら姿を現した。
コマは、今立つ所が、彼には踏み入れる事が敵わない場所だと分かっていても、思わず身構えてしまう。
タイのような者でも、光に引きずられてしまうのか。と、舌打ちをした。
「何も『特別』な人間に興味があるわけではない」
心を読んだように、低いハスキーな声をかけられる。
それを素直に信用するはずもなく、金色の瞳を逸らさない。
一瞬、赤い瞳が憂いのようなゆらぎを見せたが、瞬きによってすぐに消える。
「凶悪な者たちが、その家を取り巻いている」
厳しい口調でそう言えば、何かを察したように毛を逆立て、空を仰ぎ見る。
すぐさま身を翻したタイに、コマが眉を顰めた。
「何を……」
コマの声にも、振り返る事なく彼の姿や気配までもが消えた。
この家にいる事で、感覚が鈍ったのかもしれないが、コマにはタイが感じ取った気配を感じ取る事が出来ない。
とりあえずしっかりと窓を閉め、考える。
警告の為だけに、現れたとでもいうのか。
すぐに治ると見越していても、なお酷い傷を負わせたタイ。
信用してはならない。だが、警戒はしてしかるべきなのだろう。
彼が危険だと言えば、それはいつだって正しかったからだ。
一人で生きていた少し前の頃と比べれば、感覚は酷く鈍っている。
だが、楓を護らなければならないと、気が引き締まる。
振り返ったコマに、楓が複雑な表情で見つめ、
「コマさんは、人間だったんだ」
「……思い出せないほど、昔の話だ」
重い口を開き、楓の本心を探るように目を逸らさずにいれば、思いがけずも彼女は嬉しそうに笑った。
「良かった!」
コマは意味が分からなかった。
聞き返してくる人間などいなかった。曖昧に誤魔化されると思いこそすれ、まさか笑顔を向けられるとは思わなかったのだ。
面食らって、思わず聞き返す。
「何がだ」
「何って! 覚えて、ないの?」
「何をだ」
「だから、その……」
楓の顔が真っ赤に染まり、みるみるうちに表情が怒りを表していく。
くるくると変わる彼女の表情と、普段とまるで変わらない態度に、コマは困惑した。
「コマさん、知ってて分からない振りしてるんでしょう!」
「だから、何をだ? ってゆーか、まだ早い時間だから。大声は近所迷惑だぞ」
「うるさい、うるさーいっ! コマさんが一番うるさい! もういいよ、寝るから出てってよ!」
更に大声で喚いて、楓は毛布を巻いたままのコマを追い出した。
蹴破られた扉は、今の騒ぎの間に不思議な力のおかげで元通りになっている。
そんなけなげな扉を、また激しく音を立てて閉めた。
「コマさんのバカ。好きって……そんなに、流されちゃうような事?」
小さな呟きも、コマの耳をもってすれば届いているかもしれない。楓は聞こえてもいいつもりだった。
だが、きっと彼は聞こえない振りをするのだろう。
もう人間ではないのだから。と、そんなつまらない理由で。
それじゃあ答えにならないよ。
楓は、心の中でそう呟いてベッドに潜り込んだ。
楓父に貰ったマフラーとミトンを握りしめる。
同じ状況にあったはずの、写真でしか顔の知らない母を想いながら、楓はきつく目を閉じた。
夜を越えても、楓父は帰らなかった。
コマは狼の姿に戻り、定位置に身体を丸める。
楓の呟きは確かに聞こえていた。だが、だからといって応えられない事も分かっている。
ならば何も聞かなかった事にするのだ。それも、いつもの事だ。
コマは、小さく焼け付くような痛みを胸に感じる。
それを宥めるように、誤魔化すように鼻を尻尾の下に入れる。
彼女を護る為に戦うという事に異存などない。むしろ本望だ。
だが、これから煮えない野菜にまた悪戦苦闘する事を考えれば、思わずしかめ面になってしまうのであった。